第45話 黒い塩を、全部捨てるのは簡単だ
東市場の乾燥場へ向かう道中、俺はずっと塩のことを考えていた。
塩。
昨日までは、ただの調味料だと思っていた。
保存に必要。
味に必要。
体に必要。
それくらいは分かっていた。
だが今は違う。
塩は、豆の道を守るための約束だった。
南西農村連合へ「七日以内に届ける」と言った信用そのものだった。
その第二便候補に、黒い斑点。
嫌な予感しかしない。
【警告:塩再乾燥品に汚染疑い】
【第二塩便、停止推奨】
表示は消えない。
俺の隣にはミレーユ。
後ろには修道女リナ。
護衛にマイラ。
そして、なぜかニコ。
「ニコ、なんでいるの?」
「乾燥場の人たち、夜食まだだと思って」
「判断基準が完全にバルロさん」
「はい」
継承されている。
飯で場を取る思想が、完全に配送局の文化になりつつある。
ただ、今夜はそれが助かるかもしれない。
夜の乾燥場で、汚染疑いの塩を前にした人間は、だいたい不安になる。
温かいものがあるだけで、少し落ち着く。
◇
東市場の乾燥場は、旧倉庫の裏手にあった。
屋根付きの広い作業場。
床には木枠。
その上に布が敷かれ、湿った塩が広げられている。
火鉢と炭。
風通し用の窓。
夜なのに、数人の作業員が不安そうに立っていた。
乾燥場の責任者らしき男が、俺たちを見るなり頭を下げた。
「局長、申し訳ありません。再乾燥中の塩袋に黒い斑点が……」
「まず、誰も触ってない?」
「はい。見つけてすぐ作業を止めました」
「正解です」
俺は塩袋へ近づいた。
黒い斑点は、袋の外側にいくつか出ていた。
中の塩にも、少し黒い粒が混ざっているように見える。
嫌な見た目だ。
黒霧残滓を思い出す。
修道女リナが浄化布を手に近づき、慎重に確認する。
「……強い黒霧反応はありません」
「強い、は?」
「弱い反応はあります。ただ、塩そのものではなく、袋と床側です」
塩そのものではない。
俺は金色の線を見る。
倉庫。
濡れた袋。
床。
古い炭。
黒い粉。
そして、倉庫奥の壊れた換気口。
【汚染源候補:旧倉庫床材・煤・微弱黒霧残滓】
【塩全量廃棄は非推奨】
【仕分け推奨】
「全部捨てる必要はないかもしれません」
俺が言うと、作業員たちが一斉に顔を上げた。
ミレーユはすぐに反応した。
「仕分けですね」
「はい。袋の外側が駄目なもの、塩の表層だけ駄目なもの、完全に駄目なものに分けます」
責任者が不安そうに聞く。
「食用にできますか?」
「今すぐ断言はしません」
ここで甘いことを言うと危ない。
「リナさんの確認と、乾燥後の再検査が必要です。黒い粒が混ざった部分は食用には回さない」
リナが頷いた。
「食用、保存用、非食用に分けましょう。微弱でも黒霧反応のあるものは、人の口に入れない方がいいです」
「非食用は?」
ミレーユが答える。
「皮革処理、道の処理、家畜小屋の一部用途。ただし黒霧反応が残るものは別扱いです」
無駄にはしない。
でも、人には食わせない。
その線引きが大事だった。
◇
仕分け作業が始まった。
まず、札を作る。
白札ではない。
青札でも黄札でもない。
今回は資材札。
トマがいたら即座に分類名を決めただろう。
俺は仮で木片に書いた。
【食用候補】
【再乾燥後確認】
【非食用】
【廃棄・封印】
エマがいたらもっと分かりやすい絵にしてくれるはずだ。
今は文字で我慢。
マイラが無言で袋を運び、作業員が中身を広げ、リナが反応を見る。
ミレーユは数量を記録する。
俺は線を見る。
ニコは隅で、作業員たちに薄くない豆汁を配っていた。
「熱いので気をつけてください」
「すまねぇ……夜まで作業で腹が減ってたんだ」
「塩は少なめです。今、塩が問題なので」
「それはそうだな」
作業員たちが少し笑った。
場の空気が、ほんの少しだけ緩む。
飯の力、やっぱり強い。
仕分けの結果は、思ったより悪くなかった。
完全に食用不可は三袋。
袋の外側のみ汚染疑いで、中身の中心部は再乾燥後確認できそうなものが四袋。
そのまま使える可能性が高いものが六袋。
ただし、全部すぐには出せない。
「第二便に使えるのは、今のところ六袋だけですね」
ミレーユが言った。
「残りは確認待ち」
「約束量には足りない」
「はい」
俺は地図を見る。
第一便で九割近くまで来た。
残り一割。
今回の六袋で、その半分くらいは埋まる。
まだ少し足りない。
【塩約束量:九割 → 九割五分確保見込み】
【不足:小】
小。
でも不足は不足だ。
信用を守るには、最後まで届けたい。
◇
その時、マイラが倉庫奥で足を止めた。
無言で手招きする。
俺たちが向かうと、そこには古い袋の山があった。
使用済みの麻袋。
濡れて黒ずんだ床。
壊れた換気口。
そして、黒い粉が床の隙間に溜まっている。
リナが浄化布を近づける。
「ここに、微弱な黒霧残滓があります」
「倉庫の床から?」
「はい。ただし、濃くはありません。黒霧災害時に風で入った粉塵が、湿気で残ったのかもしれません」
ミレーユが床を見て、眉をひそめる。
「ここに塩袋を置いたのは誰ですか?」
責任者が顔を青くした。
「昨夜、乾燥前の一時置き場として……」
「一時置き場の札は?」
「本来は手前です。ですが、手前が埋まっていたので、奥へ……」
俺の視界に赤線が走る。
【原因:保管場所ルール未整備】
【再発リスク:高】
誰かの悪意ではない。
少なくとも、今見える範囲では。
だが、ルールがなかった。
危険な床。
使える床。
一時置き場。
乾燥済み。
再確認待ち。
それが曖昧だった。
その曖昧さが、塩を汚した。
「悪意じゃなくても事故は起きる」
俺が言うと、責任者が肩を落とした。
「申し訳ありません……」
「責めるより、次を止めます」
ミレーユが頷く。
「乾燥場にも札制度が必要ですね」
「また札が増える……」
思わず呟く。
だが必要だ。
情報の札だけではない。
現場の状態を示す札。
これは食用。
これは確認待ち。
これは非食用。
これは触るな。
それがないと、また混ざる。
◇
俺はその場で、乾燥場用の札を決めた。
【白丸:食用可】
【三角:再確認待ち】
【黒線:非食用】
【赤罰:触るな・封印】
エマが見たら、もっといい名前をつけるかもしれない。
とりあえず応急。
リナが封印が必要な袋に浄化布を巻く。
マイラが倉庫奥の通路を封鎖する。
作業員たちは、食用候補の塩を手前の乾いた場所へ移す。
ミレーユは数量と場所を記録する。
ニコは作業が終わった人に豆汁を配る。
配送局らしい夜だった。
地味で、泥臭くて、でも命に関わる。
【乾燥場仕分け制度:暫定導入】
【塩汚染再発リスク:低下】
【第二塩便:一部再構成可能】
よし。
完全ではないが、道は戻った。
◇
局舎に戻ったのは、夜更けだった。
トマはまだ起きていた。
顔を見た瞬間、俺は少し申し訳なくなった。
「寝ててよかったのに」
「塩の記録が来る気がして眠れませんでした」
「胃ですか?」
「胃です」
もう完全に予知胃だ。
ミレーユが仕分け記録を渡す。
トマは目を通し、即座に項目を書き換え始めた。
「食用候補、再確認待ち、非食用、封印。乾燥場台帳を分けます」
「また台帳」
「必要です」
「はい」
反論しない。
もう台帳は道だ。
記録がなければ、塩はまた混ざる。
混ざれば、誰かが倒れるかもしれない。
トマは筆を止めずに言った。
「第二塩便は?」
「六袋は出せそう。残りは確認待ち。約束量には少し足りない」
「では、マルタさんへ中間報告を出すべきです」
「明日?」
「今夜中に書いて、朝一で」
厳しい。
でも正しい。
遅れるなら、先に伝える。
隠さない。
信用を守るには、それが必要だ。
◇
翌朝。
南西農村連合へ、中間報告便を出した。
【塩第二便について】
一、再乾燥品の一部に汚染疑いを確認。
二、食用可・再確認待ち・非食用に仕分け中。
三、第二便は安全確認済み分のみ先行配送。
四、不足分は代替調達または第三便で補填。
五、汚染疑い品は食用に回さない。
マルタなら、怒るかもしれない。
だが、隠して後で発覚するよりはいい。
配送局は、良い知らせだけを届ける組織ではない。
悪い知らせも、早く、正確に届けなければならない。
それもまた配送だ。
◇
午前中、マルタから返事が来た。
早い。
木板には、彼女らしい力強い字でこう書いてあった。
【正直に知らせたことを評価する】
【食用不可を混ぜるな】
【足りない分は第三便でもよい】
【ただし、種豆保存用の塩は最優先】
俺は深く息を吐いた。
「助かった……」
ミレーユも頷く。
「信用が残りましたね」
「第一便を早く届けておいてよかった」
「はい。先に実績があるから、遅延報告も受け入れられます」
これも配送の基本なのかもしれない。
最初にちゃんと届ける。
問題が出たら隠さず伝える。
代案を出す。
それで、信用は完全には壊れない。
◇
次の問題は、不足分だった。
塩はあと少し。
でも、その少しが重い。
商会備蓄を削りすぎると、エルドベルク側が薄くなる。
貴族区はもう出した。
東市場の再乾燥品は限界がある。
北の塩商人は到着まで時間がかかる。
「どうするかな……」
局長席で地図を見ていると、バルロがやってきた。
手には小さな袋。
「これを見ろ」
「何です?」
「漬物屋の塩だ」
「漬物屋?」
「西区に古い漬物屋がある。店は閉めてるが、塩は持ってるはずだ」
漬物屋。
完全に盲点だった。
金色の線が、西区の細い路地へ伸びる。
【候補:西区旧漬物屋の保存塩】
【注意:品質確認必要】
「バルロさん、何で知ってるんですか」
「昔、あそこの婆さんが作る漬物がうまかった」
「飯ネットワーク強すぎる」
「飯の道は古い」
名言みたいに言う。
でも、今回は本当に助かるかもしれない。
◇
西区の旧漬物屋へ向かうと、そこには小さな古い店があった。
戸は閉まり、看板も色あせている。
中から出てきたのは、腰の曲がった老婆だった。
名前はサナ。
バルロを見るなり、目を細める。
「まだ生きてたのかい、バルロ」
「そっちこそな」
「口の悪さは変わらないね」
「漬物の腕は落ちたか?」
「喧嘩売りに来たのかい」
古い知り合いだった。
俺は横で小さくなっていた。
バルロは事情を説明した。
南西農村へ塩を届ける必要があること。
豆の保存に使うこと。
汚染疑いの塩を食用に回せないこと。
サナ婆さんは黙って聞いていた。
そして、店の奥へ俺たちを案内した。
そこには、古い塩甕が並んでいた。
「店は閉めたが、塩は残してある。漬物屋が塩を切らすわけないだろう」
強い。
職人の誇りだ。
リナが確認し、ミレーユが品質を見る。
問題なし。
量は多くない。
だが、不足分を埋めるには十分だった。
「買わせてください」
俺が言うと、サナ婆さんは鼻を鳴らした。
「金はいらん」
「いや、それは」
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「西区避難所に、漬物を出す場所を作りな。飯が粥ばかりじゃ、口が飽きる」
バルロが笑った。
「それはいい」
「でしょう?」
サナ婆さんはにやりと笑った。
「塩を使うなら、うまく使いな。保存だけじゃつまらない」
こうして、不足分の塩は手に入った。
代わりに、西区避難所に漬物小屋を作る仕事が増えた。
配送局、また広がる。
【西区旧漬物屋より保存塩を確保】
【塩約束量:百パーセント達成見込み】
【新規候補:避難所保存食・漬物運用】
「百」
よし。
塩、集まった。
◇
局舎へ戻ると、トマが記録を見て頭を抱えた。
「漬物運用……」
「増えました」
「保存食台帳が必要ですね」
「やっぱり?」
「必要です」
バルロとサナ婆さんは、すでに避難所の漬物について話し合っている。
怖い。
食の職人同士が組むと、配送局の仕事が一気に増える。
でも、これは良い増え方だ。
保存食が増えれば、食糧安定度が上がる。
味が変われば、不満も減る。
塩の価値がさらに高まる。
◇
夜。
塩第二便の準備が整った。
安全確認済み六袋。
サナ婆さんの保存塩。
合計で不足分を埋める。
再確認待ちの塩は、無理に食用に回さない。
非食用分は別管理。
封印分は教会へ。
これで、南西農村への塩約束は守れる。
俺は局長席で今日の記録を書いた。
【塩汚染疑い、仕分け対応】
【食用不可品を除外】
【西区旧漬物屋より保存塩を確保】
【塩第二便、明朝出発可能】
【避難所保存食運用、検討開始】
最後に、局長メモを一行。
【悪い知らせを早く届けることも、信用の配送】
トマが覗き込み、少し考えた。
「これは月次報告に入れてもいいかもしれません」
「本当?」
「少し言い換えますが」
「言い換えるんだ」
「王都向けですので」
まあいい。
採用されるだけ進歩だ。
外では、塩袋を積む音がしている。
厨房では、サナ婆さんとバルロが漬物で言い合っている。
エマは新しい「保存食札」を作るか悩んでいる。
ミレーユは塩第二便の受領書を用意している。
配送局は、今日もまた少し複雑になった。
でも、道は切れていない。
塩七日の約束は、守れそうだ。
明日、第二便を届ければ、まず一つ。
豆の道は、もう少し強くなる。




