第21話 ミード村に、返事がない
翌朝。
ファルネ村の空気は、まだ重かった。
だが、昨夜よりは少しだけましだった。
広場には配送表が貼られ、水の配布列も、炊き出しの場所も、病人用の納屋も決まっている。
村人と避難民の間には、まだ距離がある。
けれど、少なくとも怒鳴り合いは減っていた。
温かい粥と、水と、明日の予定。
この三つがあるだけで、人は少しだけ獣にならずに済む。
「局長、こっちは任せていいのか?」
南区の若者が、鍋をかき混ぜながら言った。
「だから局長じゃないって」
「でも配送局の偉いやつだろ?」
「偉くはないです」
「じゃあ、責任者」
「それも嫌だなぁ」
すると炊事班のもう一人が真顔で言った。
「じゃあ、水と飯を持ってくる変な人」
「それが一番ひどい」
軽口を叩けるくらいには、場が落ち着いている。
それはいいことだった。
トマは村長、避難民代表、修道女と一緒に、今日の水と食料の消費量を確認していた。
「朝配布分は予定より一割多いです。子どもの数が多いので、昼の粥は麦を追加した方がいいです。ただし、干し肉は節約を……」
完全に現場会計担当になっている。
本人は嫌そうだが、仕事はものすごく正確だ。
この人がいなかったら、配送局は三日で帳簿崩壊していたと思う。
「トマさん、ファルネ村は任せられますか?」
俺が聞くと、トマは疲れた顔で眼鏡を押し上げた。
「任せられるかどうかで言えば、任せないでほしいです」
「本音が強い」
「ですが、やります。ここで記録を止めたら、次回配送量が計算できませんので」
「頼もしい」
「頼もしくなりたくありませんでした……」
気持ちは分かる。
俺も局長っぽくなりたくなかった。
だが、もう流れに巻き込まれている。
配達先がある以上、走るしかない。
俺はガルドとエマを連れ、三台のうち二台の馬車でミード村へ向かうことにした。
一台はファルネ村に残し、水と食料の配布を継続する。
同行者は、俺、ガルド、騎士一人、修道女一人、エマ、南区の若者一人。
積み荷は、水樽四つ、薬草箱二つ、麦袋三つ、干し肉一袋、布と鍋。
少ない。
だが、ファルネ村にも残さなければならない以上、これが限界だった。
「ミード村は、ファルネより小さいです」
エマが不安そうに言った。
「人数は?」
「たぶん五十人くらい。でも、森に近いので……」
「黒霧の影響を受けやすい」
「はい」
俺は視界の線を見る。
ミード村へ伸びる金色の線は、弱い。
細く、薄い。
その先にある赤は、昨日見たものと同じだった。
燃えるような危険ではない。
冷たく沈むような危険。
【第三配送先:ミード村】
【警告:村内反応低下】
【推奨:急行】
「急ぎます」
俺が言うと、ガルドが頷いた。
「だが、馬を潰すな」
「分かってます」
「焦るほど判断は荒れる」
「それも分かってます」
分かっている。
けれど、胸の奥がざわつく。
水も飯も薬も、届くのが遅ければ意味がない。
配達には締切がある。
それを何度も思い知らされてきた。
◇
ミード村への道は、今までで一番静かだった。
静かすぎた。
鳥の声が少ない。
虫の音も薄い。
風が木々を揺らす音だけが、妙に大きく聞こえる。
街道は細く、左右を林に挟まれている。
時々、黒く枯れた草が道端に固まっていた。
黒霧の残滓。
修道女がそれを見るたび、表情を曇らせる。
「この辺り、かなり濃く残っています」
「水源も危ないですか?」
「可能性は高いです」
ガルドが周囲を警戒しながら言った。
「魔物の気配は?」
俺は視界を確認する。
赤い点はない。
それが逆に怖い。
「今のところ、魔物は見えません」
「そうか」
「でも……気配が少なすぎます」
エマが小さく震えた。
「ミード村は、いつもなら山羊の声が聞こえるんです。村の近くまで来ると、子どもたちも外で遊んでいて……」
今は何も聞こえない。
俺たちはさらに進んだ。
やがて、道の先に小さな柵が見えた。
ミード村の入口。
木の門。
畑。
いくつかの家。
そして、誰もいない広場。
「……誰も出てこない」
エマの声が震える。
普通、馬車が来れば誰かが気づく。
犬が吠える。
子どもが覗く。
村人が警戒して出てくる。
だが、何もない。
村が息を潜めている。
いや。
息をしていないように見えた。
【ミード村到着】
【村内反応:低】
【生存反応:あり】
生存反応はある。
ゼロではない。
俺はその表示に、ほんの少しだけ救われた。
「生きてる人はいます」
エマが俺を見る。
「本当ですか?」
「はい。でも、かなり弱い」
ガルドが剣に手を置いた。
「罠の可能性は?」
「あります。でも、敵性反応は薄い」
「なら、慎重に入る」
馬車を村の入口で止める。
騎士が先行し、俺たちはその後ろを進んだ。
広場には、倒れた桶。
火の消えたかまど。
半分開いた家の扉。
井戸の周囲には、黒い染み。
見ただけで分かる。
水だ。
ここも水がやられている。
しかも、ルッカやファルネより悪い。
「レンジ様、あそこ」
修道女が指さした。
村の集会所らしき建物。
扉の隙間から、布が見える。
いや、人影だ。
俺の視界に金色の線が伸びる。
【生存者集積地点】
「集会所です」
俺たちは急いで向かった。
扉を開けた瞬間、重い空気が流れ出した。
汗。
薬草。
濁った水。
病の匂い。
中には、二十人以上の村人が横たわっていた。
子ども。
老人。
大人。
皆、ぐったりしている。
起き上がる力もない。
奥で一人の老婆が、震える手で布を絞っていた。
彼女だけが、かろうじて動いていた。
「誰か……?」
老婆が顔を上げる。
目がうつろだ。
エマが駆け寄った。
「メイナおばあちゃん!」
「エマ……? エマなのかい……?」
「助けを連れてきたよ!」
老婆の目に涙が浮かんだ。
「遅いよ……でも、来てくれたんだね……」
胸が締めつけられた。
遅い。
その言葉は、配達員に一番刺さる。
でも、まだ間に合う人がいる。
俺は奥歯を噛んだ。
「水と薬を入れます!」
修道女がすぐに患者の確認を始める。
「脱水がひどいです。黒霧残滓による水あたりもあります。まず水を少しずつ。急に飲ませないでください!」
「外の水樽を!」
南区の若者が走る。
騎士も手伝い、水樽と布を運び込む。
俺は金色の線を見ながら、患者を分けた。
「右側の子ども三人を最優先。次に奥の老人。左の大人たちは意識があるから少し待てます」
「はい!」
「窓を開けてください。でも井戸側の窓は閉めたまま。風が悪い」
「分かりました!」
「濡れ布は額じゃなくて首元へ。体温が高すぎる」
修道女が動く。
エマが泣きながら子どもに水を含ませる。
老婆は何度も頭を下げようとするが、俺は止めた。
「今は休んでください」
「でも……」
「礼は後で。まず生きてください」
老婆は泣きながら頷いた。
◇
集会所の処置が始まった後、俺は村の状況を確認した。
村人は全部で四十八人。
集会所に二十九人。
家で寝込んでいる者が十数人。
動ける者は、ほとんどいない。
井戸水は黒く濁り、飲めない。
食料は少し残っているが、調理する人手が足りない。
家畜は何頭か死んでいた。
畑も黒霧で一部枯れている。
ルッカやファルネより、明らかに進行が早い。
「なぜ助けを呼べなかったんですか?」
俺が聞くと、老婆メイナは苦しげに答えた。
「最初は、井戸が少し濁っただけだったんだよ……。でも、飲んだ者が次々倒れて……若い者がファルネへ助けを呼びに行ったが、戻らなかった」
「戻らなかった?」
ガルドの表情が険しくなる。
「その人は何日前に?」
「二日前だよ」
二日前。
俺の視界に赤い線が村の外へ伸びた。
街道ではない。
森の脇道。
【未帰還者反応】
【生存可能性:低】
生存可能性、低。
でもゼロではない。
「助けに行った人、まだどこかにいるかもしれません」
エマが顔を上げる。
「本当ですか?」
「分からない。でも反応があります」
ガルドが言う。
「今すぐ行くのは危険だ。まず村の安定化だ」
「分かってます」
分かっている。
ここで人手を割きすぎれば、村の処置が遅れる。
だが、未帰還者がいるなら放置もできない。
金色の線が二つに分かれる。
一つは、村内救護。
もう一つは、森の脇道。
どちらも必要。
同時にやらなければならない。
これだ。
配送局の本当の難しさは、常に複数の届け先があることだ。
「ガルドさん、村内は修道女さんとエマ、南区の若者に任せます。俺とガルドさんで未帰還者の確認へ」
修道女が心配そうに言う。
「レンジ様も体調が」
「行きます。短時間で戻ります」
エマが立ち上がった。
「私も――」
「エマはここに残ってください」
「でも!」
「村の人たちは、エマの顔を見るだけで安心します。ここにいて、水を配ってください」
エマは唇を噛んだ。
でも、頷いた。
「……分かりました」
強くなったな、と思った。
助けを求めに来た少女が、今は誰かを支える側に回っている。
人は、役割を渡されると立ち上がれることがある。
◇
森の脇道は、ひどい状態だった。
黒く枯れた草。
折れた枝。
ぬかるんだ土。
そして、ところどころに黒霧の残滓。
ガルドは剣を抜いたまま進む。
俺は金色の線を追った。
線は細い。
だが、確かに続いている。
「この先です」
「敵は?」
「薄い赤がある。でも魔物というより……黒霧残滓?」
「分かった。近づきすぎるな」
少し進むと、倒れた人影が見えた。
若い男。
村人だろう。
片手に空の水筒を握り、背中に小さな袋を背負っている。
生きているか。
俺は息を詰めた。
【対象:生存】
【危険:黒霧侵食】
「生きてる!」
駆け寄ろうとした瞬間、ガルドが俺を止めた。
「待て」
男の周囲に、黒い霧が薄く漂っている。
黒霧が体にまとわりついている。
近づけばこちらも危ない。
「どうする?」
ガルドが問う。
金色の線を見る。
浄化布。
そうだ。
セラフィナが持たせてくれた布がある。
それを口と手に巻いて近づく。
さらに、男を直接担ぐのではなく、背負い袋を縄で引く。
「直接触らずに引きます」
「縄は?」
ガルドが腰の縄を外した。
「これで足りる」
「浄化布を巻いてください」
「了解」
俺たちは布で口元と手を覆い、縄を男の背負い袋へ引っかけた。
慎重に引く。
黒霧がゆらりと動く。
嫌な冷気が足元を撫でた。
【長時間接触危険】
「急ぎます!」
二人で男を安全な場所まで引きずる。
黒霧の濃い場所から離れると、男が小さく咳をした。
「水……」
「飲ませます。でも少しずつ」
俺は水筒の水を布に含ませ、男の口元へ運んだ。
男はかすかに飲んだ。
生きている。
間に合った。
「名前は?」
「……ユル……助けを……呼びに……」
「もう届きました」
俺は言った。
「エルドベルク配送局です。村に水と薬を届けました」
ユルと呼ばれた男の目から、涙がこぼれた。
「よかった……」
そのまま意識を失った。
でも、呼吸はある。
ガルドが彼を背負う。
「戻るぞ」
「はい」
その時、森の奥から低い音がした。
魔物の声ではない。
地面の奥で、水がうねるような音。
俺の視界に、赤い線が森のさらに奥へ伸びた。
【黒霧残滓発生源候補】
【ミード村水源上流】
ああ。
そういうことか。
ミード村の井戸だけではない。
水源上流がやられている。
ここを止めなければ、村はまた汚染される。
「ガルドさん」
「分かっている。今は戻る」
「はい」
まずはユルを届ける。
次に水源。
順番を間違えるな。
俺は自分に言い聞かせた。
◇
村へ戻ると、集会所の空気は少しだけ変わっていた。
水が回り始め、子どもたちの呼吸が安定してきている。
修道女は汗だくで処置を続けていた。
エマは震える手で器を持ち、村人に水を飲ませている。
南区の若者は鍋を火にかけ、薄すぎない粥を作っていた。
「ユル!」
メイナが泣きながら叫ぶ。
ガルドがユルを寝かせる。
修道女がすぐに処置に入った。
「黒霧侵食があります。でも、まだ戻せます」
「よかった……」
俺は力が抜けそうになった。
でも、まだ終わりじゃない。
「水源の上流に、黒霧残滓の発生源があります」
ガルドが言うと、集会所がざわついた。
メイナが青ざめる。
「それじゃあ、井戸は……」
「今のままだと使えません」
俺は正直に言った。
嘘をついても意味がない。
「でも、対応します。まず今日は持ってきた水と、近くで使える水源を探します。明日以降、エルドベルク配送局で定期配送を組む」
「でも、そんなことまで……」
「やります」
言ってから、自分でも驚くほど自然だった。
やる。
もう、それ以外の選択肢がなかった。
水が届かなければ、この村は死ぬ。
なら届ける。
配達員として。
配送局として。
俺として。
【第三配送先:ミード村 初期救援開始】
【周辺三村緊急配送路 開通進行率:八十四パーセント】
まだ完了ではない。
水源問題が残っている。
黒霧残滓の発生源もある。
だが、ミード村は沈黙から戻り始めた。
小さな子どもが、水を飲んで泣いた。
老婆が祈った。
ユルは浅い呼吸をしながら、まだ生きていた。
俺は外に出て、黒く濁った井戸を見た。
その奥に、森へ伸びる赤い線。
水源上流。
配送路を作るには、まず水の道を取り戻さなければならない。
夕暮れの中、ガルドが隣に立った。
「明日、行くか」
「はい」
「休める時に休め」
「ガルドさんも」
「……努力する」
「それ、休まない人の返事です」
俺たちは少しだけ笑った。
だが、森の奥からは、まだ低い水音が聞こえていた。
エルドベルク配送局の初仕事。
三村目には届いた。
けれど、本当の配達完了ボタンは、まだ押せそうになかった。




