第22話 水の道を取り戻せ
翌朝。
ミード村は、まだ静かだった。
けれど昨日の静けさとは違う。
昨日は、村そのものが息を止めているような静けさだった。
今日は、かすかに息を吹き返した後の静けさだ。
集会所では、修道女が夜通し患者を診ていた。
子どもたちの熱は少し下がり、老人たちも水を少しずつ飲めるようになっている。
ユルも、まだ意識は戻らないが、呼吸は安定していた。
「助かった……と言っていいんですか?」
エマが小声で聞いてきた。
「まだです」
俺は井戸の方を見た。
黒く濁った水。
村の中心にあるはずの命綱が、今は毒になっている。
「水源を何とかしないと、また同じことになります」
ミード村は、エルドベルクから遠い。
毎日、水を運び続けることはできる。
でも、それだけでは限界がある。
村の中で水が回る仕組みを作らなければ、配送局はずっと応急処置に追われる。
病気で言えば、傷口に布を当て続けているだけだ。
根本を止めなければならない。
【目的:ミード村の水源上流を確認し、黒霧残滓の発生源を封鎖する】
【推奨同行者:ガルド、修道女一名、村案内人】
【危険度:中〜高】
「中〜高か……」
最近、危険度の感覚がおかしくなってきた。
中〜高なら、まだマシに見える。
人間、慣れって怖い。
ガルドはすでに準備を終えていた。
肩には包帯。
腰には剣。
顔はいつも通り無表情。
ただ、修道女に巻かれた包帯がやけにきつそうだった。
「痛くないですか?」
「痛い」
「正直ですね」
「セラフィナ様の指示だそうだ」
「遠隔圧が強い」
修道女が真顔で言った。
「無理をされる方には、痛みで自覚していただくようにと」
聖女様、やっぱり強い。
村案内人には、老婆メイナの孫である少年ニルが名乗り出た。
年は十三、四歳くらい。
まだ顔色は悪いが、立って歩ける。
「俺、上流までの道を知ってます」
「体は大丈夫?」
「昨日、水もらって粥食べたから」
それだけで大丈夫と言い切るのは不安だ。
だが、他に動ける村人は少ない。
ニルは唇を噛んだ。
「ユル兄ちゃん、俺の代わりに助けを呼びに行ってくれたんです。だから、今度は俺が案内します」
その言葉で、止めにくくなった。
俺はガルドを見る。
ガルドは少し考え、頷いた。
「無理はするな。危険ならすぐ下がれ」
「はい!」
ニルの目に、少しだけ光が戻る。
役割が人を立たせる。
この数日で何度も見た光景だった。
◇
水源上流へ向かう道は、村の北側から森へ入っていく細道だった。
昨日、ユルを見つけた道とは少し違う。
木々は密集し、足元には濡れた落ち葉が積もっている。
道の横を細い沢が流れていた。
本来なら、澄んだ水音がするはずなのだろう。
だが今は、低く濁った音がしている。
水面には薄い黒い膜が浮かび、ところどころ泡が弾けていた。
「これは……かなり悪いです」
同行した修道女が眉をひそめた。
「黒霧の残滓が水に溶けています。飲むのはもちろん、傷口に触れても危険です」
「村の井戸はこの沢と繋がってる?」
俺が聞くと、ニルが頷いた。
「上の泉から地下に流れて、村の井戸に出るって、じいちゃんが言ってました」
「じゃあ、上流を止めないと駄目ですね」
金色の線は沢沿いに続いている。
だが、その先に赤い靄が濃くなっていた。
【黒霧残滓濃度上昇】
【長時間滞在危険】
長居はできない。
調査して、原因を見つけて、封鎖する。
できれば浄化。
無理なら迂回水源の確保。
頭の中で手順を組む。
まるで、配達先が山奥の住所不明物件になったような気分だ。
道はある。
でも、まともな道ではない。
途中、倒れた木が沢を塞いでいた。
その周囲で水が滞留し、黒い泥が溜まっている。
「これも原因ですか?」
ニルが聞く。
「一部はそうかも。でも本命じゃない」
俺の視界では、さらに奥から赤線が流れてきている。
ここは結果だ。
原因ではない。
「この倒木は後で除去しましょう。水の流れを少しでも戻したい」
ガルドが頷く。
「村の者が動けるようになったら人手を出させる」
「配送局からも縄と工具を持ってきます」
「また仕事が増えたな」
「言わないでください」
◇
森の奥へ進むほど、空気が重くなった。
鳥の声は完全に消えた。
沢の水音だけが、妙に耳に残る。
やがて、小さな開けた場所に出た。
岩肌から水が湧き出している。
本来なら、美しい泉だったのだと思う。
だが今は、泉の中央に黒い石のようなものが沈んでいた。
その周囲から、墨を垂らしたように黒い霧が水へ溶け出している。
「霧核片……?」
俺が呟くと、修道女が青ざめた。
「小型ですが、黒霧の核です。水源に落ちています」
やっぱりか。
黒霧の門番や魔導師の戦いで飛んだ欠片か。
あるいは、意図的に置かれたものか。
どちらにせよ、これがミード村の水を殺している。
【汚染源:黒霧核片】
【直接接触不可】
【推奨:水流遮断後、浄化布で包み回収】
「回収できますか?」
修道女は唇を噛んだ。
「浄化布があれば可能です。ただ、水の中にあるので、まず流れを弱めないと」
金色の線が泉の手前にある岩へ伸びる。
岩を動かし、一時的に水の流れを変える。
その上で、核片を布で包んで引き上げる。
ただし、失敗すると黒霧が一気に拡散する。
【作業失敗時:汚染拡大】
「嫌な表示だな……」
ガルドが俺を見る。
「手順を言え」
「まず、この岩を動かして水の流れを右へ逃がします。完全に止めるんじゃなくて、核片の周囲だけ水位を下げる」
「力仕事だな」
「ガルドさん、肩は」
「左手と足でやる」
「無理の天才か」
ニルが前に出た。
「俺も手伝います」
「無理しない」
「でも、村の水だから」
その言葉が強かった。
ガルドは少しだけ黙り、頷いた。
「俺の指示で動け。勝手に力を入れるな」
「はい!」
俺たちは岩を動かし始めた。
重い。
滑る。
足場も悪い。
黒い水に触れないようにしながら、少しずつ岩をずらす。
「右へ。もう少し。そこで止めて!」
水の流れが変わった。
泉の中央の水位がわずかに下がる。
黒い核片が、半分だけ顔を出した。
【回収可能】
「今です!」
修道女が浄化布を広げる。
白い光を帯びた布。
それを長い棒の先に結び、核片へかぶせる。
黒い霧が噴き出す。
じゅう、と音がする。
修道女の顔が歪んだ。
「くっ……!」
「大丈夫ですか!」
「続けます!」
強い。
教会の人たち、みんな根性がありすぎる。
ガルドが縄を投げ、布ごと核片に絡ませる。
「引くぞ!」
俺とニルも縄を掴む。
せーの。
核片が水から引き上げられた。
黒い霧が暴れる。
まるで生き物みたいに布の中で蠢く。
【黒霧核片:回収】
【要封印】
「封印できますか!」
修道女が祈りを唱える。
白い光が布の上に重なる。
完全ではないが、霧の動きが弱まった。
「一時封印です。長くは持ちません」
「村には持ち込めないですね」
「はい。エルドベルクの教会地下へ運ぶ必要があります」
また危険物配送だ。
配送局の取り扱い荷物、初日からレベルが高すぎる。
◇
核片を回収すると、泉の黒い濁りは少しずつ薄くなり始めた。
すぐに飲めるわけではない。
だが、新しく湧き出す水は、さっきより明らかに澄んでいる。
修道女が水を確認し、ほっと息を吐いた。
「時間を置けば、回復する可能性があります。ただ、しばらくは煮沸と確認が必要です」
「井戸もすぐには使えない?」
「地下水に残滓が残っているはずです。数日は配送水と、上流で汲んだ水を煮沸して使うべきです」
金色の線が泉から村へ伸びる。
途中の倒木。
黒い泥。
細道。
ここを整備すれば、水運びルートになる。
【ミード村臨時水路配送案】
【一、上流泉の汲み場設置】
【二、倒木除去】
【三、中継桶置き場設置】
【四、村内煮沸所へ人力配送】
「やること見えました」
俺は地面に簡単な印をつける。
「ここに汲み場。倒木をどかして、途中に桶を置ける場所を作る。村まで一気に運ぶんじゃなくて、途中で交代する」
ニルが目を輝かせた。
「それなら、子どもでも手伝える?」
「水の量を少なくすれば。でも、無理はしない。最初は大人中心」
「村のみんな、動けるようになったらやります」
その言葉が嬉しかった。
助けられるだけじゃない。
自分たちで回す。
そこまでいけば、配送は本当に届いたことになる。
◇
村へ戻ると、エマが走ってきた。
「どうでした!?」
「原因は取れました」
その瞬間、彼女の顔がくしゃっと歪んだ。
「よかった……」
「でも、井戸はまだ使えません。しばらくは上流の水を煮沸して使う。それと、エルドベルクからの配送を続けます」
メイナ老婆も、集会所の入口で聞いていた。
彼女は震える手を合わせた。
「水が……戻るのかい?」
「戻します」
俺は言った。
「今日すぐ全部は無理です。でも、水の道は取り戻せます」
メイナは泣いた。
ニルも泣きそうになっていた。
ガルドは何も言わず、静かに周囲を見ていた。
修道女はすぐに村人へ説明を始める。
井戸は封鎖継続。
泉の水は必ず煮沸。
黒い泥には触らない。
体調不良者は集会所へ。
そして、明日から臨時水運び隊を作る。
南区の若者と炊事班も、村の広場に鍋を置き、粥を作り始めた。
「薄くするなよ」
俺が言うと、若者は笑った。
「バルロ爺の声で再生されたわ」
「俺もです」
◇
夕方。
ミード村の広場に、初めて少しだけ人の声が戻った。
子どもが水を飲み、老人が粥をすすり、動ける大人たちが明日の水運びについて話し合っている。
ユルも一度だけ目を開けた。
エマが「水、届いたよ」と言うと、彼はかすかに笑った。
それだけで十分だった。
俺の頭に表示が浮かぶ。
【第三配送先:ミード村 初期救援成功】
【黒霧核片を回収】
【臨時水路配送案を策定】
【周辺三村緊急配送路 開通進行率:百パーセント】
「百……」
ようやく。
エルドベルク配送局の初仕事。
三村への緊急配送路、開通。
水と薬と飯は届いた。
もちろん、継続配送は必要だ。
水源の浄化も、街道の整備も、橋の修復も、まだまだ仕事は山積みだ。
でも、最初の配達は完了した。
俺は広場の端に座り込み、空を見上げた。
夕焼けが、森の黒い影を少しだけ柔らかく染めている。
ガルドが隣に立った。
「完了か?」
「はい。ひとまず」
「では帰るぞ。危険物もある」
封印された黒霧核片が、馬車の荷台で厳重に包まれている。
そうだった。
帰りも配達だった。
「配送局、帰り道まで仕事ありますね」
「当然だろう」
「少しくらい達成感に浸らせてほしい」
「帰ってからにしろ」
「それ、帰ったら次の仕事あるやつですよね」
ガルドは答えなかった。
やめてほしい。
沈黙が一番怖い。
◇
夜になる前に、俺たちはミード村を出た。
エマは村に残るか迷ったが、最終的にはファルネ村まで同行することになった。
三村の連絡役として、彼女はもう欠かせなくなっていた。
「私にも、できることがあるなら」
エマはそう言った。
最初に封書を持ってきた時の彼女とは、目が違っていた。
配送局に、また一人増えたのかもしれない。
馬車が村を離れる時、メイナ老婆とニルが手を振った。
集会所の前では、村人たちが小さく頭を下げている。
俺は手を振り返した。
配達完了。
でも、終わりじゃない。
次の定期便がある。
次の整備がある。
次の問題がある。
それでも、今は少しだけ胸を張っていい気がした。
金色の線は、エルドベルクへ戻る道を示していた。
その先に、またいくつもの線が広がっている。
街道。
村。
水源。
橋。
商会。
教会。
騎士団。
そして、王都へ続く細い赤線。
まだ世界は問題だらけだ。
だけど、届ける道はある。
俺は馬車の揺れに身を任せながら、小さく笑った。
「エルドベルク配送局、初任務完了」
誰に言うでもなく呟く。
隣でトマが疲れ切った声で言った。
「では、帰ったら初任務報告書ですね……」
「……忘れてた」
配達より報告書の方が嫌かもしれない。
俺は夜空を見上げた。
異世界でも、仕事は終わらない。
でもまあ。
待っている人がいるなら、悪くない。
たぶん、明日も俺は走るのだろう。




