第20話 ファルネ村への道は、配達員に優しくない
ルッカ村を出た時、空は夕方に傾き始めていた。
本当なら、そこで一泊するべきだった。
馬車も人も疲れている。
水樽は軽くなったが、代わりにルッカ村で採取した濁り水の試料や、村ごとの必要物資記録が増えている。
トマは馬車の隅で帳簿を抱えたまま、魂が抜けた顔をしていた。
「トマさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫の定義によります……」
「だいぶ駄目そうですね」
「私は今朝まで、街の中で帳簿を書く仕事だと思っていました」
「今は?」
「魔物が出る街道で帳簿を書く仕事です」
「出世しましたね」
「退職したいです……」
気持ちは分かる。
俺だって、昨日までは都市崩壊を止めていたはずなのに、今日は周辺村への水と薬の配送だ。
仕事の振れ幅が大きすぎる。
だが、金色の線はファルネ村へ伸びている。
その途中に、赤い点がいくつか浮かんでいた。
【第二配送先:ファルネ村】
【警告:街道上に魔物残党】
魔物残党。
言葉にすると簡単だが、実物はたぶん全然簡単ではない。
黒霧の門が閉じたことで統制は失われたはずだ。
だが、残った魔物が急に善良な野生動物になるわけではない。
むしろ、統制が切れたことで飢え、混乱し、街道をうろついている可能性がある。
荷馬車。
水。
食料。
人間。
魔物から見れば、襲いやすい獲物の列だ。
「ガルドさん」
「分かっている」
先頭を歩くガルドは、すでに剣の柄に手を置いていた。
肩の傷はまだ完全ではない。
それでも、歩き方に乱れは少なかった。
強い人は、本当に無理の仕方がうまい。
いや、うまくても無理は無理だ。
セラフィナ様がいたら静かに怒っていたと思う。
「戦闘になったら、俺は役に立ちません」
「知っている」
「即答」
「だが、道を見る役は必要だ」
「それはやります」
俺は街道の先を見た。
南回りの道よりは安全なはず。
だが、完全に安全ではない。
左手に林。
右手に低い崖。
道幅は馬車一台半。
逃げ場は少ない。
赤い点は、林の奥にある。
【敵性反応:灰狼型残党】
【数:五から七】
「左の林です。灰狼型が五から七」
ガルドが片手を上げる。
馬車隊が止まった。
騎士二人が前へ出る。
南区の若者たちが顔を青くしながら、馬車の横に回った。
「ま、魔物か?」
「出るって聞いてねぇぞ」
「警告は出てました」
「局長、先に言えよ!」
「俺も今見えたんです!」
局長呼びはやめてほしいが、今は訂正している場合ではない。
灰狼型は速い。
先遣群の時も見た。
小回りが利き、飛びかかってくる。
馬車の馬を狙われたら終わる。
金色の線は、馬車を止めて迎撃するのではなく、少し先の石垣跡へ伸びていた。
「この場で止まるより、二十歩先の石垣跡まで進んでください」
ガルドが眉を寄せる。
「敵が近いぞ」
「でも、今止まると左右から来ます。石垣跡まで行けば、右側を塞げる」
「分かった」
ガルドは即断した。
「馬車、ゆっくり前進! 走るな! 馬を怯えさせるな!」
馬車が動く。
林の中で、何かが走る音がした。
枝が揺れる。
赤い目が見えた。
灰狼型。
やっぱり来た。
「左から三!」
俺が叫ぶと、騎士たちが盾を構えた。
灰色の影が飛び出す。
牙。
爪。
唸り声。
馬が怯え、いななく。
「馬の目を覆って!」
南区の若者が慌てて布をかぶせる。
ガルドの剣が走り、一体目の灰狼を斬る。
二体目は騎士の盾にぶつかり、弾かれたところを槍で突かれた。
三体目が馬車の後方へ回る。
【後方荷台危険】
「後ろ! 食料馬車!」
「ひいっ!」
トマの悲鳴。
灰狼が三台目の馬車へ飛びかかった。
バルロの弟子の一人が、薪を投げつける。
狼の動きが一瞬止まる。
そこへ南区の若者が木の棒を振り下ろした。
「うおおお!」
命中。
狼がよろける。
しかし倒れない。
すぐに飛びかかろうとする。
その瞬間、ガルドが後方まで走り込み、左手の剣で灰狼の首を落とした。
「助かった……!」
「油断するな。まだ来る」
ガルドの声は落ち着いている。
だが、肩から少し血が滲んでいた。
やっぱり無理している。
早く終わらせないと。
金色の線が、街道脇の石垣跡へ伸びる。
そこに馬車を寄せれば、左側だけ守ればいい。
「馬車を石垣に寄せて! 右側を壁にする!」
「了解!」
馬車隊が石垣跡に寄る。
これで右は塞がった。
左からしか来られない。
灰狼の残りが林から出てくる。
四体。
いや、五体。
一体だけ黒い霧を少しまとっている。
【黒霧残滓個体】
【通常個体より危険】
「一体、黒霧付き!」
ガルドの目が鋭くなる。
「核はあるか?」
俺は目を凝らした。
胸元。
赤い点。
小さい。
「あります。胸の中心!」
「分かった」
灰狼たちが一斉に走る。
通常個体を騎士たちが受ける。
黒霧付きだけ、ガルドが前へ出た。
速い。
昨日の偵察個体ほどではないが、動きが鋭い。
ガルドの剣をかわし、横から回り込む。
俺の視界に赤線が走った。
【対象:馬】
馬を狙っている。
「馬です! 馬を狙ってる!」
ガルドが即座に体を入れる。
灰狼の牙がガルドの腕をかすめた。
「ぐっ!」
「ガルドさん!」
「止まるな! 核の位置を言え!」
灰狼が跳ぶ。
胸の核が一瞬見える。
「今! 少し右!」
ガルドの剣が突き出される。
銀の刃が、灰狼の胸を貫いた。
赤い核が砕け、黒霧が霧散する。
残りの灰狼は、統制を失ったように後退した。
騎士たちが追撃せず、馬車を守る。
正しい。
目的は討伐じゃない。
配送だ。
荷物と人を届けること。
数分後、林は静かになった。
馬車隊に大きな被害はない。
馬も無事。
怪我人は軽傷のみ。
俺はその場にへたり込みそうになった。
「……初仕事からハードすぎる」
南区の若者が荒い息を吐きながら言った。
「局長、これ毎回やるのか?」
「毎回だったら配送局やめたいです」
「局長がやめたら俺らどうなるんだよ」
「俺まだ局長を引き受けた覚えないんですけど」
誰も聞いてくれなかった。
◇
戦闘後、街道脇で短い休憩を取った。
ガルドの傷を修道女が手当てする。
彼は平然としていたが、腕と肩の傷が悪化しているのは見て分かった。
「ガルドさん、ファルネ村に着いたら休んでください」
「状況次第だ」
「その答え、リリアナさんと同じです」
「団長の副官だからな」
「悪い意味で似なくていいです」
ガルドは少しだけ笑った。
修道女は真顔で包帯を締める。
「セラフィナ様から、無理をする方には強く巻いてよいと言われています」
「ぐっ……」
「痛みますか?」
「少し」
「では効いています」
セラフィナ様の圧、遠隔でも届く。
怖い。
だが助かる。
トマは戦闘で散らばった書類を必死に整理していた。
「魔物襲撃による配送遅延、馬の動揺、薪一束損失、軽傷者二名……記録が多すぎます」
「ちゃんと書くんですね」
「書かないと後でミレーユ様に聞かれます」
「怖いから?」
「怖いからです」
正直でよろしい。
俺は街道の先を見る。
ファルネ村まではあと少し。
だが、赤い線は村の手前にも残っている。
魔物ではない。
人の集まり。
道を塞ぐような赤線。
【前方:避難民集団】
【物資奪取リスク】
「……次は人か」
俺が呟くと、エマが不安そうに見た。
「どうしました?」
「村の手前に、人が集まってます。たぶん避難民か、物資を求める人たち」
ガルドが表情を引き締める。
「盗賊か?」
「そこまでは分からないです。ただ、飢えてる人が物資馬車を見たら、揉める可能性があります」
水と飯は希望だ。
だが、足りなければ争いの火種にもなる。
ここからは剣ではなく、配り方の問題になる。
◇
ファルネ村の手前には、二十人ほどの人々がいた。
村人ではない。
荷物を背負い、服は汚れ、子どもや老人も混ざっている。
街道脇に座り込んでいた彼らは、馬車隊を見るなり立ち上がった。
「水だ!」
「食い物があるぞ!」
「待ってくれ!」
数人が駆け寄ってくる。
騎士たちが前に出る。
剣は抜かない。
だが、盾で馬車を守る。
「止まれ!」
ガルドの声が響く。
人々は足を止めた。
だが、目は馬車の水樽に釘付けだった。
痩せている。
唇が乾いている。
かなり追い詰められている。
これを力で押し返せば、暴発する。
金色の線は、馬車の水樽ではなく、道端の平らな岩場へ伸びていた。
「配布場所を作ります」
俺は言った。
「ここで少し水を出します。ただし、馬車に近づけない。岩場に列を作る」
ガルドが俺を見る。
「ファルネ村への分が減るぞ」
「でも、この人たちを無視すると後ろから襲われる可能性がある。少し渡して、ファルネ村で追加配布を受けるよう誘導した方がいい」
ガルドは短く頷いた。
「分かった」
俺は人々へ声を張った。
「水を配ります! ただし一人一杯ずつ! 馬車に近づかないで、あそこの岩場に並んでください!」
「一杯だけかよ!」
「子どもがいるんだ!」
「こっちは二日食ってない!」
不満が噴き出す。
当然だ。
一杯では足りない。
でも、ここで全部配ればファルネ村に届かない。
配送のつらいところだ。
目の前の人を助けたい。
でも、その先にも待っている人がいる。
「ファルネ村で炊き出しをします!」
俺は叫んだ。
「そこまで一緒に来てください! ここでは倒れないための水だけ先に渡します!」
人々がざわつく。
まだ不満はある。
その時、エマが前へ出た。
「ファルネ村はすぐ先です! 私たちはルッカ村にも水を届けました! 本当に炊き出しをします!」
彼女の声は震えていた。
でも、まっすぐだった。
避難民の中の老婆が、エマを見た。
「本当かい……?」
「本当です。私も昨日まで助けを待っていました。でも、この人たちは来てくれました」
その言葉が効いた。
同じ助けを待っていた側の声。
俺や騎士が言うより、ずっと届く。
人々は少しずつ岩場へ移動した。
修道女が水を配る。
子どもと老人を先に。
それだけで、空気が少し落ち着いた。
【避難民集団の暴発リスク低下】
【追加同行者:二十三名】
同行者が増えた。
配送がさらに難しくなった。
でも、これでいい。
置いていけば、別の問題になる。
連れていけば、少なくとも目の届く場所で水と飯を渡せる。
「局長、人数増えてますけど」
南区の若者が言った。
「見れば分かります」
「飯足りる?」
「薄くしない範囲で何とか」
「バルロ爺なら怒るな」
「だから薄くしない範囲で」
炊事班の弟子たちが真剣な顔で頷いた。
「粥の水加減、勝負ですね」
「具を細かくして満足感を出します」
プロっぽくなってきた。
バルロの教育、意外と優秀である。
◇
ファルネ村に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
ルッカ村より少し大きい。
だが、状況は悪かった。
村の入口に人が集まり、空気は険悪。
井戸は使えない。
畑の一部は黒く枯れている。
さらに、近隣の小集落から逃げてきた人々が村に流れ込んでいて、村人との間で揉めていた。
「だから、水は村の者が先だと言っている!」
「こっちは家を捨てて逃げてきたんだ!」
「食料庫を開けろ!」
「勝手に触るな!」
ああ。
これはまずい。
水不足、食料不足、避難民流入。
全部が混ざっている。
街の縮小版だ。
俺の視界では、村の広場が真っ赤だった。
【ファルネ村:内部対立リスク高】
【物資配布失敗時、暴動発生】
「暴動リスクありです」
俺が言うと、ガルドが即座に配置を変えた。
「騎士は馬車を守れ。ただし威圧しすぎるな。剣は抜くな」
「はい!」
俺は広場を見る。
どこに配る?
水を先に出すか。
飯を先に作るか。
病人はいるか。
村人と避難民を同じ列に並べたら揉める。
分けても差別だと揉める。
どうする。
金色の線が、村の中央にある古い鐘楼へ伸びた。
「鐘楼を使います」
「鐘楼?」
「全員に聞こえる場所から、ルールを先に出す。配る前に順番を決めないと奪い合いになる」
ガルドが頷く。
「護衛する」
俺は鐘楼の階段を上った。
足が痛い。
体も重い。
だが、ここで失敗すれば物資は奪い合いになる。
それは配送失敗だ。
鐘楼の上から、村の広場を見下ろす。
村人。
避難民。
子ども。
老人。
怒鳴り合う男たち。
不安そうな母親。
空の桶。
閉じられた食料庫。
俺は大きく息を吸った。
「聞いてください!」
声が広場に響く。
最初は誰も聞いていない。
怒号が続く。
俺は鐘を鳴らした。
ゴォン――!
村人たちが顔を上げる。
「エルドベルク配送局です!」
自分で言って少し恥ずかしかった。
でも、もう名乗るしかない。
「水と食料と薬を届けに来ました! ただし、奪い合えば全員に届きません!」
広場がざわつく。
「村の人も、避難してきた人も、子どもも老人も、順番を作ります!」
「村の者が先だ!」
誰かが叫ぶ。
すぐに別の声。
「俺たちは死ねってのか!」
やっぱり来た。
俺は金色の線を見る。
列を三つに分ける。
村人と避難民ではなく、必要度で分ける。
「村人か避難民かでは分けません!」
俺は叫んだ。
「子ども、老人、病人が第一列! 次に水を汲めない世帯! 最後に健康な大人! 村人も避難民も同じです!」
ざわめき。
不満。
でも、完全な反発ではない。
必要度で分けるなら、納得する余地がある。
「食料庫は村長と避難民代表、修道女、配送局の記録係立ち会いで開けます! 勝手に触ったら配布停止!」
トマが下でびくっとした。
記録係、また仕事が増えた。
「水は一人一杯から! 粥は全員分を作る! 足りない分は明日以降の配送表に入れます!」
広場の空気が少し変わる。
見通し。
順番。
記録。
それが混乱を少し押さえる。
ガルドが下で声を張る。
「聞いた通りだ! 騎士団は配布を守る! 奪い合いを防ぐためだ!」
修道女たちがすぐに第一列を作り始める。
エマと村の女性たちが子どもを誘導する。
避難民の老婆が他の避難民へ声をかける。
炊事班が鍋を出す。
南区の若者たちが水樽を下ろす。
トマが半泣きで机を作り、帳簿を開く。
よし。
動き始めた。
【ファルネ村:初期混乱抑制】
【物資配布開始】
俺は鐘楼の上で息を吐いた。
足が震えている。
声も枯れた。
だが、広場に鍋の湯気が立ち始める。
水が配られ、子どもが飲む。
怒鳴っていた男たちも、不満そうにしながら列に並ぶ。
配達は、また届き始めた。
◇
夜。
ファルネ村の広場では、炊き出しの火が灯っていた。
全員に十分とは言えない。
それでも、水と温かい粥は行き渡った。
村人と避難民の対立は消えていない。
だが、少なくとも今夜殴り合いになる空気ではなくなった。
トマが集計を見せる。
「村人百二十六名、避難民五十七名。病人十一名。水の必要量はルッカ村より多いです。明日の配送だけでは足りません」
「近くの水源は?」
村長が答える。
「東の沢がある。だが、黒く濁っている」
修道女が水を確認し、首を振った。
「すぐには使えません」
金色の線は、村の北西へ伸びている。
「北西に何かありますか?」
村長が考え込む。
「古い貯水池がある。今は使っていない」
「見に行く価値があります」
ガルドが言う。
「明朝だな。夜は危険だ」
「はい」
俺もさすがに夜の探索は無理だ。
体が限界に近い。
炊事班の若者が、俺に粥を渡してきた。
「局長、食えよ」
「局長じゃないです」
「もうみんな呼んでるぞ」
見ると、村の子どもが小さな声で言った。
「配送局の人だ」
別の子が言う。
「水持ってきた人」
俺は苦笑した。
肩書きから逃げるのは、もう無理かもしれない。
粥を食べる。
バルロ本人には及ばないが、十分うまい。
「薄くないですね」
炊事班の若者が胸を張る。
「バルロ爺に殴られたくないからな」
それは大事だ。
俺の頭に表示が浮かぶ。
【第二配送先:ファルネ村 初期支援成功】
【周辺三村緊急配送路 開通進行率:六十六パーセント】
残りは一村。
ミード村。
だが、その名前を見た瞬間、赤線が強くなった。
【第三配送先:ミード村】
【警告:村内反応低下】
【詳細不明】
「村内反応低下……?」
嫌な表示だった。
魔物でも、暴動でもない。
反応低下。
まるで、村そのものの気配が薄いような。
エマが不安そうに聞いた。
「ミード村、何かあったんですか?」
「まだ分かりません」
俺は夜の闇の向こうを見た。
金色の線は、静かに三つ目の村へ伸びている。
だが、その先の赤は、今までと少し違っていた。
燃えるような赤ではない。
冷たく沈むような赤。
水も飯も薬も。
届くのが遅れれば、意味がなくなることがある。
配送には、締切がある。
俺は粥の器を置いた。
「明朝、すぐ出ます」
ガルドが頷く。
「了解した」
エルドベルク配送局、初仕事。
二村目までは、何とか届いた。
だが三村目は、俺たちを待ってくれているとは限らなかった。




