第16話 九十四パーセントの朝と、届いていない理由
黒霧の門は閉じた。
黒霧の門番は旧採石場の大穴に沈み、魔物本隊の都市内転移も阻止した。
採石場に漂っていた黒い霧は、朝日を浴びて少しずつ薄れていく。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
誰かが座り込み、誰かが仲間の肩を叩き、誰かが神に祈っていた。
勝った。
そう言っていい状況だった。
なのに、俺の視界にはまだ赤い線が残っている。
細く、遠く、しつこく。
王都へ伸びる一本の赤線。
【未解決要因:王都方面】
【都市崩壊計画の根源未特定】
【完全回避には追加確認が必要】
「……やっぱり終わってないか」
俺が呟くと、隣で膝をついていたガルドが顔を上げた。
「何がだ?」
「王都です」
ガルドの表情が険しくなる。
「魔導師の最後の言葉か」
「はい。『王都はすでに』って言ってました」
「聞こえていた」
彼は左手に持った聖銀剣を見た。
リリアナから借りた剣。
黒霧の接続線を断ち切った剣。
その刃には、まだ薄く黒い霧がまとわりついている。
「王都魔導師ギルドが関わっているなら、地方騎士団だけでは手に余る」
「ですよね」
「だが、今はまず街だ」
ガルドは立ち上がろうとして、肩の傷に顔をしかめた。
「ぐっ……」
「無理しないでください」
「お前に言われるとはな」
「俺も今ブーメラン刺さってます」
その時、セラフィナが修道女に支えられてこちらへ来た。
顔色は悪い。
それでも、目はしっかりしている。
「ガルド様、傷を見せてください」
「自分より先に、他の負傷者を」
「駄目です」
「しかし――」
「駄目です」
聖女の圧である。
ガルドが負けた。
この街の強者ランキング、もしかするとセラフィナ様が一番上かもしれない。
セラフィナはガルドの肩に手を当て、浄化の光を流し込む。
黒い霧がじゅう、と音を立てて消えていった。
「深く入っています。放置していれば、腕が動かなくなっていたかもしれません」
「そうか」
「そうか、ではありません」
「……すまない」
ガルドが素直に謝った。
リリアナにもこれくらい素直にしてほしい。
そう思って振り返ると、リリアナは崖上から降りてきたところだった。
脇腹を押さえ、顔色は最悪。
だが、背筋だけは真っ直ぐだった。
「リリアナさん」
「何だ」
「セラフィナ様」
俺が名前を呼ぶと、リリアナの肩がわずかに跳ねた。
効きすぎだろ。
セラフィナは静かにリリアナを見た。
「リリアナ様」
「……必要な無茶だった」
「まだ何も言っていません」
「言われる前に言った」
「では、治療します」
「今は――」
「治療します」
「……はい」
騎士団長が聖女に完全敗北した瞬間だった。
周囲の騎士たちが見ないふりをしている。
俺も見ないふりをした。
◇
採石場の後始末は、戦いと同じくらい大変だった。
黒霧の門番の残骸は危険物として封鎖。
砕けた霧核片は、聖女の浄化布で包み、魔導師ギルドへ送る証拠として保管。
倒した魔物の死骸は焼却。
負傷者は東門と西区の救護所へ搬送。
旧採石場の罠は一部解体し、一部は本隊残党への防衛線として残す。
勝ったから終わり、ではない。
勝った後にも、届けるものは山ほどある。
水。
薬。
飯。
情報。
安心。
そして、ちゃんとした説明。
「街の人たちに、何をどこまで伝えるかですね」
ミレーユが帳簿を閉じながら言った。
彼女も疲れているはずなのに、髪ひとつ乱れていない。
商人令嬢、怖い。
「黒霧の門や王都の件まで全部言えば、混乱します」
「隠すんですか?」
「隠しきれません。ですが、順番が必要です」
順番。
またそれだ。
俺のスキルが一番好きそうな言葉。
ミレーユは指を立てる。
「まず、魔物の先遣群と大型個体を退けたこと。次に、避難は継続すること。三つ目に、水と食糧の配給は止めないこと。最後に、騎士団と教会と商会が共同で復旧を進めること」
「王都の話は?」
「今は伏せます」
リリアナが治療を受けながら頷いた。
「同意する。証拠が不十分なまま王都の名を出せば、逆にこちらが反乱扱いされる」
「反乱扱い?」
「王都魔導師ギルドは権力が強い。黒幕が一部の暴走であっても、こちらの訴え方を間違えれば握り潰される」
面倒くさい。
すごく面倒くさい。
魔物を罠に落とす方がまだ分かりやすい。
「じゃあ、証拠を集めて、順番に出すしかない」
「そうだ」
リリアナは俺を見る。
「だが、それはこの街が生き残ってからの話だ」
「まだ成功率、百じゃないです」
「今はいくつだ?」
俺は視界を確認した。
【都市崩壊回避成功率:九十四パーセント】
【残存リスク:魔物残党、避難混乱、王都方面の干渉】
「九十四のままです」
「高いな」
「高いです。でも、六パーで死ねます」
「お前は本当に正直だな」
「嘘つくと後でしんどいので」
リリアナは少し笑った。
「なら、その六パーを潰す」
「はい」
やることは見えている。
魔物残党の掃討。
避難所の安定化。
南区の疫病完全封じ込め。
東門の再封鎖。
王都への報告文作成。
そして、街の人々へ勝ったことを届ける。
勝利を届ける。
変な話だ。
でも、必要な配送だった。
◇
昼過ぎ。
西区避難所へ戻ると、バルロが大鍋の前で仁王立ちしていた。
「遅い」
「すみません。黒霧の門を返送してました」
「意味が分からん」
「俺もたまに分からなくなります」
バルロは俺を上から下まで見た。
足首。
服の汚れ。
擦り傷。
疲れ切った顔。
そして、鼻を鳴らした。
「座れ」
「いや、まだ報告が」
「座れ」
「はい」
逆らえない。
俺は木箱に腰を下ろした。
バルロは器に粥をよそい、干し肉を多めに乗せて渡してきた。
「食え」
「ありがとうございます」
「街を救ったかどうかは知らんが、腹が減った顔をしてる」
「救ったかもしれません」
「なら余計に食え。英雄でも腹が減れば倒れる」
「俺、英雄じゃないですよ」
バルロは木杓子で鍋を混ぜた。
「飯を届けたやつは、十分役に立ったやつだ」
その言い方が、妙に胸にきた。
俺は粥を食べた。
温かい。
うまい。
本当にうまい。
周囲では、避難民たちがこちらを見ていた。
噂はもう届いているらしい。
「東門を守った人だ」
「黒い魔物を落としたって」
「あの人が道を見つけたんだろ?」
ざわめきが広がる。
やめてほしい。
俺はそういう視線に弱い。
だが、逃げる前に、小さな女の子が近づいてきた。
南区で最初に水を受け取った子だ。
手には、少し欠けた木の器。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
それだけ言って、女の子は母親の後ろへ隠れた。
俺は器を持ったまま、しばらく固まった。
ありがとう。
たったそれだけ。
でも、異世界に来てから一番重い報酬だった。
「……どういたしまして」
声が少し震えた。
バルロが横でぼそっと言う。
「泣くなよ」
「泣いてません」
「泣きそうな顔だ」
「粥が熱いだけです」
「そういうことにしてやる」
◇
夕方。
街の中央広場で、正式な告知が行われた。
リリアナはまだ本調子ではないため、馬車の上から話した。
隣にはセラフィナ。
反対側にはミレーユ。
少し後ろにガルド。
なぜか俺も立たされた。
逃げようとしたら、ガルドに肩を掴まれた。
逃走経路、失敗。
広場には多くの市民が集まっている。
南区。
市場区。
職人区。
貴族区の者までいる。
不安。
疲労。
期待。
疑い。
いろんな感情が渦巻いていた。
リリアナが声を張る。
「市民に告げる。黒霧の森より現れた大型魔物は、旧採石場にて撃退した」
広場がどよめく。
「魔物本隊の侵入も阻止した。東門は損傷したが、街はまだ守られている」
ざわめきが歓声に変わりかける。
だが、リリアナは手を上げた。
「ただし、危機が完全に去ったわけではない。避難は継続する。水と食糧の配給も続ける。病の対策も緩めない」
次にセラフィナが前へ出た。
「どうか、井戸水を勝手に使わないでください。配られる水を煮沸して飲んでください。体調が悪い方は、すぐに教会の治療班へ」
その声は柔らかく、広場に染み込んでいく。
次にミレーユ。
「商会は食糧、水、寝具、荷物預かりの供給を継続します。混乱を避けるため、配給列と避難路の指示に従ってください。横入りした方には、バルロ様の薄い粥が提供されます」
広場に笑いが起きた。
バルロ、いないのに強い。
そしてリリアナが、俺の方を見た。
嫌な予感。
「最後に、この街を救う道を示した者を紹介する」
やめて。
本当にやめて。
「レンジ。前へ」
逃げ道はなかった。
俺はぎこちなく前へ出た。
視線が刺さる。
何百人、何千人いるのか分からない。
全員が俺を見ている。
無理。
これは魔物より怖い。
「えっと……」
声が裏返りそうになる。
俺は深呼吸した。
何を言えばいい。
英雄みたいなことは言えない。
立派な演説も無理。
だから、いつも通りでいい。
「俺は、この街の人間じゃありません」
広場が静かになる。
「剣も使えません。魔法も使えません。たぶん、普通に戦ったらその辺の灰狼にも負けます」
少し笑いが起きた。
「でも、道を見ることだけはできます」
俺は街を見渡した。
「この数日で分かりました。街を救う道って、一本じゃありませんでした」
リリアナ。
セラフィナ。
ミレーユ。
ガルド。
バルロ。
トマ。
南区の若者たち。
商会員。
修道女。
騎士。
避難民。
「騎士が戦う道。聖女が癒す道。商人が物を動かす道。料理番が飯を作る道。帳簿係が記録する道。家族を守ろうとする人たちの道」
言いながら、胸が熱くなる。
「その全部が繋がって、ここまで来ました」
俺は少し笑った。
「だから、まだお願いします。水を煮てください。列に並んでください。避難指示に従ってください。飯を食って、休める時に休んでください」
広場の人々が、静かに聞いている。
「俺たちは、まだこの街に明日を届け切っていません」
言葉が、自然に出た。
「でも、ここまで来ました。だから最後まで、届けさせてください」
沈黙。
一秒。
二秒。
そして、拍手が起きた。
最初は小さく。
やがて広場全体へ広がっていく。
歓声。
拍手。
泣き声。
俺はどうしていいか分からず、ただ頭を下げた。
配達完了ボタンを押すより、ずっと重い瞬間だった。
◇
その夜。
都市崩壊回避成功率は、九十七パーセントに上がった。
【市民への情報共有成功】
【避難混乱リスク低下】
【都市崩壊回避成功率:九十四パーセント → 九十七パーセント】
あと三パーセント。
ほとんど勝ち。
でも、完全ではない。
俺は教会の屋上に座り、王都へ伸びる赤線を見ていた。
細い。
でも、消えない。
そこへリリアナがやってきた。
セラフィナに怒られるから歩くなと言われていたはずなのに、また来た。
「休んでくださいよ」
「お前もな」
「俺は座ってます」
「私は立っているだけだ」
「屁理屈」
リリアナは隣に腰を下ろした。
しばらく、二人で街を見下ろす。
松明の灯り。
避難所の湯気。
遠くの東門。
まだ壊れている。
でも、街は生きている。
「レンジ」
「はい」
「この街に残る気はあるか?」
急な言葉だった。
「え?」
「お前の力があれば、この街は変わる。物流も、防衛も、避難計画も、すべてだ」
「俺は……」
答えようとして、言葉が止まった。
残る。
考えていなかった。
いや、考えないようにしていた。
俺はこの世界で、ずっと流されていた。
勇者パーティーに拾われ、捨てられ、リリアナを拾い、街を救うことになった。
自分の居場所なんて、考える暇もなかった。
「すぐに答えろとは言わない」
リリアナは街を見たまま言った。
「だが、私はお前にいてほしい」
心臓が跳ねた。
戦場での言葉より、よほど破壊力がある。
「それは、道案内として?」
「それもある」
「それも?」
リリアナは少しだけ視線を逸らした。
「命の恩人として。仲間として。……個人的にも」
ずるい。
この女騎士、急にそんなことを言うタイプだったのか。
俺が返事に困っていると、頭の中に表示が浮かんだ。
【新規目的候補】
【辺境都市エルドベルクに物流網を構築する】
【長期成功率:算出不能】
俺は思わず笑った。
「また新しい配送先か」
「何か見えたのか?」
「はい」
「悪いものか?」
「いえ」
俺は街を見下ろした。
まだ壊れかけている。
問題だらけだ。
王都の赤線も消えていない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「たぶん、次の仕事です」
七日後の崩壊まで、残り一日。
街はまだ完全には救われていない。
でも俺は初めて、この街の明日を少しだけ見たいと思った。




