第14話 黒霧の魔導師と、壊される最短経路
黒霧の森から、巨大な影が進んでくる。
黒霧の門番。
昨日、遠目に見た時よりも、ずっと大きい。
四足の獣。
牛とも狼ともつかない頭。
背中から伸びる、曲がった角のような黒い骨。
体全体にまとわりつく霧。
歩くたびに地面が揺れ、採石場の小石が跳ねた。
その後ろに、魔物の群れがいる。
灰狼型。
甲殻猪。
鳥のような翼を持つ黒い影。
数は、先遣群の比ではない。
だが、もっと厄介なのは魔物ではなかった。
霧の中に立つ、黒いローブの人物。
細い杖を持ち、こちらを見ている。
顔は見えない。
それでも分かる。
あいつだ。
南区の井戸を腐らせ、東門を脆くし、薬草を奪わせ、避難所に火を放たせた黒幕。
街を殺すための道を作ってきた相手。
【黒霧を操る魔導師】
【敵目的:旧採石場罠の無効化】
【警告:敵は誘導罠を認識しています】
「やっぱりバレてる……!」
俺は奥歯を噛んだ。
旧採石場の大穴。
第一誘導路。
偽の足場。
第二誘導線。
全部、急ごしらえだ。
敵がただの魔物なら、引っかかる可能性はあった。
だが、魔導師が後ろで直接操るなら話が変わる。
相手は、罠を避けようとする。
こちらの線を壊しに来る。
「レンジ殿」
ガルドが剣を抜いたまま言った。
「見えているか」
「見えてます。最悪です」
「なら、まだマシだ」
「どこがですか?」
「見えない最悪より、見える最悪の方が対処できる」
この人、戦場だと妙に前向きだ。
いや、違う。
腹を括っているのだ。
怖くないわけじゃない。
怖くても動く人間。
俺がそう評されたことがあるけれど、ガルドこそ本物だった。
採石場には、すでに人員が配置されている。
左右の誘導路に騎士。
崖上に弓兵。
退避路に救護班。
後方にミレーユ商会の資材班。
バルロの炊事班は後方避難所で飯を作り続けている。
セラフィナは救護所。
リリアナは東門側の馬車から全体指揮。
全員が、自分の場所にいる。
だから、ここで俺がやるべきことは一つ。
道を見る。
「来ます!」
黒霧の門番が、低く吠えた。
その声だけで、膝が震える。
背後の魔物たちが一斉に動き出した。
先頭は灰狼型。
速い。
その後ろに甲殻猪。
さらに奥から、黒霧の門番がゆっくり進む。
そして、黒ローブの魔導師が杖を上げた。
霧が左右へ広がる。
まるで地面を探るように、黒い霧が採石場の入口へ流れ込んだ。
【敵行動:地形探査】
【第一誘導罠、露見リスク上昇】
「霧で足場を調べてる!」
俺が叫ぶと、ミレーユがすぐに反応した。
「では、予定より早く第一障害を崩します!」
「まだ早いと、門番が来る前に道が塞がります!」
「なら?」
金色の線が揺れる。
早すぎる。
遅すぎる。
どちらも駄目。
霧が大穴の手前まで来る。
偽の足場が露見しそうになる。
【最適崩落タイミング:八秒後】
「八秒後! 左の荷車を落として!」
ガルドが叫ぶ。
「左班、八秒待て!」
騎士たちが緊張した顔で縄を握る。
霧が進む。
魔物の群れが近づく。
黒霧の門番が一歩、また一歩。
まだ。
まだ。
「今!」
縄が切られる。
左側の荷車が崖から滑り落ち、派手な音を立てて砕けた。
石と木材が散り、灰狼型の進路を塞ぐ。
先頭の魔物たちが右へ流れた。
予定通り。
だが、黒ローブの魔導師が杖を振る。
霧が右へ伸びる。
右の誘導路を探っている。
【第二誘導線、露見リスク】
「右を見られてる!」
ガルドが歯を食いしばる。
「弓兵、魔導師を狙えるか!」
「距離が遠い! 霧で視界が悪い!」
魔導師は安全圏から動かない。
直接狙うのは難しい。
なら、別の道を作るしかない。
俺は視界の線を必死に追った。
第一罠。
第二誘導線。
退避路。
魔物の流れ。
門番の足取り。
魔導師の霧。
全部が絡み合い、頭が焼けそうになる。
【目的:黒霧の門番を旧採石場中央へ誘導】
【現在成功率:五十二パーセント】
下がっている。
八十七まで積んだ街の成功率とは別に、大型個体対応の成功率が落ちている。
このままだと、門番は大穴を避ける。
避けられたら、東門側へ流れる。
そうなれば街が終わる。
「何か、餌が足りない……」
「餌?」
ミレーユが聞き返す。
「魔物の死骸の匂いだけじゃ、魔導師が止める。もっと強く、門番だけを引っ張るものが必要です」
「具体的には?」
金色の線が、黒霧の門番の胸元へ伸びる。
霧の中心。
核。
昨日の偵察個体にもあった霧核。
その線が、俺の手元へ戻ってくる。
懐。
昨日、黒い獣を倒した後にミレーユが回収した黒い石。
「ミレーユさん、昨日の霧核の石!」
ミレーユは即座に布包みを取り出した。
「これですね」
黒い石は、布越しでも薄く脈打っているように見えた。
気持ち悪い。
だが、金色の線はそこから大穴の手前へ伸びている。
「それを餌にします。門番の核が反応するはず」
ガルドが顔をしかめる。
「危険ではないのか」
「危険です」
「またか」
「でも、これしかない」
俺は布包みを受け取ろうとした。
その時、横から手が伸びた。
リリアナだった。
馬車から降り、肩を支えられながらも、こちらへ来ていた。
「私が運ぶ」
「駄目です」
「まだ何も言っていない」
「言う前から駄目です」
「騎士団長だぞ」
「患者です」
「またそれか」
「またそれです」
リリアナは悔しそうに俺を見る。
その目は、戦いたくて仕方がない目だった。
でも、傷はまだ完全に治っていない。
走れない。
避けられない。
今の彼女が前に出れば、死ぬ。
俺は首を振った。
「リリアナさんには、ここで命令を出してもらわないと困ります」
「命令?」
「俺が餌を置きに行った後、敵がどう動くか分からない。ガルドさんは前線にいる。ミレーユさんは資材。セラフィナ様は救護。全体を見て、退避命令を出せる人が必要です」
リリアナは黙った。
「だから、ここにいてください。あなたがいるから騎士団が崩れない」
少しの沈黙。
やがて、彼女は布包みから手を離した。
「……必ず戻れ」
「はい」
「戻らなければ、叱る」
「それ、死んだ後でも来そうで怖いですね」
「行くぞ」
ガルドが言った。
「一人では行かせん」
「当然です」
俺は黒い石を持ち、大穴の手前へ向かう金色の線を見た。
怖い。
手が震える。
石が脈打つたび、指先が冷たくなる。
でも、これを置けば門番を引っ張れる。
たぶん。
いや、信じるしかない。
◇
採石場の中央へ向かう道は、すでに魔物の気配で満ちていた。
左右では騎士たちが灰狼型を抑え、甲殻猪を誘導路へ流している。
弓兵の矢が飛ぶ。
石が落ちる。
木材が砕ける。
怒号と咆哮が重なる。
その中を、俺とガルドは走った。
【三歩右】
【伏せろ】
【左から灰狼】
「左!」
俺が叫ぶと、ガルドの剣が走る。
灰狼の牙が俺に届く寸前、首が飛んだ。
「止まるな!」
「はい!」
黒い石が熱を持つ。
黒霧の門番が反応している。
遠くで、巨大な赤い目がこちらを向いた。
来る。
こっちを見た。
【餌設置地点まで二十歩】
あと二十歩。
その時、黒ローブの魔導師が杖をこちらへ向けた。
黒い霧が槍のように伸びる。
【回避不能】
「ガルドさん!」
俺が叫ぶより早く、ガルドが俺を突き飛ばした。
霧の槍が、ガルドの肩をかすめる。
「ぐっ……!」
「ガルドさん!」
「止まるな!」
彼は片膝をつきながらも、剣を構えた。
肩から黒い煙が上がっている。
やばい。
ただの傷じゃない。
黒霧が食い込んでいる。
「先に置け!」
ガルドが怒鳴る。
俺は歯を食いしばり、走った。
餌設置地点。
大穴の手前。
安全そうに見える偽の足場の向こう。
そこに黒い石を置く。
【設置完了】
【黒霧の門番、誘導反応】
門番が吠えた。
黒霧が大きく渦巻く。
魔導師が杖を振る。
止めようとしている。
だが、門番の巨体がこちらへ向きを変えた。
成功だ。
いや、まだだ。
俺は戻らなければならない。
【退避路へ移動】
走る。
でも、足がもつれた。
疲労で体が重い。
その瞬間、黒い霧が足元に絡みついた。
「っ……!」
動けない。
霧が足首を掴んでいる。
魔導師がこちらを見ている。
顔は見えない。
でも、笑っている気がした。
頭の中に、声が響いた。
『道を見る者か』
直接、脳に流れ込むような声。
冷たい。
感情がない。
『邪魔だ』
霧が強く締まる。
足首に痛みが走った。
俺は短剣を抜き、霧を切ろうとした。
切れない。
当然だ。
霧だ。
なのに掴んでくる。
【危険】
【退避不能】
「くそっ……!」
門番が近づいてくる。
地面が揺れる。
このままだと、餌ごと俺も踏み潰される。
ガルドは肩を負傷している。
リリアナは動けない。
誰も間に合わない。
その時、白い光が霧を裂いた。
「レンジ様!」
セラフィナの声。
彼女が救護所から飛び出し、祈りの光を放っていた。
白い光が俺の足元の霧を焼く。
拘束が緩んだ。
「走ってください!」
「セラフィナ様、前に出るなって言ったのに!」
「今は例外です!」
「例外多いなぁ!」
俺は必死に走った。
ガルドが片手で俺を引っ張る。
そのまま二人で退避路へ転がり込んだ。
直後、黒霧の門番が大穴の手前に到達した。
黒い石へ向かって、巨体が踏み込む。
一歩。
二歩。
偽の足場が軋む。
魔導師が杖を振る。
門番の動きが止まりかける。
「今です!」
俺が叫ぶ。
リリアナの声が採石場に響いた。
「崩せ!」
崖上の騎士たちが、一斉に縄を切った。
支えを失った足場が崩れる。
黒霧の門番の前足が沈む。
巨体が傾く。
だが、落ちない。
後ろ足で踏ん張った。
まずい。
半分しか落ちていない。
【第一罠:不完全】
【第二誘導線へ移行】
門番が大穴から体を引き抜こうとする。
魔導師が霧で支えている。
第一罠だけでは足りない。
想定内。
想定内だが、目の前で見ると絶望感がすごい。
「第二誘導線!」
俺が叫ぶ。
ガルドが肩を押さえながら立ち上がる。
「右へ流せ!」
騎士たちが矢を放ち、石を落とす。
黒霧の門番は大穴を避けるように、右の搬出路へ向きを変えた。
敵もそうしたかったのだろう。
大穴を回避する道。
だが、そこが第二の罠だ。
廃油で作った焦げ跡。
危険に見せた道。
安全に見せた崖道。
門番は、安全に見える崖道へ進む。
魔導師も、それを止めない。
乗った。
「後続を止めて!」
俺が叫ぶ。
弓兵が火矢を放つ。
廃油を染み込ませた布に火がつき、搬出路の入口で炎が上がる。
後続の魔物が足を止める。
黒霧の門番だけが、崖道へ進む。
分断成功。
【大型個体と後続群の分断成功】
でも、門番はまだ生きている。
崖道の奥へ進んだ巨体が、こちらへ向き直る。
赤い目が怒りに燃えていた。
魔導師の声が響く。
『小細工を』
黒霧の門番が、崖道で突進の姿勢を取る。
このまま戻ってくる気だ。
狭い道を突っ切って、こちらを踏み潰す。
その瞬間、金色の線が崖上へ伸びた。
崖上には、南区の若者たちが運んだ石材。
荷車。
縄。
そして、最後の支え。
【最終崩落地点】
「崖上! 最後の支えを落として!」
だが、崖上の作業員たちは動けない。
黒霧が伸び、縄を絡め取っていた。
魔導師が妨害している。
このままでは崩せない。
「くそっ……!」
俺は走ろうとした。
だが、足が動かない。
さっき霧に掴まれた足首が痛む。
ガルドも肩をやられている。
セラフィナは救護班に支えられている。
その時。
崖上に、一人の影が現れた。
リリアナだった。
馬車から降り、剣を杖代わりにして、崖上へ立っている。
「リリアナさん!?」
「何してるんですか!」
俺とガルドの声が重なった。
リリアナは答えない。
剣を抜き、黒霧に絡まった縄へ向ける。
傷が痛むのか、顔色は悪い。
だが、その目はまったく揺れていない。
「騎士団長リリアナ・ヴァレンシュタインが命じる!」
彼女の声が、戦場に響いた。
「この街を、誰一人として勝手に奪わせるな!」
剣が振り下ろされる。
黒霧ごと、縄が断ち切られた。
支えを失った崖が、轟音と共に崩れる。
黒霧の門番が咆哮した。
巨体が足場ごと沈む。
崖道が崩れ、大量の石と木材が門番を押し流す。
大穴へ。
今度こそ。
黒霧の門番は、巨大な体をねじらせながら落ちていった。
地響き。
霧の爆発。
黒い咆哮。
採石場全体が揺れる。
俺は地面に伏せた。
耳が痛い。
視界が白くなる。
しばらくして、音が消えた。
大穴の底から、黒い霧が立ち上っている。
だが、門番の巨体は動かない。
胸元の霧核が、ひび割れている。
【黒霧の門番:戦闘不能】
【大型個体対応成功】
採石場に、一瞬の静寂が落ちた。
そして――歓声。
騎士たちが叫ぶ。
作業員たちが抱き合う。
南区の若者たちが拳を上げる。
ミレーユが大きく息を吐き、トマが地面にへたり込む。
ガルドは肩を押さえながら、リリアナを見上げた。
「団長……無茶を」
リリアナは崖上で剣を下ろした。
「必要な無茶だ」
「セラフィナ様に叱られますよ!」
俺が叫ぶと、リリアナは少しだけ顔をしかめた。
「それは困るな」
この人、やっぱりセラフィナ様には弱い。
だが、笑っている暇はなかった。
黒ローブの魔導師が、まだ立っている。
門番を失っても、動揺していない。
むしろ、ゆっくりと杖を掲げた。
『ならば、門を開く』
黒霧の森が、ざわめいた。
地面に黒い魔法陣が広がる。
残った魔物たちが、一斉に震え始める。
俺の視界に、これまでで最も強い赤線が浮かんだ。
【黒霧の門、強制開放】
【発動時、魔物本隊が直接都市内へ転移】
【阻止制限時間:十分】
「十分……!」
門番は倒した。
でも、魔導師は次の手を持っていた。
魔物を歩かせる必要がないなら、罠も防衛線も関係ない。
直接、街の中へ開く。
そんなのありかよ。
俺は立ち上がった。
足首が痛い。
体は限界。
でも、ここで止めなければ全部終わる。
金色の線が、魔導師へ伸びる。
細く、危うく、今にも切れそうな線。
【目的:黒霧の門の開放阻止】
【現在成功率:二十一パーセント】
「ここまで来て、二十一パーかよ……」
でも、ゼロじゃない。
俺は息を吸った。
まだ届けていない。
この街に、明日を。
まだ届け終わっていない。




