夏便り、海より(二)
卓上の銀器には砕いた氷が敷き詰められ、その中央で、薄金色の茉莉花茶を満たした硝子の水差しが冷やされていた。器の縁からは冷気がかすかに立ちのぼり、硝子の表面に結んだ水滴が、時折ゆっくりと氷の上へ滑り落ちていく。
傍らの白磁の皿には、花の形に整えられた緑豆糕が並んでいる。淡い緑と薄黄色の二色に仕立てられ、中央に添えられた小さな棗の実が、花芯のように見えた。
「わぁ、美味しそう!」
席へ案内されるなり、美瑚の瞳が菓子へ吸い寄せられる。
「美瑚さん。まだ小聿さまから勧めていただいておりませんよ」
「分かってるよ。見てるだけ」
そう答えながらも、その身体はすでに卓の方へ大きく傾いている。
「目だけでなく、手まで伸びそうに見えるが」
小聿が呆れたように言うと、美瑚は慌てて両手を背中へ回した。
「伸ばしてない!」
「今は、ね」
小聿は小さく笑うと、二人へ席を勧める。
冷たい茉莉花茶と緑豆糕を口にし、夏の暑さにすっかり火照っていた二人がひと息ついた頃、小聿は傍らに用意していた二つの包みを、それぞれの前へ差し出した。
「二人に、海蘭からの土産だよ」
美瑚は目の前に置かれた包みを、期待に満ちた瞳で見つめた。
「開けてみてもいい?」
「もちろん」
許しを得るや否や、美瑚は包みを結んでいた紐へ手を伸ばす。その隣では、星那が「ありがとうございます、小聿さま」と丁寧に揖礼してから、包みをそっと手に取った。
「「わぁ……」」
包みを解いた二人の口から、小さな感嘆の声が漏れる。
中に収められていたのは、色鮮やかな糸で精緻な刺繍を施した手巾だった。
美瑚の手にあるのは、淡い水色の布に、小魚が水面から跳ねる姿を刺繍したもの。銀糸で描かれた波紋が陽光を受け、きらきらと涼しげに輝いている。星那の手巾には、柔らかな生成りの布地に、野に咲く小さな花々が色とりどりの糸で刺されていた。花の合間からは、若草色の葉が控えめに覗いている。
「すごい!このお魚、可愛いっ!」
美瑚は手巾を両手で広げ、光へ透かすように掲げた。
「こちらのお花も、とても美しいです。一針一針が、本当に細やかで……」
星那は指先で刺繍の縁をそっとなぞり、感嘆の息を漏らす。
「二人に似合いそうなものを選んだのだ。気に入ってもらえたのなら、何よりだよ」
小聿は、嬉しそうに手巾を眺める二人を見つめ、満足げに目を細めた。
「とても丁寧な仕事でございますね」
施された花の刺繍を指で撫でながら星那は言う。
小聿は「うん」と頷いた。
「それは、海蘭東北部の山間にある村で、女たちが作ったものなのだ。一針一針、随分と手間をかけて縫い上げているそうだよ」
「糸も、とても綺麗ね」
美瑚は手巾を裏返したり、光へ透かしたりしながら、鮮やかな刺繍糸をしげしげと眺めている。
「ああ。私も初めて見た時は、その仕上がりに驚いたよ。これほどの品なら、聖都でもきっと相応の値がつくだろうに……」
そこまで口にして、小聿はわずかに目を伏せた。
「聖都でもってことは、海蘭では高く売れないの?」
美瑚に尋ねられ、小聿は静かに頷いた。
「あの村には、品を遠くまで運ぶ手立ても、それを広く売る伝手もない。今は村の男たちが、潮洋へ出稼ぎに行く折に持っていき、わずかな値で売るほかないそうだ」
「こんなに綺麗なのに、勿体ないね」
美瑚は眉を寄せ、手元の小魚をじっと見つめた。しばらく刺繍を眺めていたが、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
「ねえ。この刺繍、手巾だけなの?」
「私が村で見たのは、主に手巾だった」
「そうなの?手巾だけでは勿体ないよ」
美瑚は手巾を卓へ置くと、自分が着ている水色の一枚衣の裾を両手で摘み上げた。
「ほら、こういうところに、小さなお花やお魚が刺してあっても可愛いと思う。歩いた時に、裾から少しだけ見えるの」
続いて、腰で結ばれた白いリボンを指差す。
「ここにも。端の方に同じ模様が入っていたら、結んだ時にちゃんと見えるでしょう?」
「まあ……。それは、とても素敵ですね」
星那も美瑚の裾へ目を向け、柔らかく目を細めた。
「着物の襟元や袖口に施しても、美しいのではないでしょうか。領巾の端へ、このような花を一列に並べてもよく映えると思います」
「でしょ?手巾だけじゃなくて、いろいろなものにできるよ」
美瑚は得意げに胸を張る。
小聿は答えず、二人の衣装と、卓上に広げられた二枚の手巾を交互に見つめた。
これまでは、村で作られている品を、いかに適正な値で売るかばかりを考えていた。けれど、刺繍そのものに価値があるのなら、何も手巾という形に留める必要はない。
「……なるほど」
小聿は考え込むように、手巾の刺繍を指先でなぞった。
「刺繍を一つの意匠として扱い、衣装や服飾小物へ広げるのか。そうすれば、同じ技術でも品の幅を増やせる」
「難しいことは分からないけれど、可愛かったら欲しい人はいると思うよ」
あっけらかんと言う美瑚を見つめ、小聿はふっと笑った。
「そなたは時折、驚くほど商家の娘らしいことを言うね」
「時折って何?」
「褒めているのだよ」
「絶対、少し馬鹿にしてる」
「気のせいではないかな」
小さく笑って、小聿は一口茶を飲む。
「そなたが家業を継ぐ頃には、この刺繍を使った衣装を、聖都中で売っているかもしれないね」
小聿は、半ば冗談めかして言った。
「うん。そうする!」
ところが、美瑚は迷うことなく大きく頷いた。
「美瑚がお店を継いだら、この村の人たちに、たくさん刺繍をしてもらうの。手巾だけじゃなくて、一枚衣も、着物も、領巾も。美瑚が考えた可愛い服に、いっぱい縫ってもらう!」
「ずいぶん大きな商いになりそうだね」
「なるよ。だって、こんなに綺麗なんだもの。みんな、きっと欲しがるよ」
美瑚は疑うことを知らない瞳で、手の中の小魚を見つめた。
そのあまりに真っ直ぐな自信に、小聿と星那は顔を見合わせ、微笑みを交わしたのだった。




