利用
カチャ。
予想外に軽い音が耳に届いた。
恐る恐る瞼を開けると、櫻井さんの手には開錠された手錠が握られていた。
自分自身の手首を確認すると、何度も擦れた痕が残っていただけだった。
「動くな」
櫻井さんの鋭い声色に、思わず肩が跳ねる。
その視線の先には、半歩こちらへ歩みを進めようとしていた藍田さんの姿があった。
藍田さんは伸ばしかけた足先をその場へ戻し、小さく息を吐く。
「……予想外です。君のことはあれ以来、完全に掌握したつもりでしたが」
「黙ってください」
「あの時の恩を、もう忘れたのですか?」
「忘れてなど、いませんよ」
ぽつりと呟く。
奥歯を噛み締めたあと、櫻井さんは声を張り上げた。
「でもな、“利用されるために救われた”なんて、それだけは絶対に認めない!!」
空気がびりびりと震えた。
荒ぶる感情を押し殺すように、櫻井さんはひとつ息を吐く。
そして、ワントーン落とした声で藍田さんを真っ直ぐ見据えた。
「だから、俺はあなたをとめます」
「君にしては、冗談を言うようになりましたね」
「本気です」
「何故です?それこそ、01自身がシステムの必要性は身に染みて理解したはずです。違いますか?」
藍田さんと、視線が重なった。
ここにきて、嫌という程思い知った。
間違っているはずなのに、どうしても否定は口にできず、俺はただ逃げるように視線を落とした。
「01。君は櫻井くんにも、何度か両親の件を尋ねていますね」
「君の知りたい情報を隠す彼は、果たして本当に味方でしょうか?」
「『警察署内の、老朽化した機材爆発による不運な事故』」
「そう、聞かされていますよね」
「……このフロアに、見覚えはありませんか?」
「藍田さん……!」
制止しようとする櫻井さんに目もくれずに、藍田さんは静かに続ける。
「あの日も、君はここにいました」
「君はすべて見ているはずです、01」
「ちゃんと、思い出してください」
「柚紀、耳を貸すな」
櫻井さんが肩を掴む。
力のこもった手は痛いが、そんなことはどうでもいい。
(そんなはず……)
ここにいたはずがない。
胸の奥に、ずっと触れられなかった“塊”がある。
『ゆず……っ!!ダメ……っ、ダメ!!』
記憶の中身はぼやけているのに、いつかの夢の中で聞いた葉月の声をふと思い出した。
◇ ◇ ◇
蛍光灯の白い光が床に反射する、研究フロア。
「これ以上は認められません」
静かなフロアに響くのは、母の声だった。
冷静で、揺るぎなくて、でも確かに怒りを含んでいる。
「脅迫は同意とは言えない。あなたはわかっているはずです、藍田」
父が静かに続ける。
「研究は合意の上で成り立つものだ。成果のために倫理を曲げるなら、それはもう研究ではない」
机の上には分厚いファイル。
データ。
被験者のログ。
藍田が破棄を命じていた記録。
机の上に並べられた証拠だけで、十分だった。
二人が本気で内部告発に動こうとしていることは、もはや疑いようがない。
「……それで、内部告発を?」
藍田の声は穏やかだった。
「辞めないならば、そうします」
対して、母の返答は迷いがなく言い切った。
「私たちはあくまで、共同研究者です。共犯者ではありません」
「……そうですか。残念です」
次の瞬間。
椅子が倒れる音。
短い悲鳴が、研究フロアに響いた。
◇ ◇ ◇
居住区。
両親が俺たちを寝かしつけて部屋を出たあと、しばらくして俺は目を覚ました。
部屋の中に、父と母の姿はなかった。
隣には葉月だけが、静かに寝息を立てていた。
「……おかあさん、どこ……」
「んん……ゆず?」
不安から涙がこぼれ始めると、葉月も目を覚ました。
葉月が頭を撫でてくれても、涙は止まらなかった。
見かねた葉月は困ったように辺りを見回したあと、俺の顔を覗き込んだ。
「さがしにいく?」
心強い一言に、俺は小さく頷く。
葉月は立ち上がると、俺の手を引いた。
初めて俺たちだけで開けた居住区の扉は、鍵もかかっておらず、簡単に開いた。
真っ暗な廊下のなかを、ただ壁伝いに恐る恐る歩いた。
恐怖に何度も足がすくみそうになる中、やがてどこからか人の声がした。
よく聞くと、その声には聞き覚えがあった。
「おとうさん?」
葉月も気付いたように、俺の手を強く握り返す。
「もうすこしかも!」
暗い廊下の先に両親がいる。
そう思うと、少しだけ足取りが軽くなった。
やがて、母の声も聞こえてきた。
けれど、曲がり角に差しかかった瞬間。
聞き慣れたその声が、聞いたことのない悲鳴に変わった。
何かが倒れる音。
それきり、何も聞こえなくなった。
廊下を曲がった先。
ひとつだけ明かりの漏れる部屋を、そっと覗き込んだ。
床に横たわる両親。
白衣のうえに、鮮やかに広がる赤。
「……え」
足が止まる。
空気が凍る。
その向こう側に立つ影はゆっくりとこちらを振り返った。
白衣の袖口に、わずかな濡れた痕。
血しぶきに汚れたレンズ越しに、冷たい視線とぶつかった。
そこには、何の動揺もなかった。
一歩、近づいてくる。
「……見てしまったか」
そのとき、葉月が俺の前へ回り込んだ。
そのまま、俺をぎゅっと強く抱きしめる。
「ゆず……っ!!ダメ……っ、ダメ!!」
その瞬間。
俺たちと男との間で、空気が歪んだ。
見えているのに、触れられない。
ガラスのようで、水面のようで、でも何もない。
手を伸ばそうとした男の指先が、確かに止まる。
数秒。
いや、数分だったかもしれない。
どれだけ経ったのか、もうわからなかった。
「……これは」
男の目が、初めて細くなる。
空間の歪みは、やがてふっと消えた。
同時に、葉月の身体から力が抜ける。
「はづ……っ」
倒れてきた葉月を支えきれず、俺も巻き込まれるように床へ倒れた。
倒れた衝撃で床に打ち付けた後頭部が、ズキズキと痛む。
やがて、視界が暗くなる。
意識が沈む直前。
男の声が、遠くで響いた。
「……なるほど」
「これは、使える」




