Day5|引き金
「ついてきなさい」
翌朝。
いつも通り、居住区を出て、手錠に繋がれたまま歩を進める。
けれど今日は、どこか違っていた。
いつも実験を行う部屋を通り過ぎ、そのままさらに奥へ。
人気のない廊下は照明もまばらで、一歩進むたびに足音だけが静かに響く。
やがて、ひとつの重厚な扉の前で藍田さんは足を止めた。
認証カードをかざす。
電子音が鳴り、ゆっくりと扉が開いた。
鼻をつく鉄のような匂いが、肺の奥まで流れ込む。
(……この匂い)
身体が強張った。
知っている。
知っているはずがないのに。
照明の落ちた部屋へ、一歩足を踏み入れる。
その瞬間、全身の細胞が警鐘を鳴らした。
ここだけは違う。
ここへ入ってしまえば、もう戻れない。
そんな確信にも似た恐怖が、胸を締めつけた。
無意識に一歩後ずさる。
しかし背中が誰かにぶつかった。
「おや、どこへ行くつもりですか」
藍田さんだった。
「ここに逃げ場はありませんよ」
「……いやだ」
喉が震える。
「ここは……ここだけは……っ」
藍田さんは穏やかに微笑む。
「目を逸らさず、よく見なさい」
その声だけが、不気味なほど優しかった。
「ほら。聞こえるでしょう」
静寂の中で囁くように言う。
「『助けて』って」
その囁きがまるで引き金のように、胸の奥で何かが弾けた。
現実と記憶の境界が溶けていく。
逃げ惑う人。
抵抗する力すら失った虚ろな瞳。
壁に残された無数の爪痕。
大きく見開かれたまま動かない目。
血で汚れた口元。
頬を伝う、最後の涙。
生きられたはずの未来を奪われた人たち。
そして。
その命を奪った誰かは、今も何事もなかったように生きている。
(……にくい)
胸の奥から、黒い感情が噴き上がる。
(こロしテヤりたい……!!)
流れ込む思念が、俺の脳を蹂躙する。
全身を走る痛みが、自分のものなのか、誰かのものなのか分からない。
怖い。
苦しい。
痛い。
悲しい。
悔しい。
渦巻く感情が絡み合い、言葉にならない。
嗚咽だけが漏れ、涙が止まらなかった。
(……たすけて)
意識が沈みかけた、その時だった。
――ピンポーン。
場違いな電子音が部屋に響いた。
藍田さんは一瞬だけ眉を上げる。
モニターへ目を向けると、小さく笑った。
「…そうでした。その前に」
こちらへ振り返る。
「01、君に会いたい人がいるそうです」
霞む視界の向こうで、扉がゆっくり開く。
足音が近づいてくる。
「やあ、櫻井くん。ご苦労様」
「いえ。頼まれていたものを、お持ちしました」
その声を聞いた瞬間。
心臓が止まりそうになった。
思わず顔を上げると、藍田さんの肩越しに櫻井さんと視線が重なった。
しかし、何かを考えているのか読み取る間もなく、櫻井さんは冷たく視線を外す。
その冷たさだけで、すべてが繋がった。
藍田さんも。
櫻井さんも。
内部不正も。
倫理を踏み越えた実験も。
全部。
最初から、繋がっていた。
誰か一人ではなく組織そのものが、最初から腐っていた。
(……終わった)
胸の奥へ、静かに絶望が沈んでいく。
だから、誰にも止められなかった。
藍田さんと何かを短く交わしたあと、櫻井さんが俺の前へ歩み寄ってくる。
その右手が、ゆっくりと腰へ伸びた。
革製のホルスター。
そこから抜かれた拳銃が、静かに持ち上がる。
銃口は迷いなく、まっすぐ、俺へ向けられた。
その時、いつかの言葉を思い出した。
『柚紀が"邪魔"になればそのときは』
(……それが、今か)
櫻井さんの指先が引き金に触れる。
視界の端では、藍田さんは受け取った資料へ視線を落としたまま、こちらを見ようともしない。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
引き金が引かれる、その瞬間を待った。




