Day4|亀裂
ふと目を開けると、白い天井が広がっていた。
冷えきった固い床に手を付き、ゆっくりと上体を起こす。
白い壁も、無機質な照明も、目の前に並ぶ機器も見えている。
それなのに、身体だけがまだ向こう側に置き去りにされているようだった。
耳の奥ではまだ、あの家の蛇口から流れ続ける水音が響いていた。
「戻りましたか」
背中から聞き覚えのある声がした。
振り返ると、藍田さんが淹れたてのコーヒーを片手にそこに立っていた。
「ここは…」
「現実です。その様子だと、真琴くんの記憶をちゃんと見られたようですね」
コーヒーをデスクに置くと、藍田さんはペンを手に取り、こちらへ手を伸ばした。
その手を、俺は反射的に振り払った。
乾いた音が響く。
「あ……」
自分でも、何をしたのかわからなかった。
身体の反応に、心が追いつかない。
「あ……れ……俺、今……何を……」
肩が勝手に震える。
呼吸が浅い。
現実に戻ったはずなのに、胸の奥に残った感覚だけが消えてくれない。
触れようと伸びてくる手。
あれは俺の記憶じゃない。
そう分かっているのに、身体が理解してくれない。
(こんなのを、ずっと抱えて生きてきたのか……?)
犯人を捕まえたら、終わりだと思っていたわけじゃない。
それでも、ここまでだとは思っていなかった。
終わった“出来事”が、終わらない“影”として、被害者の中に居座り続けること。
いつ解放されるのかもわからないまま、生き続けるという現実。
触れようとするすべての手が怖い。
抗えないかもしれないという感覚だけが、身体の奥深くに染みついている。
「……真琴は」
掠れた声が漏れる。
「あの後、どうなったんですか?」
藍田さんは、一瞬だけ俺に視線を向けた。
「見た通りです。無事に家に戻りました」
「……そう、か」
胸の奥に、わずかに息が戻る。
「しかし」
安堵しかけた呼吸が止まる。
「……しかし?」
藍田さんは、淡々と続ける。
「彼女の母親は、その時すでに他界していました」
「……は?」
意味がわからなかった。
「何、言って……」
母親は入院していた。
真琴はそう思っていた。
だから、また会える日を待っていた。
外食へ行ったら、父親に見舞いのことを聞こうとしていた。
なのに。
「じゃああの時には、もう」
「母親は、真琴くんの情報提供を呼び掛けるためにSNSを開設していました」
藍田さんは、淡々と続ける。
「しかしそこで、彼女自身が犯人ではないかと疑われた。相次ぐ誹謗中傷が、追い打ちをかけたようです」
それでも真琴は、少しずつ日常へ戻ろうとしていた。
こんな被害を減らすために、システムが必要なら。
そのシステムの構築に、多少の犠牲が必要なら。
(……俺で、いい)
そう思った瞬間、自分でも驚くほど、心が静かだった。
そんな俺の様子を横目に、藍田はわずかに頬を紅潮させていた。
「……上出来です」
感情の欠片も含まない声。
「恐怖も、拒絶も、ちゃんと残っている。それでも君は、君のまま戻ってきました。やはり、期待通りです」
急上昇するデータを見る視線。
“人”を見る目じゃない。
「その苦痛は、無意味ではありません」
藍田さんは、静かに告げた。
「必要な手順です」
その言葉が、恐ろしいほど自然に、理屈として胸に落ちてきた。
◇ ◇ ◇
居住区に戻ってからも、震えは止まらなかった。
吐き気をこらえながら、布団に潜り込む。
目を閉じると、あの部屋の空気が蘇る。
それでも。
昨日より、少しだけ“感じている自分”を、遠くに置けている気がした。
「……なあ、01」
小さく、独り言がこぼれる。
「君も、そう思うよな」
返事は、ない。
でも、その沈黙が、ひどく心地よかった。
◇ ◇ ◇
『……なあ、01。君も、そう思うよな』
モニタリング室に、監視カメラから届く音声が静かに響いた。
「人格の分離、か」
視線を右のモニターへ移す。
能力発動時のデータも問題ない。
むしろ、最高値を叩き出している。
発動後の測定においても、今までは沈静化していた数値さえ、完全には落ち切らず、不安定な波を打っている。
「いよいよ、最終調整ですね」




