Day4|ただいまの日常
あれから数週間。
学校にはまだ行けていない。
それでも、部屋へ閉じこもるだけだった日々に比べれば、少しずつ日常を取り戻し始めていた。
相変わらず何もする気にはなれないが、必要最低限の食事や睡眠をとれるようになりつつあった。
階段を降りると、玄関では父が革靴を履いていた。
「あ、お父さん」
「おはよう、真琴。今日はもう起きてたのか」
「うん」
「今日は少し帰りが早くなると思う。戸締りだけは、ちゃんとしておいてくれ」
「うん」
父はネクタイを整えながら、少しだけ困ったように笑った。
「もし予定どおり帰れたら、夜は外食でもどうだ?」
「外食?」
「ああ。たまには気分転換も必要だろう」
「何食べよう……」
「何でもいいさ。パスタでも、ハンバーグでも」
「でも、糖質……」
「今は、ちゃんと食べることの方が大事だ。また走れるようになったら、その時考えよう。」
その言葉に、小さく笑みがこぼれた。
「……考えとく」
「必要なものがあれば連絡してくれ。帰りに買ってくるから」
「うん」
父は鞄を肩へ掛け、扉へ手を掛けた。
「ああ、そうだ」
思い出したように振り返る。
「父さんの書斎だけど、仕事の書類が散らかってるから入らないでくれ。掃除もしなくていいから」
「わかった」
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まり、鍵の掛かる音が響く。
その音を最後に、家の中は静まり返った。
何となくテレビをつける。
朝の情報番組では、今日の天気や交通情報が流れていた。
子ども向け番組へ切り替われば、画面の向こうでは元気な歌が流れている。
どの番組も、いつもと同じ朝だった。
テレビの向こうでは、世界はいつもどおり動いていた。
「……お茶でも飲もうかな」
独り言をこぼしながら台所へ向かる。
蛇口へ手を伸ばしかけて、思わず動きが止まった。
シンクいっぱいに積み重なった皿。
乾ききった茶碗には、ご飯粒がこびり付いたままになっている。
視線を横へ移せば、コンロの脇には飲み終えた缶コーヒーと酒瓶が何本も並び、調味料は蓋も閉められず置きっぱなしだった。
リビングへ目を向ける。
テーブルの上には食べ終わった惣菜の容器。
インスタントラーメンの空きカップ。
割り箸。
足元にはまとめきれなかったゴミ袋が押し寄せるように積まれ、生ごみの匂いが部屋に薄く漂っていた。
「……」
思わず息を止める。
父は昔から仕事が忙しかった。
家事を母に任せきりにしてしまうことも少なくなかった。
でも、ここまで荒れた家は見たことがない。
いつもなら。
母が笑いながら、『もう、お父さんったら』なんて言いながら、いつの間にか片付いていた。
「そうだ」
胸の奥が少しだけ重くなる。
「……入院、してるんだった」
あの日から私は、自分のことで精一杯だった。
部屋から出ることもほとんどなく、父と言葉を交わすことさえ避けていた。
だから家の中を見る余裕なんて、なかった。
父もきっと、仕事と病院を往復する毎日で精一杯なのだろう。
今日は早く帰れると言っていた。
外食へ行くなら、その時に母のお見舞いのことも聞いてみよう。
また会えるのは、いつになるのか。
聞きたいことは、たくさんあった。
その前に。
「少しくらい、片付けようかな」
そう呟いて袖をまくる。
流しへ積まれた皿を一枚持ち上げると、水道の蛇口をひねった。
流れ続ける水音だけが、静かな家に響いていた。




