Day4|長い夜
夕方の駅前。
部活帰り、いつもと同じ帰り道を歩いていた。
スマホの通知には母からのメッセージ。
『帰りは気をつけてね。夕飯は真琴の好きなハンバーグにしたわ』
心地よい疲労の後、それだけで胸がじんと温かくなるような、普通の日だった。
「月宮 真琴さん、ですよね」
振り返ると、作業着の男が立っていた。
笑っているのに、目の奥だけがすごく冷たい。
「君のお母さん、穂波さんが倒れた。今、車で病院に向かってる。案内するから」
(え……?)
反射的にスマホへ視線を落とす。
ついさっき届いたばかりのメッセージ。
倒れた人が送れる内容じゃない。
「え、でも――」
違和感を覚えた瞬間だった。
強く腕を掴まれる。
「っ……!」
振り払おうとしたが遅かった。
鼻と口元を何かで覆われる。
薬品のような匂い。
視界がぐらりと揺れた。
必死に抵抗しようとするほど身体に力が入らない。
見上げた男の目だけが、不気味なほど冷たかった。
そのまま、意識は暗闇へ沈んだ。
◇ ◇ ◇
次に目が覚めたのは、狭いワンルームのような部屋。
手首を縛られ、足はベッドに固定されていた。反射的に脚を引き抜こうとバタバタしていると背後から太い声が飛んできた。
「そんなに暴れると大事な脚、ダメになっちゃうよ、陸上好きなんでしょ?」
「な…んでそんなこと…」
恐る恐る振り返った先には例の男が薄気味悪い笑みを浮かべていた。
何度見ても面識はない。
見たところ30歳近い男だろうが、バイトもしていないし、接点などあるはずもない。
「なぁんでも知ってるよ。一番の親友はみっちゃんでしょ。トマトが苦手で、担任は花岡先生。昨日は購買で焼きそばパン買ってたよね」
息を吐くように流れ出す私の情報は、どれも誤りはない。
HPにでも掲載されていそうな先生の名前ならまだしも、交友関係や食べ物の好き嫌いまで。
もちろん、過保護な両親に止められて、SNSだってやっていない。
(なんで……)
(なんで……)
喉が震えるのに、声が出なかった。
男は優しい声で指をほどき、食事を出してきた。
「大丈夫。痛いことはしないよ。ちゃんとご飯も食べなきゃね。僕の大事なお嫁さんだもの」
その言葉だけ聞けば、善意にすら聞こえる。
でも、その瞳はひどく歪んでいた。
暴力を振るってこないことだけが唯一の救いだった。
けれど部屋の隅には筋トレ器具らしきものが並び、男の身体も明らかに鍛えられている。
体格差だけ見ても勝てる気がしない。
部屋の照明を背に立つ男はやけに大きく見えた。
その姿は、まるで熊のようだった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
すっかり泣きつかれてつい緊張の糸が解けてしまった私は、いつの間にか少し寝落ちていたらしい。
真夜中にハッと目が覚めると、視線の先には男の顔があった。
――ちょうど、覆いかぶさるような姿勢で。
怯え切った私の目をみて、彼は静かにほほ笑んだ。
「起こしてごめんね、そこにあったティッシュ取りたかっただけなんだ。気にしないで」
「い、いえ……」
彼は私の頭上付近にあったティッシュだけとると、鼻を噛む。
当然のように私が固定されているベッドの右側に、横になったきり動かなくなった。
寝息のような呼吸は聞こえるが、本当に寝たのかどうかはわからない。
(な……に……さっきのまさか……)
慌てて着衣を見るが特に違和感はない、はず。
でも、よく考えたら連れてこられた時点で意識がない。
さっきのは未遂か、勘違いか。
それとももう既に――。
何かがあったのか、なかったのかすらも、わからない。
今が大丈夫でも、明日は分からない。
彼は本当に寝ているのだろうか。
また寝てしまったら。
そう思うだけで背筋が冷えた。
それ以降、私は音を立てないよう壁にもたれ、膝を抱えたまま朝を待った。
とてつもなく長く思える夜だった。
やがて閉め切られたカーテンの隙間から、細い朝日がこぼれた。




