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Day3|惨殺事件

 三日目。


 自由のない生活にも、少しずつ慣れが生まれていた。


 最初こそ隙を伺ったが、居住区を出れば手錠は外れない。

 ここ数日で理解したのは、この施設に逃げ道など存在しないということだけだった。


 死角のない監視カメラ。

 行く手を阻む生体認証セキュリティ。


 目を逸らすように落としていた視線を上げる。

 実験室の机の上に金属製のケースがひとつ置かれていた。


 中身は見えない。


 側面には手が通るだけの穴が二つ、開いている。


 まだ距離があるというのに、鼻の奥にかすかな違和感が残る。


「では、触れてください」


 藍田さんは、それ以上何も説明しなかった。


  一歩、踏み出す。

 

 ケースの手前で、もう一度藍田さんの方を見る。


 逃げることは許されないまま、恐る恐るケースに手を差し入れる。

 

 開いた隙間から、強い匂いが漏れた。


「……っ」


 日常とはかけ離れた刺激に、反射的に吐き気が込み上げる。


 ――血の匂い。


 生温かく、湿った臭気。

 鉄のようで、肉のようで、喉にまとわりつく。


 息を吸ったつもりが、むせた。

 鼻の奥がひりつく。


 身を引くより先に、指先が証拠品へ触れた。


 次の瞬間。


 視界が反転した。


 靴底に、粘つく感触がまとわりつく。


 ぬるい。


 踏みしめるたび、じわりと嫌な感触が返ってくる。


 胃が、きりきりと縮む。

 

 空気が重い。

 

 腐敗しかけた生臭さが、肺の奥まで入り込んでくる。


 闇の中。


 もうひとつの呼吸音。


 荒く、湿った息。


 肩が強張る。

 

 喉が鳴る。


 助けを呼ぼうとして、声が出ない。


 視界の端で、影が動いた。


 次の瞬間。


 闇の奥で、何かが鈍く光を返す。


 刃物。


 ぞっとするほど鮮明な、殺意。


 刺される。


 そう確信した瞬間、全身が硬直した。


 逃げられない。


 来る。


 そう思った瞬間、視界が弾けるように白へ戻った。


「……っ、は……っ……!」


 乾いた空気。


 だが、身体が言うことを聞かない。


 心臓が暴れる。

 呼吸が浅く、速い。


 視界が揺れる。


 どこだ。


 ここはどこだ。


 瞬きするたび、白い研究室と闇が交互にちらつく。


 殺される。


 まだ、殺される。


「……っ、やめ……」


 掠れた自分の声が、遠く聞こえた。


「ここは現実ですよ」


 藍田さんの声。


 その一言で、ようやく理解する。


 細く目を開けると、そこには白い研究室と、こちらを見る藍田さんだけがいた。


 ――戻ってきた。


 ここは、現実だ。


 そう思った途端、膝から力が抜けた。


 床に手をつく。


 胃の奥がひっくり返る。


「……う、っ」


 吐き気が込み上げる。


 喉までせり上がったものを、必死に飲み込んだ。


 血の匂いは、もうない。


 なのに、鼻の奥にはまだ残っている気がする。


 呼吸は少しずつ落ち着いていく。


 それでも、手の震えは止まらない。


 殺される側だった。


 間違いなく。


 刺される、その直前まで。


「もう結構です」


 その言葉に、反論する気力はなかった。


 居住区へ戻る途中も、足取りは覚束ない。


 部屋へ入った瞬間、毛布にくるまった。


 蘇る。


 血の匂い。


 ぬるい床の感触。


 闇に潜む気配。


 再び、吐き気が込み上げた。


 口元を押さえ、肩で息をする。


 終わったはずなのに。


 身体だけが、まだ向こう側に引きずられている。


 そんな感覚のまま、固く瞼を閉じた。


          ◇ ◇ ◇


 静まり返った施設内で、藍田はひとりモニターを見つめていた。


 検体01のバイタルは、能力発動時に急激な上昇を示している。


 心拍。

 呼吸。

 神経反応。


 恐怖刺激は、明確に最大域へ到達していた。


 しかし、現実帰還後、数分で沈静化。


 数値は急速に平常域へ戻っていく。


「……一時的反応では、不十分ですね」


 感覚は届いている。


 深く、確実に。


 だが、持続しない。


 藍田は淡々とログを切り替えた。


「次に必要なのは――」


 Enterキーのタイプ音が、静かなフロアに高く響く。


「持続する情動、です」


 恐怖だけでは浅い。


 仕上げに必要な条件は、すでに見えていた。


 藍田は冷めかけた珈琲を一口含む。


 完成は、もう遠くない。

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