Day2 | 軽度事件
相変わらず居住区外での手錠は外されぬまま迎えた、二日目。
藍田さんは手にした書類から視線を上げぬまま、淡々と告げる。
「昨日の測定結果を確認しました。異常はありませんが、まだシンプルに能力を使いこなす経験値が足りませんね。そこで、今回は――こちらです」
そう言って、白い袋に入った何かを二つ、俺の前にそっと置いた。
軽く咳払いをひとつ。
「これは、とある事件現場にあったものです。今日は二つの事件の記憶を見て、この十人の選択肢から犯人を特定してください。早速、まずはこちらから」
白い袋から取り出され、目の前に置かれたのは、犯行当時に犯人が着用していたという上着だった。
「……証拠品、ですか」
嫌な汗が背を伝う。
あの義兄弟の調書に同席した時のことが脳裏をよぎった。
あの時と同じなら、また“見える”。
(見たくない)
けれど拒めば、何をされるか分からない。
「では、触れてください」
いつもと変わらない声だった。
俺は小さく息を呑み、指先をそっと布へ触れさせた。
次の瞬間。
視界が歪む。
――夜。
狭い路地。
焦った呼吸。
走る足音。
視点は定まらない。
まるで、切り取られた写真を高速でめくられているようだった。
相手の顔は、はっきりしない。
ただ、特徴だけが浮かび上がる。
癖のある歩き方。
擦り切れた靴底。
無意識に左手をかばう仕草。
特徴的な耳の形。
腫れぼったい目。
気づいた時には、視界は白に戻っていた。
「……終わり、ですか」
「ええ。十分でしょう」
頭の奥が、わずかにずきりと痛んだ。
耐えられないほどではない。
だが、何かを無理やり引きずり出されたような違和感が残る。
「では、この中から犯人を示してください」
提示された写真に視線を走らせる。
似た顔ばかり並んでいて、一瞬だけ視線が泳ぐ。
だが、見た断片は鮮明だった。
俺は迷わず、見つけた一人を指差す。
「……正解です。やはり断片的とはいえ、記憶の干渉そのものは安定して定着していそうですね」
それはまるで、研究結果の所感を記すような口調だった。
少なくとも、“俺”に向けられた言葉ではない。
藍田さんは走り書きのメモを終えると、次の証拠品を差し出した。
「では、次」
二件目も、似たような事件だった。
ひったくり。
被害者は高齢女性。
荷物を奪われた反動で転倒し、軽い打撲を負ったらしい。
「触れてください」
今度は、犯人が着ていたとされるパーカー。
一瞬、手が止まる。
……当てれば、きっと次がある。
外せば、終わるだろうか。
(いや、そんなはずないか……)
自分で導き出した答えに追いやられるように、布へ指を触れさせた。
再び、意識が引き込まれる。
焦り。
苛立ち。
追い詰められた呼吸。
そして、妙な安堵。
おばあさんが転んだ瞬間、その視点は一度だけ振り返った。
動きが止まる。
けれど、周囲の人間がおばあさんへ駆け寄るのを見ると、再び走り出した。
震える手で、奪ったカバンを抱きしめる。
――大丈夫。
誰も死んでない。
まだ間に合う。
この金があれば。
その感情だけが、異様に生々しかった。
戻ってきた瞬間、思わず膝に手をつく。
「……っ、はぁ……」
息が荒い。
さっきより明らかに、きつい。
「大丈夫ですか」
その声に顔を上げる。
一見、気遣うような声音。
けれど、その目にあるのは観察者の冷たさだけだった。
俺の不調すら、ただの測定項目。
そう思うと、妙に屈辱だった。
「……大丈夫、です」
嘘ではない。
吐き気はない。
立っていられる。
ただ、体の芯が鉛みたいに重かった。
「今日はここまでにしましょう」
こうして二件の事件を見せられ、今日の測定は終わった。
居住区へ戻される途中、かなり体力を消耗していたのか、意識が遠のきそうになる。
眠気というより、神経が焼き切れた後のような脱力感だった。
「今夜の回復ログも確認します。浅眠が続くようなら、提携医院に調整を依頼しますので――」
提携医院。
その単語に、ぼんやりした意識の奥で何かが引っかかった。
(……唯、の……?)
藍田さんの声が遠ざかる。
ベッドへ倒れ込んだところまでは覚えている。
そのまま意識は、深く沈んでいった。
◇ ◇ ◇
静まり返った施設内で、藍田は一人モニターを見つめていた。
検体01のログが規則正しく数値を刻んでいる。
「……悪くありません」
今日使用したのは、死者の出ていない軽度事件。
意図的に情動負荷を抑えた構成だった。
それでも反応は十分。
頭痛。
消耗感。
顕著な眠気。
能力の立ち上がりも早い。
だが。
感覚反応ログを開く。
視覚。
聴覚。
反応はそこに偏っていた。
嗅覚。
触覚。
痛覚。
まだ弱い。
藍田は静かに呟く。
「刺激が足りない」
画面を切り替える。
未解決の惨殺事件。
血液の付着した証拠品。
洗浄されていない衣服。
凶器。
映像ではない。
現物。
匂い。
湿度。
温度。
皮膚に残る感触。
そして。
「刺される直前で戻す」
淡々とした声だった。
完全な死の追体験はまだ不要。
だが、恐怖と痛覚が最高潮に達する“その瞬間”までなら問題ない。
左上のモニターには、深く眠る検体01。
藍田はそれを見つめたまま、小さく呟く。
「順調だ」
モニターの電源が落ちる。
明日の準備は、もう整っていた。




