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微かな灯火

寮の廊下は、夜の静けさを深く吸い込んでいた。


(櫻井さん、どこにいるんだ?)


一刻も早く内部不正のことを伝えるべく櫻井さんを探すがその姿はどこにもない。

 

思えば、こんな時間に執務室を訪ねたことはほとんどなかった。


すれ違う職員の影はなく、静まり返った廊下には人の気配すら感じない。

 

ここから先は保管棟だ。


(櫻井さんも見つからないし、ここまで来たなら資料室覗いていこうかな)


焦って伝えようとした使命感を手放すように、櫻井さんを探すことを諦め、角の階段から地下へと降りる。


証拠を取りに一時的に使われるだけのこの場所の空気は、明らかに冷たかった。


下るにつれて、足元から冷えていく空気に軽く身震いをしていると微かな声が聞こえた。


(……この部屋って、今は使われてないはずじゃ……?)


薄暗い証拠保管室の前で、足が止まる。


中から、聞き馴染みすぎる声がした。


櫻井さんの声だ。


もうひとつは、恐らく橘さんの声だ。


(なんで……こんな時間に、二人で?)


会議のためなら、本部の会議室はいくらでもある。

 

それなのに、わざわざこんな“死角”で。


胸がざわりと揺れた。


気づけば、扉の陰に身を寄せていた。


息を細く絞り、耳を澄ませる。


「……内部不正の件ですが、やはり“柚紀”の方は気づき始めているようです」


橘さんの声。


心臓が一度、大きく鳴った。


(内部……不正……?)


櫻井さんの声が続く。


「……そうか。最悪だな。せっかく、ここまで準備を進めてきたというのに」


声は低く、押し殺したようで。

怒りとも焦りともつかない温度だった。


喉がひくりと震える。


(準備……?)


「柚紀にだけは、知られてはならない。あいつは、動きが読めない」


(俺……?)


「もし深入りすれば……“両親と同じ”になる」


呼吸が止まった。


頭が真っ白になる。


(……両親と……同じ……?)


橘さんが静かに応じる。


「……命の保証は、できません。彼が動けば、この計画そのものが破綻します」


「それだけは避けなければならない。もう数年以上費やしてきたんだ、今更失敗させるわけにはいかない」


櫻井さんの声は、冷たかった。


凍えるように。


「柚紀が“邪魔”になればそのときは…………こちらも、それなりの対応をする必要がある」


(邪魔……?俺を……?)


鼓動が嫌な音で耳を打つ。


足が震えた。


逃げなければと思った瞬間、わずかに身体が扉に触れた。


ガタッ。


小さな音が、静かな廊下に響いた。


それを機に、扉の向こうの空気が変わった。


「……今、誰かいたな」


櫻井さんの声は、一瞬で鋭くなった。


「扉のあたりだ。気配がした」


「この時間はもう誰もいないはずですが」


「……念のため確認する」


足音が近づく。


(だめだ、今見つかったら……!)


息を殺し、静かに後退しようとするが、強張った脚が言うことを聞かない。


心臓は痛いほど早く脈打っているのに、手足は氷みたいに冷たかった。


櫻井さんが扉の前に立つ気配がした。


瞬きすらできない。


長い、永い、数秒。


扉のすぐ向こうで、櫻井さんが小さく吐き捨てるように言った。


「……気のせいか。時間が惜しい。続けるぞ」


橘さんが応じる。


「では、N.Tの件ですが——」


「今夜、決着をつける。

証拠が揃う前に動かれると面倒だ」


(証拠が……揃う前……?)


「柚紀が気づく前に、全部終わらせる」


——全部、終わらせる。


それは紛れもなく、“俺の排除”に聞こえた。


気付いてしまった真実に、心臓がついに耐えられず跳ね上がる。


(……俺……狙われてる……?あの人が。櫻井さんが……?)


信じられなかった。


信じたくなかった。


でも、聞こえた言葉は、耳をふさいでも脳に焼きついて離れなかった。


『両親と同じになる』


『邪魔なら対応する』


『知られてはいけない』


『全部終わらせる』


今思えば、事あるごとによく部屋を出入りしては「なんでも話して」と言っていた。


(あれも全部、俺を"監視するため"……?)


そうだとしたら、何もかもつじつまが合う。


葉月のシュークリームだけでなく、わざわざ月ヶ丘まで行ってクッキーを買ったのも第一現場へ行ったことのカモフラージュ。


時折、当時事件に関与していた櫻井さんに両親のことを尋ねても、のらりくらりと交わされてきた。


保管棟には立ち入るなと、不思議なほど強く叱責された。


たびたびもつれる足に転びそうになりながらも逃げるように、廊下を走り出していた。


何も考えられなかった。


ただひとつだけ、胸に重く刺さっていた。


 


——櫻井さんが、不正を隠すために俺を殺す。


 


そうとしか思えなかった。


いや、ひとまずそれよりも先に危険が迫っているのはあいつらの方。


あいつらが捕まれば、内部不正の生き証人である彼らがどうなるかは――……想像もしたくない。


(あいつらにアジトから逃げるよう伝えなきゃ……!)



          ◇ ◇ ◇


 何度も通ったその場所へ続く暗がりを、一心不乱に駆け抜けた。


息を切らして、やっと辿り着いたアジトには真夜中だというのに、既に何台ものパトカーの赤色灯で眩しく照らされていた。

 

(遅かったか……!)

 

思わず噛み締めた唇から鈍く鉄の味が広がった。


 遠目に見つめていると、連行されていくN.Tの三人。


現場にいる人の多くは見知った顔が多いところを見ると、今回動いているのは櫻井さんの部下たちだ。

 

その様子を、遠くから見つめている藍田さんの姿が目に入った。


「藍田さん……っ」


思わず声をかけていた。


振り返った藍田さんの目は、うっすらと湿っている。

 

いつも冷静な人なのに、どこか脆く揺らいで見えた。


「藍田、さん?」


呼びかけると、彼はハッとしたように目を瞬かせた。


「すまない。情けないところを見せてしまったね」


「いえ、それよりこれは一体―……」


小さく息を吐き、藍田さんは静かに目を伏せた。


「彼らの過去の事件、全部調べたよ。

 まだ確証はないが、あの判決はどう考えても不自然だ。

 おそらく——……内部で証拠隠滅が行われた可能性が高い」


「……っ!」


胸が痛むほど跳ねた。


「じゃあ、彼らの処分は……?」


「……できる限り、善処するつもりだよ」


その声は低く、それでいて優しかった。


「彼らはたしかに加害者だ。でも、その前に紛れもなく……被害者だった」


言葉が出なかった。


こんなふうに言ってくれる大人が、本当にいるなんて——。


「藍田さん……」


本当は事情を説明して、温情を申し出るつもりだったけど、俺の出番なんか一つもなかった。


彼はもう、全部分かっていた。


 俺よりずっと深く、ちゃんと見ていた。


「そうだ、何か用だったかい?」


「えっ。いや、大丈夫です」


「そうか。彼らが君と話したがっていた。行ってくるといい」


「……はい!」


さっきまで凍りついていた世界が、ようやく色を取り戻し始めるような感覚だった。

 


——この人だけは、信じたいと思った。

 


そう思った瞬間、胸の奥でずっと揺れていた迷いがすっと静かに落ち着く。

 

雨に打たれたように消えかかった“正義”への信頼が、かろうじて落ちぬ線香花火の火。


だけど確かに、もう一度灯り直した。


(よかった。まだ信じられる大人がいた)


その安堵は、胸の底から滲み出るように温かかった。


証拠押収のため他の警官たちが慌ただしくアジトへ出入りする中、N.Tの三人は見張りの警官二人に挟まれて、少し外れのしげみのそばにいた。


藍田さんは彼らに事情を説明し席を外してもらうと、代わりに自らが見張り役として残ると申し出た。


「私はここで見ているから、行っておいで」


その計らいに深く頭を下げ、俺は三人のもとへ駆け寄った。

 

合わせる顔はないと思っていたが、あいつらが呼ぶなら断る権利なんてない。

 

警察への罵倒でも、アジトがバレたのが俺のせいだと責められても、すべて受け止めなくては。


自分でも驚くほど強く拳を握りしめていた。

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