谷、七色、醤油
醤油を切らしてしまった。
お刺身が食べたい、と思い立ったはいいものの、魚屋で魚を買い、家に戻って冷蔵庫を開けてみれば、醤油がなかった。
お刺身にしようと買った魚は、まな板の上ですでにいい形に切られてしまっている。
この状態で、お刺身を醤油なしで食べる、というのはないだろう。
さらに言うと、わさびもない。
「・・・・・・買いに行きますか」
しょうがない、とつぶやいて、ぼくはお刺身を皿に移してラップで包み、冷蔵庫へと入れる。
「・・・・・・ん~。コンビニ、でいいか」
玄関のドアを開けてみれば、外は薄暗い。
雲も厚く、一雨来そうだ。
「気圧の谷?」
よく知らないけど、なんとなく思いついた言葉を口にしてみる。
実際には、ただの低気圧だろうとは思う。
傘を手に、玄関に鍵をかけて、外へ出る。
「・・・・・・まあ、ちょろっと行って、すぐ帰る、と」
すぐそこのコンビニだし、傘などいらない、という気もするけれど。
「はなさんにも、言われてるからなあ・・・・・・」
苦笑して、思い出す。
+++
「サン。バカは風邪ひかないというのは、迷信ですから」
ぼくが寝転がっているベッドの横で、はなさんが怒っていた。
「そうだね?」
「バカほどよく風邪をひきます。雨に濡れるぐらいどうってことないだろうと油断して、傘も差さずに雨の中を走るからです」
「・・・・・・はい」
まさしく、その通りに風邪を引いた。
大学の帰り道に雨が降り、傘を持っていなかったぼくは、雨宿りをするより、走って帰った方がはやい、とはなさんの静止も聞かずに走り出し、家にたどり着いたはいいものの、翌日見事に風邪を引いた。
見舞いに来たはなさんは、ほら見たことか、と言わんばかりに嘆息していた。
「・・・・・・サン? 次からは、雨が降りそうなら傘を持ちましょう。たとえどれだけ短い外出でも、です」
「はい」
「雨が降ってきたなら、雨宿りしましょう。・・・・・・できれば、折り畳みでも傘を常に持ち歩くのが一番ですが」
「はい」
「・・・・・・風邪でも、心配ですからね」
そっと、額に手が乗った。
「冷たくて気持ちいい・・・・・・」
「しょうがないですね」
苦笑して、はなさんは濡れタオルを額に載せてくれた。
「・・・・・・食欲はありますか?」
「うん。大丈夫」
「じゃあ。おかゆでも作ってあげます。・・・・・・食べたら、薬を飲んで寝るんですよ?」
「はーい」
台所に向かい、鼻唄交じりにおかゆを作ってくれるはなさん。
ふとその様に、昔風邪をひいたときのお母さんを思い出す。
「・・・・・・はなさん。ありがとうね」
「いいえ。困ったときはお互い様、というやつですよ」
はなさんは、優しく微笑んでくれる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しばらく、静かだった。
ぼくは、ぼんやりとして、額の温くなったタオルを手に取る。
「・・・・・・」
ただ、なんとなく、それをもう一度額に載せて、目を閉じた。
「・・・・・・・・・・・・サン」
少し、眠ってしまっていた。
こちらを起こしたはなさんは、テーブルの上のおかゆを指して、
「起きてください。食べられますか?」
「んー。大丈夫」
まだちょっと眠いけど、と思いながらも、ぼくは体を起こす。
はなさんが、ぼくの膝の上にお盆を置いてくれた。
鍋があって、あたたかそうなおかゆがある。
「・・・・・・熱いから、気を付けて」
「あーい」
ふと、頭がぼうっとしている。
「・・・・・・食欲、あります?」
「食べたい。でも、ぼうっとしてます」
ふむ、とはなさんはうなると、スプーンを手に取り、おかゆを一口掬って、
「はい、あーん」
「・・・・・・あー」
言われるままに口を開け、
「んむ」
口に入ったところで口を閉じる。
「・・・・・・・・・・・・あむ?」
「どうしました?」
「・・・・・・塩味」
「塩しか入れてませんからね。違う味がよかったですか?」
「んーん。・・・・・・ただ、ちょっと懐かし」
「ふうん・・・・・・?」
また一口、差し出してくれる。
「はい」
「あーーん」
そうやって、決して多くはない量だったが、はなさんはぼくが食べきるまで、ゆっくりと付き合ってくれた。
「・・・・・・はい。では、お薬も飲んで」
「あい」
ずび、と鼻をかんで、薬を飲んで、横になれば、またタオルは取り換えられ、ひんやりと頭が冷える。
「・・・・・・・・・・・・あー」
「どうしました?」
「なんか、ごめんね。はなさん」
「何がです?」
「ぼくなんかの、看病させちゃって」
「いいんですよ。お友達じゃないですか」
「・・・・・・うん。ありがとう」
ほっかほっかと温かい。
ぽんぽん、と布団の上からおなかを優しく叩かれる。
ぼくが眠りに落ちたのは、それからすぐだった。
+++
あの後は、寝て起きれば、熱もなく、体調も万全で、さすがはなさん、と思ったものだ。
「・・・・・・何か、お礼がしたいなあ・・・・・・」
はなさんが体調崩したりしたなら、看病しに行くのもありだけど、さすがにそのために体調崩して、とは言えない。
それに、はなさんは実家暮らしだから、ご両親が一緒に住んでいる。
お見舞いならともかく、赤の他人に病人の看病はさせないだろう。
「・・・・・・むう?」
コンビニで醤油を買い、店を出る。
雨が降っていた。
「あらら」
傘を持って出て正解だったね、と思う。
傘を差し、店を出る。
「・・・・・・雨、雨」
しとしとと雨が降る。
車は通らず、静か。
風邪を引いて休んでいるときも、なんだか音は遠くて静かだった。
「・・・・・・雨かあ」
空を見上げる。
「・・・・・・晴れたら、はなさんと遊びに行こう」
うん、と考える。
「あと、何かおごろう。はなさんに、お礼って」
ちょっとしたお菓子くらいなら、きっと喜んでくれる。
「うん。楽しみ」
マンションにたどり着き、自分の部屋まで戻るころには、もう雨はやんでいる。
通り雨の後に、晴れ間が広がれば、見えるものもある。
「・・・・・・」
遠く、七色の虹が見えた。
なんとなくスマホのカメラを向け、写真を撮って、はなさんに送ってみた。
雨が降っているときの静けさはよき




