第7話:張り詰めた三つ巴、そしてプラスチックへの祈り
ティファニー:「苔。浴室から出なさい。今すぐよ。大丸百貨店に限定版のバッグが入荷してるの。観光客に横取りされるわけにはいかないわ。買い物に行くわよ」
感情を一切排した、空気を切り裂くような冷たい声が浴室のドアへと叩きつけられる。
ステイシー:「そんなに焦りなさんなよ、ティフ。その軍隊の鬼曹長みたいなトーンじゃ、優先権はもらえないよ。それにさ、タクはそこから動く気なんてないよ。私の身体が今何を求めてるか、本人が一番よく分かってるからね」
ステイシーは布団の上から足を伸ばして通路を塞ぎ、修行僧すら吐き気を催すような「可哀想な私」の笑みを浮かべた。
ティファニー:ゆっくりと振り返り、ステイシーを容赦なく見下ろす。――「ちょっと、邪魔なんだけど、ステイシー?」
ステイシー:浴室の木製ドアを突き破るような、息が詰まるほどの甘い声でトーンを上げる。――「私はただ、昨日はあの古臭い石畳の境内をすっごく長く歩いたよねって言ってるだけ。彼が自分の世界を私に見せたがってたから付き合ってあげたの。おかげで私の足首、水風船みたいにパンパンに腫れちゃってる。でも、私は文句なんて言わない。タクが私をそんなに歩かせたことを、心の底から申し訳なく思ってるのを知ってるから……。彼のことはよく分かってるもん。私がここで苦しんでるのを放っておいたら、彼は自分を責めて生きていけなくなっちゃうよ。タクはすごく深くて、綺麗な優しさを持ってるの……。指一本動かす前に、私に1時間のマッサージを捧げるのが彼の本音なんだよね。そうでしょ、タク? 早くここから出て、私の看病をしたがってるの、分かってるよ?」
拓真の電源の落ちたノートパソコンの画面を鏡代わりにして、自分の顔を見つめていたジェニファーが、ゆっくりと顔を上げた。彼女の吐き出したため息は、同居人たちの精神性の低さに対する、いかにも高尚ぶった非難そのものだった。
ジェニファー:最初から傷ついているかのような、物憂げで優しい声で。――「なんて打算的なのかしら、二人とも。バッグだの、足の痛みだの……すべてが俗世的すぎて吐き気がするわ。私も今日は中心街には行けないけれど、理由はもっと高次元なところにあるの」
ティファニー:彼女の顔は見ず、自分のネイルをチェックしながら。――「あんたの安いドラマは結構よ、ジェニファー。三十路前の情緒不安定に付き合ってる時間はないの」
ジェニファー:「だって……この2日間、まともな写真が撮れていないのよ? それが私のデジタル・プレゼンス(ネット上の存在感)にどれだけの損失を与えるか分かってる? でも、フォロワーのためじゃないわ。この朝の光よ、これが消えてしまう前に撮らなきゃいけないの。この光は、私と同じように儚いのだから」
彼女は浴室のドアの方を向き、その表情を完全な献身の笑みへと変えた。
ジェニファー:「この世界で、私の本当のエッセンスを切り取れる人間なんて誰もいない。プロのカメラマンだって、ただの『肉体』しか見ていないわ……。でも、タクは違う……。タクは私を見て、私の内なる『痛み』を感じ取ってくれる。私の瞳の奥にある虚無を理解してくれるの。太陽が移動してしまう前のこの絶妙なアングルで、私を美しく描写できる芸術的感性を持っているのは彼だけよ。誰も私の本当の姿を見てくれないの、モスキート。あなたが私を暗闇に置き去りにするはずがないわ」
ガチャリ、と浴室のドアが開いた。
濡れた髪のまま、腰にタオルを巻いた拓真が姿を現した。その表情には、温水に打たれながら「今日こそは流されない」と決意した男の意志が宿っていた。
――しかし、その決意は、ティファニーの視線が彼を射抜いた瞬間に消えてなくなった。
ティファニー:無機質な静けさをたたえ、ただ一本の指で玄関のドアを指差す。――「大丸。中心街。今すぐ。動きなさい」
ステイシー:期待に目を潤ませながら、自分の足を彼の方へとさらに突き出す。――「ここに来て、タク……。自分の罪悪感を和らげるために、この瞬間をどれだけ待ち望んでいたか分かってるよ。あなたの女を癒して」
ジェニファー:胸が締め付けられるような、絶対的な信頼を込めた瞳で彼を見つめる。――「アングルはもう決まっているわ、愛しい人。世界が私たちを汚してしまう前に、私を永遠の存在にして」
拓真はティファニーを見た。
彼女はもう怒鳴ることも、大袈裟なジェスチャーをすることもしなかった。ただ静かに佇んでいる。それは、小作人が今日の労働を果たすのを当然のように待つ地主の姿だった。彼女の放つ圧倒的な支配力が、この部屋の絶対的な軸だった。
次にステイシーを見た。彼女の足首は、彼自身が自ら進んで引っかかりにいかなければならない罠のように、宙に浮いていた。
そしてジェニファーを見た。彼女は、己の神性を理解できる唯一のソウルメイトであるという、重すぎる責任の十字架を拓真に背負わせていた。
最後に、彼は棚の上のフィギュアたちに目を落とした。
エルフの女戦士。魔法少女。杖を持った王女。
彼女たちは静かで、沈黙を守り、拓真に精神的な要求など何ひとつしてこない。
拓真:「……お前たちが、プラスチックだったらよかったのに」
拓真は、自分自身に言い聞かせるように、消え入るようなか細い声で呟いた。
ステイシー:無限の優しさをたたえて微笑む。――「ほら、見て。やっぱり私を喜ばせたくてウズウズしてるじゃない。私のこんな姿を見て胸を痛めて、今すぐマッサージオイルを取りに行くって言ってるよ」
ティファニーは眉ひとつ動かさなかった。彼女は物事の順番について議論をしようとはしなかった。なぜなら、遅かれ早かれ、最終的には自分と一緒に中心街の百貨店へ行くことになるのを確信していたからだ。彼女の沈黙は、一時的な猶予の許可だった。
拓真は、硬直した背中のまま、マッサージオイルを取りに歩き出した。
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