第七話 エレノア観察日記
エレノアと公務で同行する機会が増えていた。
これは俺の判断によるものだ。
エレノアとの関係を良好に保つために、共に過ごす時間を意識的に増やした。
婚約者として自然な行動だし、何より直接観察できる。
(あくまでも戦略だ)
そう自分に言い聞かせながら、今日も馬車に乗り込んだ。
向かいの席に座るエレノアは、資料に目を通している。
今日は王都の市場視察だった。
物価や商品の状況を確認し、報告書を作成するのが王族の務めらしい。
市場に到着した。
エレノアが馬車を降りた瞬間から、動きが変わった。
資料を侍女に預け、周囲をさっと見渡し、まず野菜の露店に近づく。
商人に声をかける口調が、俺に話しかける時とは少し違った。
砕けすぎず、でも威圧しない。
相手が答えやすい間合いで話しかけている。
商人が顔をほころばせながら答えた。
エレノアがそれを聞きながら、細かくメモを取っていた。
(観察眼がある)
俺はやや後ろから、その様子を眺めていた。
エレノアは一軒一軒、丁寧に話を聞いていった。
布地の商人には布地の、鍛冶屋の商人には金属の、薬草売りには薬草の話を引き出す。
それぞれの専門用語を知っていて、相手の立場に立った質問ができる。
(どれだけ勉強しているんだ、この人は)
感心を通り越して、少し呆然とした。
俺も一応横に立って、王子として頷いたりしていたが、実質はほとんどエレノアが一人でやっている。
俺は添え物だった。
視察が終わり、市場の外れにある茶屋で少し休憩を取ることになった。
エレノアが人心地ついたように一息ついた。
「殿下は市場視察はお好きですか」
唐突に聞かれた。
「好きか嫌いかで言えば、嫌いではない」
エレノアが少し嬉しそうに頷いた。
「そうですか。私は好きです。実際に人と話すと、書類だけではわからないことが見えてきますので」
エレノアがお茶を一口飲んだ。
その横顔が、柔らかく緩んでいた。
(好きなんだな、こういう仕事が)
それが滲み出ていた。
義務でこなしているのではなく、本当に楽しそうにやっている。
前世の職場でも、こういう人は少なかった。
翌週、今度は孤児院の訪問があった。
王都の外れにある、小さな孤児院だ。
慈善活動の一環として、王族が定期的に訪問することになっている。
孤児院の門をくぐると、子どもたちが出てきた。
年齢はさまざまで、小さい子は七、八歳、大きい子は十代前半くらいか。
エレノアは馬車を降りた瞬間に、子どもたちの輪の中に入っていた。
自然な動きだった。
ためらいも見栄もなく、ただ普通に、子どもたちの目線に合わせてしゃがんだ。
「久しぶり。元気だった?」
声のトーンが、市場視察の時とも、俺と話す時とも違う。
柔らかくて、温かくて、近い。
子どもたちが口々に答える。
あっちもこっちも喋り始めて収拾がつかなくなりかけたが、エレノアは全員の話を順番に聞いていた。
俺はその光景を、少し離れた場所から眺めていた。
(すごいな)
語彙が貧困になってきているが、それしか出てこない。
院内を見て回りながら、エレノアは院長に施設の状況を聞き、同時に子どもたちの様子も確認していた。
二つのことを並行してこなしながら、どちらにも集中できている。
途中、小さな女の子がエレノアの手を握った。
エレノアがその手を自然に握り返した。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、俺は少し目を離せなくなった。
(やめろ)
自分に言い聞かせた。
惚れるな。
今は戦略的に関係を構築している段階だ。
感情が入ると判断が鈍る。
エレノアが振り返って、こちらを見た。
「殿下、どうかされましたか」
俺は首を振った。
「いや、何でもない」
エレノアが少し眉を寄せた。
「顔色が優れないように見えましたが」
「少し考えごとをしていた」
エレノアがじっと俺を見た。
しばらくしてから、静かに言った。
「……無理をなさらないようにしてください」
短い一言だった。
心配している声だった。
(惚れるなって言っただろ)
内心で自分に突っ込んだが、もう手遅れかもしれないとも思った。
孤児院を出て、帰りの馬車に乗った。
エレノアは今日の視察のまとめを静かに書き留めていた。
窓から差し込む夕日が、その横顔を照らしている。
筆を走らせながら、たまに考え込んで、また書く。
俺はその様子を、なんとなく眺めていた。
エレノアがふと顔を上げ、俺と目が合った。
「見ていらっしゃいましたか」
一拍置いてから答えた。
「少しな」
エレノアが少し首を傾けた。
「何か気になることが?」
少し考えてから、口を開いた。
「お前は、この仕事が好きなんだな」
エレノアが少し驚いたような顔をした。
それからゆっくりと頷いた。
「はい。人の役に立てているかどうかはわかりませんが、関わること自体は好きです」
窓の外に目を向けながら、続けた。
「誰かの話を聞いて、何かを知って、少しでも繋げていけたら。それで十分だと思っています」
その言葉が、静かに頭の中に残った。
馬車が王宮の門をくぐった。
外の騒音が遠くなり、石畳の上を走る音だけが続く。
(惚れた)
観察日記をつけるつもりで一緒に過ごし始めたのに、結果がこれだ。
しかし正確にいうと、惚れたとか好きになったとかではなく、もっとシンプルなことだった。
この人に、嫌な思いをさせたくない。
この人が、泣く場面を作りたくない。
地下書庫の本の中で、エレノアが婚約破棄の場に立ちつくし涙をこらえる場面があった。
あの描写が頭から離れない。
(絶対に婚約破棄したくない)
それは最初からそう思っていた。
死にたくないから、という理由も確かにある。
だが今は、それだけではない。
馬車が停まった。
エレノアが従者に手を取られて降りていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
感情が入ってきた。
計画上は望ましくない。
だが感情を切り離せるかというと、もう無理そうだった。
夜が静かに降りてきた。




