第四話 平民ヒロインが現れた
地下書庫での一件以来、俺の警戒レベルが三段階ほど上がった。
処刑エンドという衝撃的な情報を得た以上、もはや悠長に構えてはいられない。
婚約破棄を引き起こす要因を、一つひとつ潰していく必要がある。
原作の記憶を改めて掘り起こした。
レオンが婚約破棄に踏み切る直接のきっかけは、ある少女との出会いだった。
平民ながら王立学院に入学した少女。
名前は「アリア」。
魔法の才能に恵まれた、明るくて素直な性格の少女だ。
なろう小説の定番テンプレートを踏んでいる。
王子が平民の少女と親しくなり、婚約者よりも彼女に惹かれていく。
その果てに卒業パーティーでの婚約破棄という展開が待っている。
(アリアとの接触を避けなければならない)
これが当面の方針だった。
近づかない。
話しかけない。
イベントが発生しそうな場所には近寄らない。
そう決めた翌週のことだった。
王立学院の廊下を歩いていると、前方で小さな騒ぎが起きていた。
何冊かの本が廊下に散乱しており、一人の少女がそれを拾い集めているところだった。
茶色い髪。
質素だが清潔なドレス。
申し訳なさそうに周囲に頭を下げながら、本を一冊ずつ集めている。
(アリアだ)
俺の中で警戒が最高段階まで跳ね上がった。
一目見ただけでわかった。
原作の記憶にある「アリア」の特徴と、目の前の少女が一致している。
(関わるな。素通りだ)
足を止めずに通り過ぎるつもりだった。
しかし通り過ぎようとした瞬間、本の一冊が俺の足元まで滑ってきた。
(くそ)
立ち止まるしかなかった。
本を拾って、差し出す。
それだけの動作だが、接触は接触だ。
「これ、落としたか」
アリアが一瞬だけ固まった。
そして丁寧に、しかし媚びることなく頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下。ご迷惑をおかけしました」
声が落ち着いていた。
王子を前にして必要以上に萎縮している様子もなく、かといって馴れ馴れしくもない。
礼儀と距離感のバランスが取れている。
(普通だ)
違和感があった。
原作では、アリアはレオンと出会うと緊張しながらも明るく話しかけてくる設定だった。
だが目の前の少女には、こちらに愛想を振りまく気配が微塵もない。
残った本を拾い終えたアリアが、改めてこちらを見た。
「お礼を申し上げたいところですが、殿下はご多忙かと存じますので。失礼いたします」
そう言って、さっさと廊下を去ろうとした。
(待て、逃げる気か)
逃げようとしているのは俺の役目だったはずなのに、向こうが先に撤退しようとしている。
なんとなく釈然としない気持ちを押さえながら、俺は何も言わなかった。
アリアは立ち去った。
その後ろ姿を眺めながら、眉を寄せた。
(……なんだ、あれは)
接触自体は最小限で済んだ。
それはよかった。
しかし何かが、予想と違う。
原作のアリアは、もっと自然に王子と仲を深めていくキャラクターだった。
偶然の出会いを重ねて、少しずつ親しくなっていく。
だが今の彼女には、それを望んでいる様子がなかった。
翌日もアリアと遭遇した。
今度は学院の中庭だった。
昼食の時間に木陰のベンチで本を読んでいるところに、なぜか俺が近くを通り過ぎることになった。
偶然にしては出来すぎだ。
(シナリオの強制力か)
嫌な予感を覚えながら立ち止まると、アリアが顔を上げた。
目が合った瞬間のアリアの表情が、少しだけ複雑に見えた。
「また、ご不便をおかけしてしまいましたか」
開口一番、謝罪だった。
「いや、こっちが近くを通っただけだ」
アリアが不思議そうに首を傾けた。
「……殿下が、わざわざここに?」
嫌な感じがしない。
むしろ向こうも、この状況を望んでいない様子に見える。
(被害者っぽい)
その感覚が、じわじわと膨らんできた。
試しに、少しだけ話しかけることにした。
「王立学院には慣れたか」
アリアが本を膝に置いた。
「おかげさまで。授業の内容は難しいですが、図書館にいい本が揃っていますので助かっています」
答えが普通だった。
お世辞がない。
王子に話しかけられて舞い上がっている様子もない。
ただ質問に答えているだけだ。
「魔法の授業はどうだ」
アリアが少し考えるような間を置いた。
「正直なところ、基礎から積み直している最中です。平民の独学とは勝手が違いますので」
素直な答えだった。
「苦労しているか」
少し間があった。
「はい。でも知らなかったことを知るのは楽しいです。苦労と楽しさは別々に存在するものだと思っています」
そう言って、アリアは少し間を置いた。
「……殿下は、なぜ私に話しかけてくださるのですか」
思わず言葉に詰まった。
「たまたま近くにいたからだ」
アリアが静かに首を振った。
「それは昨日も同じ状況でしたが、昨日は何もおっしゃいませんでした」
するどい。
俺が何も言えずにいると、アリアは続けた。
「私は殿下に目をかけていただけるような立場でもありませんし資格もございません。お気遣いはご不要です」
言葉に棘はなかった。
だが遠ざけようとしていることは、はっきりとわかった。
(こいつ、俺を避けようとしてる)
それが俺の、この時点での結論だった。
逃げようとしているのは俺だけじゃなかった。
アリアも俺との接触を望んでいない。
少なくとも、積極的に近づこうとする意図は見えない。
では、なぜ原作では二人が近づいて婚約破棄に至るのか。
(誰かが、この状況を意図的に作り出している?)
その考えが頭をよぎった瞬間、全身に冷たいものが走った。
偶然の出会いが続くのは、偶然ではないかもしれない。
本が廊下に散乱していたのも、俺が中庭に差し掛かるタイミングがアリアの昼食時間と重なったのも、誰かが計算した上での配置だとしたら。
(黒幕?)
まだ証拠は何もない。
考えすぎかもしれない。
だが一つだけ、確かなことがある。
アリアは少なくとも、俺が警戒していたような「積極的に王子に近づく平民ヒロイン」ではない。
むしろ何かの事情を抱えた、俺と似たような立場の人間に見えた。
ベンチのアリアに軽く頷いて、俺は中庭を去った。
背後でページをめくる音がした。
歩きながら、違和感の正体を探り続けた。
なろう小説のテンプレートが、微妙に現実と噛み合っていない。
(この世界は、俺が読んだ話通りに動いているわけじゃないのかもしれない)
そんな予感が、静かに育ち始めていた。




