第三話 婚約破棄されたので隣国で幸せになります
翌朝、剣術稽古が終わり、王立学院の昼休みに決行した。
地下書庫への鍵を胸元で確認しながら、その場所へ続く廊下を歩く。
従者には「少し調べ物がある」とだけ告げて、単独で向かうことにした。
地下書庫の入り口は、王宮の北棟の奥まった場所にあった。
普通に歩いていれば通り過ぎてしまうような、目立たない鉄の扉だ。
分厚い石の壁に囲まれており、扉の前に立つだけで温度が変わる。
鍵を差し込んで回した。
重い金属音がして、扉が開いた。
(思ったより暗い)
階段を降りると、石造りの通路が続いている。
壁にはいくつか燭台があり、ちょうど火が入っていた。
管理人が定期的に来ているのだろう。
通路の先に、広い部屋があった。
天井は低く、壁沿いに棚がびっしりと並んでいる。
棚には大量の本が収められており、羊皮紙の束や巻物も混在していた。
古い紙とインクの匂いが、部屋全体に染みついている。
(地下書庫というより地下図書館だな)
規模は思ったより大きかった。
棚を眺めながら奥へ進む。
ほとんどは国家の公文書や学術論文のようで、特に変わったものは見当たらない。
(原作のレオンは何を探していたんだ)
目的もなく歩き回っていると、棚の並びが変わった。
奥の方に、少し離れた場所に別の棚がある。
他の棚とは明らかに雰囲気が違う。
近づいてみると、その棚は木に金属の枠がはめられており、小さな扉がついていた。
手元の鍵を当てはめると、ぴったりと合った。
(この鍵はここへ入るためのものか)
扉を開けると、中には十冊ほどの本が並んでいた。
他の棚の本より明らかに古く、表紙の革が変色している。
埃はほとんどなく、定期的に管理されている様子だった。
端から順に背表紙を確認していく。
タイトルが記されているものと、そうでないものが混在している。
内容の察しもつかない難解な題名のものもあった。
そして、一冊を手に取った瞬間、指が止まった。
表紙に刻まれた文字を読んだ。
「婚約破棄されたので隣国で幸せになります」
(この、タイトル)
全身に鳥肌が立った。
知っている。
このタイトルを知っている。
前世でスマートフォンの画面を見つめながら、寝不足覚悟で最終話まで読み切った、あのなろう小説のタイトルだ。
手が震えないように意識しながら、表紙を開いた。
最初のページに、物語の始まりが書いてある。
文章を目で追い始めた瞬間、胃の奥がずん、と重くなった。
前世で読んだ、あの話だ。
一字一句は違う。
当然、この世界の言語で書かれているのだから、そのままのはずがない。
それでもその内容は、俺が記憶している物語と寸分も違わなかった。
ヒロインが婚約を破棄される場面から始まる話。
理不尽な理由で婚約者を失った令嬢が、くじけずに立ち上がり、隣国へ渡り、皇帝の後宮に招かれて幸せをつかむ話。
(完全に同じだ)
違う点が一つだけあった。
前世で読んでいた時、ヒロインの名前は「エレア」だった。
だがこの本に書かれているヒロインの名前は、「エレノア」だ。
「エレノア」。
俺の婚約者と、まったく同じ名前。
(冗談だろ)
ページをめくる手が、かすかに震えていた。
物語を読み進めるほど、確信が深まっていく。
エレノアの育ちの描写。
彼女の性格の丁寧な書き方。
使用人たちに慕われているという描写。
公務に積極的に関わるという描写。
先日の茶会での穏やかな受け答えまで、細部が俺の記憶と重なっていく。
(これは俺の婚約者についての話じゃないか)
棚に寄りかかって、ページをめくり続けた。
物語の序盤は婚約破棄のシーンだ。
卒業パーティーで、王子に衆人の前に呼び出され、一方的に婚約を打ち切られる。
その場でエレノアが涙をこらえて立ちつくす姿が、細かく描写されていた。
(読みたくない)
読みたくないのに、手が止まらない。
内容がわかっているのに、目が文字を追い続ける。
なかほどに差し掛かったところで、王子の末路が書かれていた。
婚約破棄後の王子は、自分の醜聞が広まり、貴族社会から締め出される。
財産を失い、地位を剥奪され、やがて国外追放の憂き目に遭う。
(それが原作のレオンの末路か)
前世で読んでいた記憶では、悪役王子はそのあたりで退場していた。
読んでいた当時は「ざまぁだ」と思って流し読みしたが、今その役を俺が担っていると思うと、笑えない。
ページをめくる。
エレノアが隣国の皇帝と出会うシーン。
少しずつ打ち解けていくシーン。
エレノアが少しずつ笑顔を取り戻すシーン。
(よかった、って言いたいところだが)
この物語は俺が婚約破棄をした前提で進んでいる。
ハッピーエンドはエレノアのもので、王子には関係がない。
そして最終章が近づいた頃、俺は手を止めた。
物語のラストに、注釈のような短い段落があった。
王子のその後を記した一文だった。
国外追放になった王子は、やがて反王室派の貴族に利用され、内乱に巻き込まれる。
内乱の終結後、反逆罪の主犯として裁かれる。
判決は、死刑。
処刑。
「……は?」
声が出た。
燭台の火が揺れた。
静かな書庫に、俺の声だけが響いた。
(国外追放だけじゃなかったのか)
前世で読んでいた時、確かに追放の描写はあった。
だがその後の結末については、詳しく読んでいなかった。
主人公であるエレノアに集中していたから、悪役の末路は流し読みしていたのだ。
(読み返せばよかった)
後悔しても遅い。
今わかったことは、原作の結末で俺が処刑されるということだ。
棚に本を戻した。
背表紙を、もう一度眺める。
「婚約破棄されたので隣国で幸せになります」という、エレノアの幸せを描いたタイトル。
その物語の裏側に、処刑というエンドが静かに刻まれていた。
(胃が痛い。今まで一番痛い)
全身の力が抜けそうになるのを堪えながら、書庫を出た。
石の扉を閉めて鍵をかける。
廊下の空気が、地下よりもずっと温かく感じた。
深呼吸を一つした。
追放だけなら、まだ笑えた。
農家でもやりながら生きていけばいい、と自分を慰める余地もあった。
だが処刑となると、話が違う。
(絶対に婚約破棄はしない。死にたくない)
動機が若干不純かもしれないが、本音だ。
エレノアを守りたいとか、正しい道を歩みたいとか、そういう綺麗な話だけではない。
俺は単純に、この世界で生き続けたかった。
廊下を歩きながら、頭の中で情報を整理した。
地下書庫に、前世で読んだなろう小説と同じ内容の本があった。
その本はエレノアを主人公として描いており、内容が現実のエレノアと一致している。
そして物語の結末で、俺に相当するキャラクターは処刑される。
(この本は何なんだ)
予知書なのか。
それとも誰かが書いた架空の話が、偶然現実と重なっているだけなのか。
いや、偶然の一致にしては精度が高すぎる。
エレノアの性格も、公務への関わり方も、使用人への態度も、全部が合致していた。
答えは出ない。
今の俺には、わからない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
婚約破棄は、俺の死に直結する。
太陽が西に傾き始めた午後の廊下を、レオン・アルヴァレス第一王子は一人で歩いていた。
胃が痛かった。
これまでの人生で、間違いなく一番痛かった。




