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第二話 婚約者が最高すぎる件

剣術稽古は、予想以上に身体がついてきた。

レオンの肉体は、どうやら毎日鍛えられていたらしい。

木剣を握った瞬間から手に馴染む感覚があり、身体が自然と構えを取る。

これが「肉体の記憶」というやつか、と妙に感心した。

稽古の相手を務めた騎士団の若い団員は、こちらの動きを見て深く頷いた。

 

「さすがでございます、殿下。今日も切れがよろしいですね」

 

何が「さすが」なのかは俺にはわからないが、ひとまず問題なさそうだ。

前世では運動と縁のない生活を送っていたので、この身体の基礎能力には純粋に感謝したい。

王立学院での授業も、そつなく乗り越えた。

内容は魔法理論と国際情勢の二つ。

魔法は未知の分野だが、この肉体には基礎知識が染みついている。

国際情勢の授業は、前世のサラリーマン時代に読んでいた歴史書の知識が意外なほど役に立った。

もっとも、なろう小説で読んだ世界観との照合がメインだったが。

問題は、夜だった。

学院から王宮に戻り、従者に茶会の支度を整えてもらいながら、俺は鏡の中の自分を眺めていた。

今夜、エレノア・ヴォルテールと初めて顔を合わせる。

(落ち着け。原作の記憶ではいい人だ。怖いことは何もない)

自分に言い聞かせながらも、なぜか緊張していた。

なろう読者として知っている「エレア」と、実際に血の通った「エレノア・ヴォルテール侯爵令嬢」が別物である可能性は、ゼロではない。

茶会が行われる応接間に案内されたのは、日が沈んでしばらく経った頃だった。

暖炉に火が入り、ランプの灯りが暖かく室内を照らしている。

香ばしいお茶の香りが漂っていた。

そして、俺より先にそこにいた人物を見た瞬間、思考が一瞬止まった。

落ち着いた濃紺のドレス。

栗色の髪が、きちんと結い上げられている。

こちらを向いた顔は品があって、表情が柔らかい。

扇情的でも派手でもないのに、不思議なほど存在感がある。

(原作のイラスト通りだ)

いや、それ以上かもしれない。

動いている人間として目の前にいると、印象がまるで違う。

エレノアは静かに立ち上がり、丁寧に礼をした。

 

「レオン殿下、本日はお時間をいただきありがとうございます」

 

声が穏やかで、落ち着いていた。

緊張している様子もなく、だからといって馴れ馴れしくもない。

礼儀と自然さがちょうどいい具合で同居している。

席について、茶会が始まった。

話してみると、エレノアは本当に話しやすかった。

こちらが振った話題を丁寧に拾い、適切な言葉で返してくる。

押しつけがましくなく、かといって壁を作りすぎない。

会話のキャッチボールが成立する相手というのは、当たり前のようで実は得難いのだと、この時改めて思い知った。

話題が王宮の公務に及んだ時、エレノアはさらりと口にした。

 

「先日の東部農村への支援物資の件ですが、輸送ルートを少し変えると経費が二割ほど削減できると試算しております。明日、財務部の方へ提案書を持参するつもりでおります」

 

思わず聞き返した。

 

「自分で試算を?」

 

エレノアが少し首を傾けた。

 

「ええ。侯爵家では父が早くから公務の基礎を教えてくれましたので。おかしなことを申し上げましたでしょうか」

 

少し言葉を探してから、答えた。

 

「いや、そういうわけじゃない……立派だと思っただけだ」

 

エレノアが静かに微笑んだ。

怒るわけでもなく、喜んで取り乱すわけでもない。

ただ穏やかに、受け取るような顔だった。

(すごい人だ)

素直にそう思った。

王宮の公務を自主的に手伝い、コスト削減の提案まで自分でまとめている侯爵令嬢。

前世のサラリーマン目線で言えば、即戦力どころか最優秀クラスの人材だ。

そんな人物が婚約者として目の前に座っているのに、俺の転生先はその人と婚約破棄をする設定になっている。

(本当に意味がわからない)

茶会は一刻ほどで終わった。

エレノアが退室する際に、侍女たちが丁寧に先導した。

その侍女の一人が、部屋を出る直前にエレノアの耳元で何かを囁いた。

エレノアが小さく頷き、侍女の肩をそっと叩く。

侍女は顔を輝かせていた。

(使用人への気遣いまで、自然にやってのける)

廊下の向こうに消えていく後ろ姿を見送りながら、俺は静かに確信した。

(こんな人を捨てるとか正気か?)

いくら考えてもわからない。

婚約破棄をした原作のレオンが、一体どんな思考回路をしていたのか。

小説の読者として読んでいた当時も疑問だったが、直接会ってみると疑問が倍になった。

どう見ても、手放すべき相手ではない。

俺が悪役王子に転生しているという事実さえなければ、婚約をこのまま継続したい相手だ。

いや、はっきり言おう。

(継続で全然いいです)

前世サラリーマンの胃痛持ちが、こんな令嬢と婚約しているなど信じられない幸運だ。

問題は、その幸運をシナリオが壊しに来ようとしていることだった。

応接間を出て、廊下を歩いた。

夜の王宮は静かで、ランプの灯りが石床に揺れている。

従者が後ろを歩いているのを確認しながら、今日の収穫を整理していた。

エレノアは原作で描かれていた以上の人物だった。

聡明さも気遣いも礼儀も、全部が自然に備わっている。

あれは努力して身につけたものではなく、生き方そのものから滲み出る種類のものだ。

(もっとちゃんと知らなければならない)

原作の記憶で知っているエレノアの情報は、あくまで読者視点からの断片だ。

実際にそばにいる人間として、もっと深く理解しておく必要がある。

 

「殿下」

 

背後から従者の声が届いた。

立ち止まって振り返ると、従者が小さな封筒を差し出した。

 

「先ほど、王宮の古文書管理部より届き物がございました。私の手元に預けられていたものです」

 

受け取って開けると、中に鍵が入っていた。

古めかしい、重みのある鍵だった。

一緒に折り畳まれた紙切れに、短く文字が書いてある。

「地下書庫への入室を許可します。王宮学術部長より」

 

「これはどういう経緯で届いた」

 

従者が丁寧に頭を下げた。

 

「詳しくは存じかねますが、殿下が以前にご申請されていた書庫閲覧申請が通ったとのことでございました」

 

申請。

俺には身に覚えがない。

以前のレオンが、何らかの理由で申請していたのだろう。

鍵を手の中で転がした。

冷たく、重く、古い金属の感触だった。

(地下書庫)

原作の記憶を探った。

この場所が何らかの形で物語に関わっていたはずという感覚はある。

だが具体的に何が起こるのかは、ここではまだ思い出せなかった。

どうして原作のレオンはこんな場所への入室申請などしていたのか。

(とにかく、明日行ってみよう)

鍵をしっかり握り締めた。

手元にある以上、使わない手はない。

廊下の窓の外に、夜空が広がっていた。

星が多い。

前世では見たことのないくらい、きれいな星空だった。

一日を振り返ると、思ったより密度が高かった。

エレノアは想像以上の人物で、原作の記憶が霞むほどだった。

そして地下書庫への鍵が、突然手元に届いた。

(まあ、今日は上出来だ)

エレノアとの茶会は最悪にならなかった。

それだけで十分だと、自分に言い聞かせることにした。

あとは、この鍵が何に繋がっているかだ。

地下書庫という言葉が、頭の奥で静かに点滅し続けていた。













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