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第十九話 作者と読者の共闘

時間が止まったように感じた。

「お前との婚約を――」という言葉の続きが、喉元まで来ていた。

全力で押さえた。

歯を食いしばって、唇を引き結んで、それでも言葉が溢れてこようとしていた。

(八百年分の力だ)

ベルナルド老師が言っていた。

人々の願いが積み重なった力だ。

八百年、何百万人分もの「令嬢に幸せになってほしい」「王子にざまぁしてほしい」という願いが凝縮されている。

その力が、今俺の口を動かそうとしている。

膝が震えた。

腕が震えた。

それでも足は動かなかった。

全身が石になったみたいに、固まっていた。

人波の向こうに、エレノアが見えた。

エレノアが、歩き始めていた。

俺の方へ。

周囲がざわめいた。

婚約者が王子に近づいていく。

それだけで、場の空気が変わった。

エレノアが、俺の目の前に立った。

間近で目が合った。

 

「殿下、聞こえますか」

 

声が俺の耳に届いた。

(聞こえる)

返事はできなかった。

でも、確かに届いた。

エレノアが続けた。

 

「これを書いたのは、前世の私です。だから……少しだけ、聞いてください」

 

エレノアが顔を上げた。

俺ではなく、どこか遠くを見るような目だった。

いや、違う。

何かに向けて、話しかけているような目だった。

 

「私の物語を読んでくれた方々へ」

 

エレノアの声が、広間に静かに響いた。

 

「あなたたちの願いが、この世界を作ってきたことは知っています。主人公に幸せになってほしいという気持ちが、この物語を繰り返させてきた!」

 

周囲は静まり返っていた。

エレノアが何を言っているのか、誰も理解できていないような沈黙だった。

エレノアは構わず続けた。

 

「でも、主人公はもう一人で戦っていません!」

 

エレノアの声が、少し揺れた。

 

「今回は……私の隣に、ちゃんとした人がいます」

 

その瞬間、何かが変わった。

俺の中で、縛っていた力が、わずかに緩んだ気がした。

(今だ)

俺は全力で、その緩みに意識を集中させた。

喉元まで来ていた言葉を、内側から押し返した。

八百年分の力に逆らって、ただ一点だけを思った。

(俺はこの人の婚約者として、この場所に立っている)

それだけだった。

それだけを、全力で思った。

身体が、少し震えた。

強制力が、もう一度押し寄せてきた。

(くそ、まだ来るか)

エレノアが、俺の手をそっと握った。

それが引き金になった。

強制力が、激しく揺れた。

嵐の中に入ったような感覚だった。

何百万もの声が一斉に押し寄せてくるような感覚だった。

令嬢を幸せにしろ。

王子を破滅させろ。

物語を完成させろ。

声ではなかった。

音でもなかった。

でも、俺には聞こえた。

それが「物語の意思」だった。

八百年かけて積み重なった人々の願いが、ついに意思を持った存在になっていた。

誰かの憎しみでもなく、悪意でもなく、ただ純粋な願いが積み重なって、世界を縛る力になっていた。

令嬢に幸せになってほしい。

その一念が、凝縮されて、意思になって、物語を永遠に繰り返させていた。

エレノアの手が、少し強く握られた。

(エレノア)

声に出せなかった。

だが何かが伝わった気がした。

エレノアが話し続けた。

 

「あなたたちの気持ちは、本物だと思います。主人公に幸せになってほしいという願いも、本物だと思います。私はそれが嬉しかった。書き続けられたのは、その願いがあったからです」

 

一瞬、強制力の揺れが静まった。

 

「でも、私はもうその主人公ではありません。今の私は、婚約破棄されない物語を生きています。だから……もう終わりにしてください」

 

何かが、大きく揺れた。

強制力が、また押し寄せてきた。

今度は今までより強く。

まるで最後の抵抗のように。

俺の口が、また開こうとした。

(やめろ)

エレノアの手を、今度は俺が強く握った。

 

「俺も言う」

 

声が出た。

かすれていたが、俺の声だった。

 

「俺は前世で、お前の小説を読んでいた読者だった。主人公が好きだった。幸せになってほしいと思っていた。その気持ちに嘘はない」

 

強制力が、ざわめいた。

 

「だが俺は今、その物語の中にいる。そして今回の俺は、婚約破棄なんてしない。作者が主人公の幸せを望むなら、読者である俺も同じ気持ちだ。だからこそ、婚約破棄はしない」

 

エレノアが俺を見た。

俺はエレノアを見た。

作者と読者が、初めて同じ場所に立っていた。

物語を生み出した人と、物語を愛した人が、同じ方向を向いていた。

力が揺れた。

今度の揺れは、前とは違う種類のものだった。

何かが、崩れ始めていた。

(終わる)

そう確信した瞬間、強制力が最後の一撃を放ってきた。

全身が、石になったように固まった。

エレノアの手だけが、感じられた。

(離すな)

俺は決して離さなかった。

世界が、大きく揺れていた。










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