最終話 婚約破棄しません
世界が揺れていた。
強制力の最後の一撃が、全身に重くのしかかってくる。
口が開こうとしていた。
言葉が出ようとしていた。
エレノアの手だけが、感じられた。
(俺は)
考えた。
今まで一年間、何のために動いてきたか。
地下書庫の本を読んだ。
ベルナルド老師に会った。
委員会を作った。
アリアと向き合った。
エレノアと並んで立った。
全部、このたった一つの事のためだった。
俺は、この人の婚約者でいたい。
それだけだ。
口が動いた。
今度は、自分の意思で。
「婚約破棄しない」
声が、広間に響いた。
澄んでいて、迷いのない声だった。
震えていなかった。
今まで出したことがないくらい、はっきりとした声だった。
広間が、静まり返った。
それから、何かが止まった。
強制力が、ぴたりと動きを止めた。
世界が凍ったような感覚があった。
(エラーを起こしているのか)
プログラムが想定外の入力を受けて止まっているような、そういう感覚だ。
八百年間、一度も起きなかったことが起きた。
王子が、婚約破棄をしなかった。
世界が、どう処理すればいいかわからなくなっている。
エレノアが小声で言った。
「……今ですか」
「たぶんそうだ」
強制力が、また動こうとした。
しかし今度は違った。
今まで感じていた押しつぶされるような重さが、今は感じられない。
俺はもう一度、はっきりと声に出した。
「婚約破棄しない。エレノアとの婚約は、このまま継続する」
強制力が、ひびを入れたガラスのように、細かく震えた。
エレノアが続けた。
「この物語の結末は、これで十分です」
その一言が、何かを決定的にした。
音が聞こえた。
物理的な音ではない。
何かが、大きく崩れる音だった。
強制力が、一気に霧散した。
身体が、自分のものに戻った。
膝の力が抜けて、少しよろめいた。
エレノアが素早く支えた。
「殿下」
短く答えた。
「大丈夫だ」
本当に大丈夫かどうかは少し怪しかったが、問題はない。
周囲がざわめき始めた。
カイル卿が駆け寄ってきた。
ゴードン卿が言った。
「殿下、ご無事ですか」
俺は答えた。
「無事だ」
カイル卿が周囲を確認してから言った。
「何かが、終わりましたね」
「終わった」
俺は深く息を吐いた。
八百年続いたものが、終わった。
アリアが少し離れた場所から、俺とエレノアを交互に見ていた。
その目に、何か柔らかいものが混じっていた。
「おめでとうございます」
アリアが静かに言った。
短い言葉だったが、十分だった。
翌朝、地下書庫へ向かった。
エレノアと一緒だった。
禁書棚の扉を開ける。
(真っ白だ)
棚の本が、全部白紙になっていた。
一冊ずつ手に取って確認した。
タイトルも、内容も、文字が一切ない。
八百年分の記録が、消えていた。
繰り返しが終わったから、記録も消えた。
そう理解した。
一冊だけ、違うものがあった。
棚の端に、中に文字が書かれた本が一冊だけ残っている。
手に取って、背表紙を確認した。
『婚約破棄したら破滅すると知っているのに止められません! ~なろう読者だった俺が悪役王子に転生したら、未来予知本のせいで毎日胃が痛い件~』
(これは)
俺の話だった。
この一年間の話が、そのまま本になっていた。
隣でエレノアが覗き込んだ。
タイトルを確認して、少しだけ笑った。
「副題が正直ですね」
俺も苦笑いした。
「毎日痛かったんだ、実際」
エレノアが本を手に取り、最後のページまで確認して俺に返した。
「続きが書かれていません」
「そうだな」
エレノアが少し考えてから言った。
「書きましょうか」
俺は即答した。
「やめろ」
エレノアが少し驚いた顔をしてから、また笑った。
「どうしてですか」
「続きを書いたら、またどこかで繰り返されるかもしれない」
エレノアが少し間を置いた。
「……そうですね、確かに」
エレノアが本を棚に戻した。
外から、朝の光が差し込んでいた。
地下書庫にしては珍しく、どこかから光が入っていた。
白紙になった本が並ぶ棚は、以前より広く見えた。
廊下に出ると、ゴードン卿が待っていた。
「昨夜の一件について、各方面への説明が必要です。本日の予定を確認させてください」
いつも通りの落ち着いた声だった。
「わかった」
カイル卿も廊下にいた。
「今後も不審な動きがあれば引き続き監視いたします」
「頼む」
アリアも少し離れた場所にいた。
近づいて、一言言った。
「色々と巻き込んですまなかった」
アリアが首を振った。
「私も関係のある話でしたので」
少し間があった。
「殿下は、これからも王子として頑張るんですね」
「そのつもりだ」
アリアが小さく頷いた。
「ならよかったです。そちらの方が、農家よりも向いていると思いますので」
俺は少し止まった。
「……農業エンドのこと、知っているのか」
アリアが少し目を逸らした。
「少しだけ書庫に入ったことがありまして」
それ以上は聞かなかった。
廊下の窓から見える空は、澄んでいた。
雲一つない青さだった。
胃が痛くなかった。
(治った)
一年ぶりに、胃が痛くなかった。
エレノアが隣に並んだ。
「さて」と俺は言った。
エレノアが頷く。
「さて」
少し間があった。
「これからは、続きのない物語だ」
エレノアが前を向いた。
「そうですね」
そして、静かに言った。
「でも、これからは自分たちで書けます」
それは確かに、そうだった。
八百年続いた物語が終わった。
地下書庫の本が白紙になった。
強制力が消えた。
残ったのは、タイトルだけがついた一冊の本と、胃痛が消えた俺と、隣に立つエレノアだった。
朝の廊下を、二人で歩き始めた。
終幕




