第十八話 婚約破棄イベント発生
朝、目が覚めた。
昨夜はよく眠れたのに、目覚めた瞬間から胃が痛かった。
今日だという事実とその緊張。
その全てが起きた瞬間に全身に走った。
身支度を整えながら、今日の段取りの確認を行う。
卒業パーティーは夕方から始まる。
王立学院の大広間で行われる、学院生全員と王族が参加する式典だ。
まず卒業証書の授与があり、その後に食事と歓談の時間がある。
原作ではその歓談の時間に、婚約破棄イベントが発生する。
すべきことはシンプルだ。
エレノアから離れない。
アリアとの接触を避ける。
異変を感じたら即座に知らせる。
大広間は、夕方になると見事な装飾が施されていた。
白と金の布が天井から下がり、テーブルには季節の花が飾られている。
学院生たちが礼装で談笑しており、王族の列席を前にしても場の雰囲気は明るかった。
俺はエレノアと並んで立っていた。
ゴードン卿は部屋の入り口近くにいる。
カイル卿は俺から三歩ほど離れた場所に、自然を装いながら待機している。
アリアは会場の別の場所にいるはずで、ゴードン卿がそちらに目を配っている。
卒業証書の授与が滞りなく終わった。
歓談の時間が始まった。
各所で会話が生まれ、グラスを傾ける音が広間に広がっている。
俺はエレノアと並んで、来賓の挨拶を受けていた。
(今のところ、何もない)
一時間が過ぎた。
何も起きない。
エレノアが小声で話しかけた。
「今のところ、大丈夫ですか」
短く答えた。
「ああ」
エレノアが続けた。
「何かあればすぐに言ってください」
俺も頷いた。
「わかっている」
もう一時間が過ぎた。
来賓との挨拶が続く。
音楽が流れる。
アリアが会場の隅でゴードン卿と話しているのが見えた。
不審な様子はない。
(このまま何も起きなければ、それでいい)
そう思った瞬間だった。
何かが変わった。
感覚が、うまく言葉にできない。
空気が重くなったような感じだ。
いや、違う。
俺の中の何かが、引っ張られるような感覚だ。
(来た)
脚が、一歩前に出た。
意識していなかった。
出ようとしていなかった。
なのに、出た。
(止まれ)
止まらなかった。
もう一歩、前に出た。
エレノアが俺の顔を見た。
その目が、静かに緊張した色になった。
(エレノア、気づいてくれ、俺は今止まれない)
声に出そうとしたが、出なかった。
また一歩。
カイル卿が動いた。
素早く俺の横に並んで、腕を掴もうとした。
だが俺の身体がそれより早く動いた。
カイル卿の手をすり抜けるように、広間の中央へと向かっていた。
(なぜ動けるんだ)
脚が、意思に反して動き続けていた。
頭の中は完全に俺のものだった。
思考は回っている。
動きたくないという意思もある。
だが身体が言うことを聞かない。
誰かに操られているような、それでいて内側から動かされているような感覚だ。
広間の中央に近づいていた。
周囲の視線が集まり始めた。
学院生たちが、近づいてくる第一王子に気づいて、自然と道を開けている。
(エレノアはどこだ)
振り返りたいのに、首が回らなかった。
前を向いたまま、足が止まらない。
広間の中心に立った。
全員の目が、俺に向いていた。
カイル卿が追いついて、再び腕を掴もうとした。
しかし俺の身体は振り払っていた。
自分でやっているのではない。
振り払いたくなかったのに、振り払っていた。
(カイル卿、すまない)
振り返った。
エレノアが、人波の中から俺を見ていた。
静かな、しかし何かを燃やすような目をしていた。
ゴードン卿が隣にいる。
アリアも、離れた場所から俺を見ていた。
全員が見ている。
仲間が止めようとしている。
それでも俺の身体は止まらなかった。
口が開いた。
自分の意思ではなかった。
開きたくなかった。
なのに、開いた。
「エレノア」
声が、広間に響いた。
自分の声なのに、自分のものではないような声だった。
周囲が静まった。
音楽がいつの間にか止まっていた。
全員の視線が、俺とエレノアの間に集まった。
(やめろ、やめろ、やめろ)
全力で叫んだ。
頭の中で叫んだ。
だが口は続いた。
「お前との婚約を――」
エレノアの目が、俺を真っ直ぐに見ていた。
逃げない目だった。
怖がっているのに、それでも真っ直ぐに見ていた。
(絶対に言わない)
俺は歯を食いしばった。
八百年分の力が、俺の口を動かそうとしていた。
七回分の記憶が、このシナリオを完成させようとしていた。
俺は、最後の意識を一点に集めた。




