第十四話 エレノアは全部知っている
その日も地下書庫にいた。
棚の本を一冊ずつ確認する作業は、まだ終わっていなかった。
増え続ける本を全部把握するのは、思った以上に時間がかかる。
燭台に火を灯し、禁書棚の中を確認していると、廊下の方から足音が聞こえた。
(誰かいるのか)
この書庫に来るのは基本的に俺だけのはずだ。
管理人は定期的に燭台に火を入れるが、それ以外は鍵がなければ入れない。
足音が近づいてきた。
鉄の扉が開いた。
「こんなところにいらっしゃいましたか、殿下」
エレノアだった。
(なぜ????)
俺は反射的に棚の前で固まった。
禁書棚の扉が半開きになっている。
中の本が見えている。
エレノアに見せるわけにはいかない内容だ。
「エレノア、ここに何の用だ」
声が思った以上に平静を保てていた。
内心はまったく平静ではなかったが。
エレノアが部屋に入ってきた。
普段の落ち着いた顔のまま、周囲を見渡した。
そして、俺が立っている禁書棚の方へ、真っ直ぐ歩いてきた。
「その棚、私も昔から使っていますので」
「……は?」
エレノアが棚の前に立ち、奥の隠し扉を軽く押した。
扉が音を立てて開いた。
「原典も、確認に来たことがあります。最近は殿下がよく来られているようでしたので、しばらく遠慮しておりましたが」
俺は完全に言葉を失った。
エレノアが本を一冊手に取り、背表紙を確認してから戻した。
「また増えていますね。このペースだと、来月には棚が足りなくなりそうです」
俺は一歩前に出た。
「待て」
エレノアが振り返った。
「お前は、この書庫のことを知っていたのか」
エレノアが静かに頷いた。
「この本たちのことも」
もう一度、頷いた。
「いつから」
エレノアが少し考えてから答えた。
「私が初めてここに来たのは学院に入学する前です。父が鍵を持っていました。侯爵家に代々伝わるものだったそうです」
「父から聞いたのか」
エレノアが本から目を離した。
「本の内容についても……父から聞かされました。私がそれを読んではいけないという感覚を強く感じていたので」
俺は頭の中で情報を整理しようとしたが、整理できなかった。
エレノアが穏やかに続けた。
「最初に聞かされた時は……よくわかりませんでした。ただの古い物語だと思っていましたが、聞かされているうちに気づきました。ヒロインの行動が、私自身に似ていることに」
俺はゆっくりと聞いた。
「……それで、どう思ったんだ」
エレノアが棚に視線を向けたまま、答えた。
「怖かったです。最初は」
俺は黙って続きを待った。
「でも聞かされていくうちに、怖さが変わってきました。婚約を破棄されても、その先を歩き続けて、最終的に幸せになる。そういう物語ばかりでしたので」
「だからといって、婚約破棄されていいわけではないだろう」
エレノアが俺を見た。
「そうですね。だから……殿下がここに来て、本を読み始めた時から、どうなるかを見ていました」
俺は目を細めた。
「俺が来ていることを、知っていたのか」
「書庫の管理をしている老人は、私の知り合いです。殿下が鍵を受け取った時に、知らせてくれました」
(全部知っていたのか)
俺が地下書庫の謎を解明しようと通い続けていた間、エレノアはすでにその全容を把握していた。
ベルナルド老師と会ったことも、おそらく知っているかもしれない。
「老師のことも?」
「ベルナルド老師を殿下が訪ねた翌日、老師から手紙をいただきました」
(全部だ)
俺が今まで必死に調べてきたことを、エレノアはすでに知っていた。
どころか、俺よりずっと前から知っていた。
椅子に腰を下ろした。
膝から力が抜けそうだった。
「お前は、なぜ俺に何も言わなかったんだ」
エレノアが少し間を置いた。
「殿下がどう動かれるか、見たかったからです」
「見たかった?」
エレノアが静かに続けた。
「この物語の繰り返しを誰かが止めようとしたことは、過去に一度もありませんでした。殿下は今までの王子たちと違い、初めて自覚的に動いておられます。それがどういう結末に繋がるのか……私も知りたかったんです」
俺は少し息が詰まった。
「お前は、自分が婚約破棄されるかもしれないと知りながら、ずっと見ていたのか」
エレノアが首を振った。
「前提にはしていません。ただ、覚悟はしていました」
「覚悟」
「もし殿下が物語の通りに動かれた時に、どう立ち向かうかは考えていました。その準備も、少しずつしていました」
(絶叫したい)
心の中で、本気でそう思った。
俺がここまで必死に情報を集め、委員会を作り、アリアに注意を促し、一人でどうにかしようとしてきた。
その間ずっと、エレノアはすべてを知っていた。
しかも、婚約破棄される可能性を頭に入れながら、それでも穏やかに過ごしていた。
(この人の胆力は一体何なんだ)
感服するしかなかった。
しばらくしてから、口を開いた。
「お前は、俺を試していたのか」
エレノアが穏やかに答えた。
「試していたわけではありません。ただ……信じてみたかったんです」
「何を」
「殿下が、自分の力でこの繰り返しを止めようとしていることを」
俺は少し黙った。
「止めるつもりでいる。婚約破棄は絶対にしない」
エレノアが、今まで見たことのないような顔をした。
驚きでもなく、安堵でもなく、何か柔らかいものが混じった表情だった。
「はい。そうだろうと思っていました」
短い沈黙が落ちた。
書庫の燭台が、静かに揺れている。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は怖くなかったのか。婚約を破棄されるかもしれないと知りながら、普通に過ごせていたのか」
エレノアが少し考えてから、正直に答えた。
「怖かったです。今も怖いです。ただ、怖がっていても仕方のないことでしょう」
そう言って、エレノアは棚に視線を向けた。
「それに、殿下が動いてくださっている。一人で抱えずに済む分、前よりずっと楽です」
俺は何も言えなかった。
エレノアが先に立ち上がった。
「今日はご確認に来ただけですので、失礼いたします。また何かわかりましたら、お知らせください」
そう言って、静かに部屋を出ていった。
一人残った書庫で、天井を見上げた。
(全部知っていたのか)
改めてそう思ったら、今度こそ脱力した。
アリアに接触を試みた人間がいる。
世界の力が物語を繰り返させようとしている。
そしてエレノアは、ずっとすべてを知っていた。
怖がりながらも、準備しながら、信じながら。
(敵わないな)
俺が心底そう思ったのは、初めてのことだった。
胃は痛かった。
だが今度は、少し違う種類の痛みだった。




