悪魔の抱擁
今はアリシアの屋敷となったフィル・ブライヤ家の屋敷。その地下牢でロアノークが目を覚ます。石壁からは昨晩の雨の影響か、絶えず雨漏りか地下水か何かが流れている。
傍らには暴れられない様に、鎖で繋がれたオルテガが転がっている。息があるのか分からずにロアノークはオルテガを足蹴にする。
「おい!おい!」
「ん……。なんだこりゃ!」
オルテガは身体を動かそうとするが、磔のように鎖に繋がれており、自由に動かせるのは首だけだった。
オルテガは朧気に思い出したようだ。ターニャが声を出したタイミングで、シッカートに薬を打ち込まれ、抗う事も出来ずに気を失ったことを。
しかし、何故、自分がここにいるのかは分かっていない様子で、オルテガは鎖につながれた体を無理やりに動かしているが、壁につながった鎖はびくともしない。鎖、ひいては牢屋から、逃れるすべはない。
「くそ!なんだ?この鎖……。あのスケベ野郎が!」
ロアノークが足元に唾を吐き、ギリギリと奥歯を噛み締めている。シッカートへの怒りと、このかび臭い空間の不快感が、奥歯を噛み締める力となっている。
オルテガが暴れられない体をよじり、何かに八つ当たりして、怒りを発散しようと必死だ。ガチャガチャと鎖が擦れる音が響く中、階段を降りてくる幾つかの足音が聞こえる。
「元気ねぇ……。スケベ野郎ならもういないわよ?」
聞いたことのある声がして、2人は牢屋の外をみる。薄暗い地下牢への階段を下りてきたのは、自分たちが攫い絞り上げた女、千尋だった。
千尋はランタンで二人を照らす。ロアノークはいつかの千尋と同じように便所代わりの樽に腰掛け、恨めしそうに千尋を見ている。
オルテガは千尋に飛び掛かろうと鎖と格闘している。千尋は牢屋の中の2人の反応に満足げに微笑んでいる。その笑顔がどうにも腹に据えかね、ロアノークが叫ぶ。
「小娘!早く出せ!」
「出すわけないでしょ?オルテンシアだっけ?その話を聞かないと出してあげられないわ」
千尋の後ろからターニャとアリシアも続いて階段を降りてくる。2人の表情は楽しそうな千尋とは対照的に暗い表情だ。
アリシアは母親のオルテンシアを攫った指示役と実行犯が目の前にいる。辱められた挙句、自死したオルテンシアの死の真相を知るはずの男達にどんな顔を向ければいいのか分からずに下を向いている。
ターニャはシッカートにとどめを刺した。あんなにそうしたいと思っていたのに、あんなに何度も刺したのに、今は曇天の下にいるような気分で、牢屋の2人を見つめている。
「お母様を攫ったと言うのは、本当なのですか?」
無表情に近いアリシアが顔を上げ、口を開いた。アリシアの天真爛漫と言うのがふさわしい笑顔は消え、眉間に少しシワが寄り、睨みつけるような視線でロアノーク達を見ている。
「……」
しばしの間、沈黙が訪れた。アリシアもロアノークも話そうとしない。こういった沈黙を壊すのは、人間性を持ち合わせていない千尋の出番だ。
「やってないと言えばいいのに……。頭じゃなくて股間で考えるから、無能なのよ」
千尋は蔑むような視線でロアノークをみる。話さないと決心しているのか、ロアノークは口を真一文字に結んでいる。
そのロアノークが抵抗する姿すらも、千尋には滑稽に見えているようだ。鎖に繋がれ暴れるオルテガに挑発するような微笑みを見せる。
「そっちの馬鹿はどうなの?攫ったの?経産婦を辱めたの?死体を捨てたの?」
千尋はオルテガに矢継ぎ早に質問する。辱めたのかと言う質問をした時、オルテガは怒りの表情を浮かべた。幾つかの認めたくない事実と、死んでも守りたい矜持があり、プライドの高いオルテガは表情を変える。
「攫って死体を捨てたのね、ありがとう」
「俺は何も言ってねぇ!」
千尋がオルテガにランタンを向ける。
「でも当たってるから……、違うとは言わないのよね?肯定してるのと一緒。じゃあ、誰が攫わせて辱めたのかを教えてもらいましょうか?」
千尋の顔は笑顔だが目が笑っていない。オルテガの表情が全てを教えてくれる。それを楽しみながら、見逃さないように2人の男を観察している。
「攫うように仕向けたのは分かりきってるから聞かないけど…。辱めたのはシッカートでしょ?前みたいにって言ってたってことは、何某か前科があるわけでしょ」
オルテガが思い出したように奥歯を噛み締めて怒りをあらわにする。怒りに任せて千尋を殺そうとしているのか、ガチャガチャと鎖を揺らし暴れるオルテガに鎖が食い込み血が滲む。
「あいつが……?」
ターニャがやっと顔を上げた。
「最初はそうよね?自死を選ぶほど追い詰める暇があったとは思えないのだけれど……」
そう言って千尋はロアノークを見る。不気味な女に、心の中を射抜かれるように見つめられてロアノークは視線を合わせないように下を向いた。
「人のものが欲しくなるなんて、ガキじゃあるまいし……。それとも本気で横恋慕っこと?」
「あれは私が見初めていた女だ。それをアンドレアスが後から!」
「だから、シッカートが手を出したと聞いて歯止めが利かなくなったわけ?興奮したんでしょ?」
「千尋様!」
アリシアが頭を振ってもうやめてと懇願する。千尋の選択する言葉はロアノークの心を乱すが、同時にアリシアの心も乱すのだろう。
「分かったわ……。それで拒絶されるまで乱暴したわけね?」
千尋はもう少し棘のある言い方をして、ロアノークの反応が見たかったが、アリシアに止められ渋々従う。
「で?自分の行いが原因で、目の前でオルテンシアが自死したわけ?」
「うるさい!お前に何が分かる!」
「わかるわけないでしょ。馬鹿なの?」
千尋の蔑む視線が一層強くなる。ロアノークから興味をなくしたように、千尋はアリシアを見る。
「で……。誘拐の実行犯と、黒幕が目の前にいるけど……、どうするの?」
千尋はアリシアに問いかける。アリシアは着ているドレスのフレアをきつく握り、考えていた。ターニャが感情に任せてそうしたように、アリシアの中にも確かに復讐心がある。
理想とする領主となる為には、この復讐心はあってはならないものだと唇を噛み締めるように、必死に言葉を紡ぐ。
「私は……」
千尋は苦悶するアリシアの顔を見つめる。そのアリシアを見つめる千尋の目には、慈愛が満ちている。ターニャがそうしたように、アリシアが自分の側に来るのを望んでいるのかもしれない。
「こいつらは法では裁けないわよ。仮に裁けたとして、あなたの中に復讐心や殺意があるのなら、とどめを自分で刺すか、他人に刺させるかの違いでしかない」
千尋はアリシアの頬に手を当てる。男装もこなす麗人が少女に向き合い、頬に触れている様子は、地下牢でなければ耽美的な魅力があった。が、ロアノークとオルテガからは自分たちを殺すように、少女をそそのかす悪魔と哀れな少女に見える。
雨漏りの水音が静かに響く地下牢に、千尋の邪悪な囁きがアリシアを侵食する。
「アリシア様……。復讐は何も生みませんぞ……?」
ロアノークが、千尋の好きにさせてはいけないと理解したようで、必死にアリシアに話しかけるが、それを千尋はかき消すようにアリシアの耳元で囁く。
「よく言うわね?あんたが一番、感情に任せていて生きてるくせに……。アリシア。人の手に任せたら、あなたの心は晴れることはないわよ?残るのは後悔と、やり場のない怒り……」
千尋が両手でアリシアの頬を優しく包む、アリシアの目を覗き、アリシアの世界は千尋だけになった。
「シッカートを討ったターニャにもう彼に対する恨みや怒りはない。ね?ターニャ」
「ああ……」
確かにターニャの中にあの時の怒りはない。あるのは虚しさ。そして不意にシッカートを何度も刺した時の感触が思い出させる不快感だ。
「アリシア様。私は賊を討ったことに後悔はありません。ですが……、人として何かを失った気がします」
「それはあなたが騎士になり、これからもアリシアを守る為に必要なものよ?アリシアの命が狙われて、躊躇する護衛に何の意味があるの?」
ターニャが自分の中の良心との葛藤を口にすると、千尋はもっともらしい理屈でターニャの苦悩を切って捨て、アリシアの耳元で囁く。
「アリシアが、領主として生きていくのにも必要になるわ。100人を救うために1人を犠牲にするときが来るかもしれない……。だから、その衝動に素直になりなさい。決断する勇気を持つのよ」
ロアノークとオルテガは自分たちが敵対した小娘がこんな化け物だとは知らなかった。何故シッカートが裏切ったのか、何故シッカートがここにいないのかも理解してしまった。
千尋は人心を操り人を殺す。今まさに自分たちが獲物となり、目の前の1人の少女を堕落させようとしている。
耐えられなくなったロアノークは鉄格子まで近づき、アリシアに懇願するように声をかける。
「ア、アリシア様!お気を確かに……!」
千尋が振り返り、ロアノークを一瞥する。その千尋の冷たい目に狼狽えるロアノークの襟首を掴み激しく引っ張った。ロアノークは鉄格子に額をぶつけて流血する。かび臭い地下牢の中に新鮮な鉄の匂いがして千尋の鼻孔をくすぐる。
「アリシア?」
千尋は自分のナイフの柄をアリシアに向ける。木製の柄には滑り止めに布が巻いてある。元の色が判別できないほどに鉄錆のような色をしているがアリシアの目に映るのは、そのナイフの刀身だった。波紋模様の美しい刀身の切っ先は妖しく光りアリシアを魅了する。
アリシアはナイフの柄を握り、ロアノークに向けた。アリシアはそのナイフの重さに少し我に返る。木製の柄と、幾重にも折り重ねられ鍛えられた合金の刀身は見た目よりもはるかに重い。故によく切れる。後一押しがあればアリシアは、ロアノークにそのナイフを突き立てるだろう。
「大丈夫。そのナイフをロアノークに胸元に当てるだけでいいわ」
「助けてください!、何でもします!。金も……そうだ、貴族達にアリシア様に逆らわぬように執り成してもいい!だから!」
ロアノークの命乞いなど聞き耳も持たずにアリシアが息を飲む。
ターニャにはアリシアを止めるべきなのかもしれないが、ターニャ自身は感情に任せて復讐を果たしてしまった。あの時、千尋が言っていたようにアリシアにだって母親の死んだ元凶に復讐する権利がある。そうターニャは考えてしまう。
そうターニャが思ってしまうほどオルテンシアの死に様は悲惨で、オルテンシアを失ったあとのフィル・ブライヤ家は狂ってしまった。アンドレアスは酒に溺れ、アリシアも塞ぎ込み、立ち直るまで相当な年月が必要だった。
「アリシア様、お手伝いしますか?」
ターニャはアリシアの持つ千尋のナイフに手を伸ばす。が、アリシアは首を振ってそれを拒否した。
「ありがとう。ターニャ」
「やめろ!やめろ!やめてくれ!!」
ロアノークが千尋の手から逃れようと暴れるが願いはかなわかった。千尋はロアノークの頭も掴み、首を刺せと言うように鉄格子に密着させる。
「貴方がおとなしくしていれば、みんな平和だったのよ。なのに貴方だけが命乞いして、貴方だけ助かるなんて……。許されると思う?」
アリシアは千尋のその言葉を聞くまで迷っていた。千尋の言ったことがアリシアの頭を痺れさせていく。諸悪の根源たるロアノークだけが助かるなんて、アリシアには許すことはできなかった。
「いやーーー!」
アリシアが叫んだ。人を殺す事実から目を背けるように。ロアノークが生きることを拒絶するように。
ナイフは呆気なくロアノークの首筋に吸い込まれた。よく研がれた千尋の合金のダマスカスナイフは重みと切れ味も相まって、アリシアが思っていたよりも深く刺さった。その切れ味に驚いてアリシアはナイフを持ち上げる。
ナイフは抜け、死の間際にも命乞いをするロアノークの喉からヒュー、ヒューと息の抜ける音がする。噴水のように血が飛び出す。ロアノークを押さえていた千尋に返り血がかかり、千尋は恍惚の表情を浮かべる。
「これで復讐出来たわね?おめでとう……。アリシア……」
アリシアはナイフを落とし、ロアノークから出る噴水の勢いが無くなる様子を震えながらじっと見ていた。
あの日、千尋が気絶したターニャを抱きしめるのを見て憧れを抱いたアリシアを、千尋は返り血を浴びたそのままの格好でアリシアを抱きしめる。彼女たちの願望は満たされ、これから新しい一日が始まる。




