劇薬
ノアが目覚めたのは夕方だった。痛みを感じ、うめき声を上げながら起きたノアの手を、千尋が握っている。
「カ、カ、カレン?」
「大丈夫です。ここは私の自室です。だから怖いことなどありませんよ?」
優しい微笑みをたたえる千尋が、快楽殺人者と言う矛盾にノアが気がつくはずもなく、安堵したように涙を流し始めた。千尋が握る手の感触だけが、ノアにとっての救いなのかもしれない。
「デボネア様に見られていたようです。申し訳ありません」
千尋は謝りながらうつむくと肩を揺らす。
「き、き君が悪いわけじゃ、じゃない」
吃音になりながら千尋を心配するノアに見えない様にうつむき、千尋はほくそ笑む。
「デボネアは酷すぎます。ノア様は何も悪いことをしていないのに……。アンドレアス様の教育が間違っておられるのでは……」
千尋はゆっくりと諭すように話す。デボネアは悪だと、アンドレアスが諸悪の根源であるとノアの心に刷り込んでいく。ノア自身、幾度となく考えていた事に共感してもらえた喜び。理解者を得た喜びに、ノアはまた涙する。千尋の言葉が救いではないことに気が付かずに。
「ノア様が領主でしたら、このようなことはなりませんのに……」
「無、無理だよ……デ、デ、デ……デボネアがいるから」
吃りながらノアは頭を振る。ハッとしたような顔をした後、千尋は無言でうつむく。その様子を心配したようにノアが痛む上体を起こし、のぞき込む。
「私もデボネア様に折檻されてしまうのでしょうか……。いっそデボネア様がいなければいいのに……」
デボネアがいなければいいと言うのは、呪言だった。確実にノアの心を蝕む。たった一人の理解者、カレンの危険が迫っている。ノアは全身を震るわせながら、手の爪を噛みだす。
「そ……そ、そうだ。なな、な、なななんとかしないと」
「でもアンドレアス様がいらっしゃいます。お二人が居なくなるようにしませんとね……」
千尋はノアがガジガジと噛んでいた手を取り、慈しむように撫でると優しく子供に諭すように、とんでもないことを口にした。追い詰められ半ば錯乱状態のノアには、千尋の言葉は劇薬となっていた。
「ニ人を……」
ノアの吃音はなくなっていた。まるで劇薬を飲み、覚醒したように目に力が宿るの見た千尋は、微笑みを絶やさず、新しい劇薬をノアに投与する。
「私と二人でやりましょう。ノア様がアンドレアス様を、私がデボネア様を……。そうしたら……」
千尋がノアの手を強く握ると、ノアの頭が痺れている。劇薬はノアの頭を駆け巡り、まともな判断はもうできなかった。
ノアは千尋が握っていた手を、千尋の指に絡めるようにして恋人のように握る。共犯関係が成立したように二人はお互いを見て微笑む。
「でも、ぼ、ぼくには……、アンドレアスは殺せない」
緊張からかまた吃音が戻ってきていた。千尋が空いている手をノアの頬に当てて、安心させるように言う。
「お酒を飲ませるんです」
ノアが稲妻に撃たれたように身を震わせる。実行の可能性を見出したノアは、千尋の手を握るその手に少し力がこもる。それを合図に、千尋はもっと危険な事を口にする。
「毒殺です。アンドレアス様の好きなお酒は!柑橘系の果実酒でしたね?あれを銅の容器にずっと入れていると、毒の様になるのをご存じですか?」
千尋の世界の常識などノアは知らなかった。首を横に振り、驚きの顔で千尋を見ている。
柑橘系などの酸性の飲み物を、銅器に入れていると銅が溶け出す。少しなら吐き気や下痢程度で命の危険はない。だが、多量なら危険性は増し、アルコール依存により、内蔵が弱っているアンドレアスならば、肝硬変などの重篤な症状になりえるだろう。
「しかもこれは、すぐには効きません。しかし、アンドレアス様が眠った頃には、死の淵です」
千尋は、アリシアの側仕えになった頃から用意していた銅の水差しを誇らしげに掲げる。
「これをアンドレアス様が酔われた後に、飲ませてください。そうしたらアンドレアス様は眠るように、お亡くなりになります……」
ノアを見つめる千尋の顔はもう快楽殺人者の欲望に満ちた顔だったが、ノアには気にならなかった。銅の水差しがノアの希望の光で、千尋は運命の女神だった。
「そうすれば、ノア様が疑われることもありません……」
その夜、ノアはアンドレアスに呼び出されていた。昼間のデボネアとの件が原因だ。まだ少し痛む体を引きずりながら、これが終われば千尋と一緒になれるとノアは、千尋からもらった銅製の水差しを持つ手に力を込める。
ノアがアンドレアスの自室の扉を叩くと、いつも通り、アンドレアスの機嫌が悪そうな声がする。以前はこの声でも恐怖を感じていたノアだが、今日は不思議と何も感じなかった。
「し、失礼します」
これから殺害する緊張感だろうか、千尋と生きる未来を夢見る高揚感からだろうか、自然と吃音のように舌を噛み、不審がられることもなくノアは入室に成功する。
ノアが部屋に入るともうだいぶ酒が進んでいるのか、赤ら顔のアンドレアスがいた。椅子に座りながらクダを巻き、吐かれる息にはもう酒精が含まれており部屋中が酒臭く、深酒の影響が顔に出て目の下にはクマを作っている。
「遅いぞ……」
アンドレアスの目が座っている。昼間の件を聞いた後、ノアが暫く居なくなったと屋敷では騒ぎになっていた。まさかのノアを売った千尋が匿っているなどとデボネアは思いもせず、使用人の屋敷は捜索されなかった。なかなか見つからない愚かな婿養子への苛立ちが、アンドレアスに深酒を煽られせる結果になっていた。
「申し訳ありません。お詫びの品を買い求めに行っておりました」
スルスルと言葉が出てきた。ノアは内心気が気ではなかった。アンドレアスが探していると知ってから、千尋と打ち合わせをしていた言葉は不思議なほど、淀みなく出てきた。
「お詫びだぁ?お前のようなものが!」
アンドレアスが空いている酒瓶を投げてきた。ノアは持っている銅の水差しを落とさないように、甘んじて直撃を受ける。デボネアに叩かれた頭に当たり、ノアは苦悶の表情を浮かべる。その姿をみたアンドレアスは、痛みに耐えるノアを嘲り笑う。
「そのように愚鈍だから、デボネアに叱責されるのだぞ?」
なんとでも言うがいいとノアはアンドレアスを睨んだ。初めて婿養子が反抗的な目をしてことに、アンドレアスは驚いた顔をする。その目は千尋が言っていたように虎の目だった。明確な殺意を内包し、決心した目だ。
「ああぁーーーー!!」
虎のようにノアは吠える。足元もおぼつかないアンドレアスを押し倒し、銅が大量に溶け出した千尋特製の酒を、無理やりにアンドレアスの口に注ぎ込む。アンドレアスが息をする度にコボコボと僅かに酒がこぼれる。息をするために、必死でアンドレアスは流れてくる酒を飲み干した。
「不味い……。ひどい酒だ!出ていけ!明日の朝になったら、お前の罪を裁いてやる!」
ゴホゴホと咳き込みながらアンドレアスはノアを睨みつけるが、ノアにはもう怖くなかった。後は眠るように死ぬと確信し、颯爽とアンドレアスの部屋を後にした。
時間は過ぎて深夜。デボネアも就寝の為、床についていたが、まだノアへの怒りが収まらないのか、なかなか寝付けないようだった。
デボネアが寝返りをうち、仰向けになると真っ暗な天蓋の天井を見上げる。すると、風が吹き込んでくる。体を起こすと内開きの窓が開いて、ギィギィと不気味な音を上げている。
メイドの不始末を、主が何とかしなければならないのかと、さらに苛立ちを募らせるデボネアが、窓に向かうと暗闇に何かがいた。
男だった。デボネアは血まみれの上着に見覚えがあった。父アンドレアスに暴言を吐き、投獄された男。
「何故ここにいる!」
「何故って?考えたら分かるだろう?今は男と女、二人きりだ」
左手にダマスカスナイフを握り、歩み寄る千尋の姿が月明かりに照らされると、笑顔なのに、なんとおぞましい顔をしているのかと、デボネアは声が出なくなった。
「ひぃ……」
狼狽えるデボネアに、楽しそうに千尋は話しかける。
「抗う勇気も持ってないのか?矮小な奴だ。楽しむなら、悲鳴のひとつでもあげたらどうだい?」
蔑むようなことを口にする割に千尋の笑顔は熱を帯びている。ほんのりと頬が赤く染まり、デボネアの赤い髪を見つめながら襲いかかろうとした時だった。
「大変です、デボネア様!アンドレアス様が!」
ランドルフが入室して来た。
「早く死にすぎだ。あのクソ領主め……」
千尋が邪魔が入り、肩を落とし毒づいたが、それは誰にも聞こえていないようだった。むしろ牢獄から消えた人間が歩き回っていることに、ランドルフは驚愕を覚える。
「何のつもりか!千尋どの!」
「何のつもり?きっと、想像している通りだよ」
千尋はそう言いながらダマスカスナイフを見せつけるように左手で掲げる。ランドルフは長剣を掲げ迫ってくる。左利きの千尋には防ぎきれないだろう角度に、ランドルフは長剣を振り下ろし一撃で決めるつもりだ。
「そのナイフでは、この一撃はいなせまい!」




