9話「盗聴」
エルヴァンの部屋の窓の前。私は窓枠に爪をかけ、じっと中を覗き込んだ。
部屋には誰もいない。
寮の裏手にある練武場から、剣の打ち合う音がかすかに聞こえてくる。こつ、こつ、と木と木が触れ合う、乾いた音だった。
私はくちばしで窓をそっと押してみた。
びくともしない。
もう一度押した。やはり動かなかった。
「はあ……几帳面なやつ。窓まで鍵をかけてるなんて……」
小さくぼやくと、頭の中でクロノアが答えた。
『この部屋が、君の復讐したい子の部屋?』
「はい」
『ふうん……この建物、換気口みたいなのはないの?』
「換気口ですか?」
私は顔を上げ、上の方を見た。
窓の上、壁と天井が接するあたりに、ごく小さな丸い穴があった。私の拳の、その半分の半分ほどしかない。真冬に室内の冷気を外へ逃がすための、魔導具用の換気口だった。
私はその穴を数秒見つめてから、首を横に振った。
「いや、あそこにどうやって入るんですか。さすがに……」
『君は分かってないね。あのくらいなら余裕だよ。お手本を見せてあげる』
言葉が終わるより早く、身体が勝手に浮き上がった。そのまま換気口の前まで運ばれる。
穴の大きさを間近で見て、私は思わず首を引いた。
「待ってください、クロノア様。やっぱりこれ、どう見ても小さ――」
言い終える前に、くちばしから穴の中へ押し込まれた。
「むぐっ!」
くちばし、頭、首の順に、狭い穴へねじ込まれていく。けれど翼のあたりで、身体がぴたりと止まった。
それでもクロノアは止まらない。身体が無理やりひねられ、羽が壁に擦れる。右の翼がぎゅっと押しつぶされ、痛みが小さく跳ねた。
換気口の中は狭く、暗かった。壁には真っ黒な魔力の滓がこびりついている。少し動くたび、それが粉になって落ち、鼻の奥へ入り込んだ。焦げたような匂いが喉をくすぐる。
「こほっ、こほっ……クロノア様、これ本当に合ってます? どう見ても無理だと思うんですけど……」
身体は換気口の真ん中で、すっかり挟まっていた。
前にも後ろにも、簡単には動けない。胸が押されて、息が短く切れる。右の翼は壁と身体の間に挟まれ、じんじんと痛んだ。
『はあ……はあ……おかしいな。こんなはずじゃないんだけど。太った……?』
「……喧嘩を売ってます?」
『違うって。本当に。昔はこのくらい余裕だったのに、変だな……』
私は返事の代わりに、長く息を吐いた。
息を吐き切ったところで、エルヴァンの顔が浮かんだ。
私の絵を受け取った指先。私の髪を撫でた、あの穏やかな仕草。そして、私を見下ろしながら告げた声。
くちばしをぎり、と噛み合わせ、爪を換気口の内側に食い込ませた。
力いっぱい押す。小さな身体が、ほんの少し前へ進んだ。
腹が壁に押しつけられ、羽がざりざりと擦れた。それでも爪を立てて踏ん張り、身体を少しずつ前へ押し出す。
一度、また一度。十回ほど、爪先で壁を蹴っただろうか。
ごつん。
頭が反対側の端にぶつかった。
「いたた……」
『いたた……』
私とクロノアは、ほとんど同時に小さく呻いた。
それから、私は身体を回した。部屋の内側へ続く換気口の出口が見える。
最後にもう一度身をよじると、小さな身体がぽん、と抜けた。床へ落ちそうになり、慌てて翼を広げる。どうにか机の上へ降り立った。
羽を払おうと翼を揺らしかけて、黒く汚れた羽先に気づき、動きを止めた。
私はそのまま、部屋の中を見回した。
エルヴァンの部屋は、カシアン様の部屋とはまるで違っていた。
机の上のペンは、すべて同じ角度で並べられている。インク壺は机の角から、きっかり指二本分だけ離れていた。本棚の本は高さが揃えられ、違う色の表紙が紛れた場所はひとつもない。
ベッドの掛け布には、皺ひとつなかった。椅子も、机の中央から少しもずれていない。
私は本棚の上で息を整えた。
『ふう……それで、ここから何か得られるの?』
「何でも探すんです。私がエル……あのクズと戦うには、情報くらいしか武器がありませんから」
私は部屋の中を見渡しながら答えた。
『情報だけでどうにかなるの?』
「グランデル家は、名誉と規律を極端に重んじる騎士の家です。あいつの姉、セレネ・グランデルも、平民と恋仲になっただけで家を追われたくらいですから」
『人間って、昔も今も怖いね。同じ人間なのに』
私は返事をせず、机の引き出しをひとつずつ調べた。
すべて鍵がかかっていた。衣装棚も同じだった。
顔を向けると、本棚の前に、手のひらほどの木箱がひとつ置かれていた。
私はくちばしで蓋を持ち上げた。
中には、紫色の丸い魔力石が入っていた。
片目を近づける。表面には、ごく小さなルーン文字が刻まれていた。
目を細め、ゆっくり読み取っていく。
単純な記号がいくつか。そして、それらをつなぐ二本の平行線。そこまでは普通だった。
だが、その上下は太く硬い横線で塞がれている。二本の線の間には、X字の閂がびっしりと組み合わさり、喉を締める縄のように絡みついていた。
「通信用の……文字ですね」
クロノアの声が、少しだけ跳ねた。
「一見すると普通の通信石ですが……傍受防止の暗号式もかかっています」
『へえ。君、ルーン文字も読めるんだ?』
クロノアの声が、意外そうに響いた。
「……魔法が使えませんから。これくらいは、読めるようにしておかないと。それに、貴族なら通信石くらいはたいてい持っていますし」
『それでも、君くらいの子どもが解読器もなしに正確に読むのは珍しいと思うけど』
私はくちばしを少し持ち上げた。
「私、子どもじゃありません。十五歳です」
『十五歳なら子どもでしょ』
「冠翼族は寿命が短いんです。もう半分は生きています」
『えっ? そんなに短いの? アルナは少なくとも七十年くらい生きていた気がするけど』
「まさか。どれほど長く生きても、四十を越えることは――」
私はそこで言葉を切り、息を殺した。
こつ。こつ。こつ。
規則正しく、角のある足音。もう、扉のすぐ前まで来ていた。
小さな心臓が、胸の内側を激しく叩き始める。
私は慌てて通信石の入った木箱を閉じ、換気口の方を見た。
遠すぎる。しかも、入口は相変わらず狭い。
私はすぐ近くの本棚へ身を投げた。並んだ本と壁の間にある、細い隙間。その中へ身体を押し込んだ直後、扉が開いた。
「ふう……疲れた」
エルヴァンの声だった。
木剣を部屋の隅へ置く音がする。
椅子が引かれた。本が机に置かれ、すぐにペン先が紙を擦り始める。
さら、さら。
その音が耳に届くたび、胸の内側が小さく跳ねた。けれど時間が経つにつれ、その音さえ少しずつ遠くなる。
瞼が重くなってきた。
本棚の裏は狭く、暗い。埃の匂いが喉の奥に貼りつき、くすぐられるたび、私はくちばしに力を込めた。そうして身じろぎひとつできないまま、胸の中で時間を数え続けた。
どれくらい経っただろう。先に口を開いたのは、クロノアだった。
『本当に、何かあるの……?』
私は目を細め、頭の中だけで囁いた。
「は? 当然でしょう。私があいつのせいで、どんな目に――」
言いかけた時。ページをめくる音が止まった。
木箱が開く音。そして、低く震える魔力の音。
『今日は珍しく、すぐにお出になられるのですね、エルヴァン様。ご機嫌はいかがですか』
男の声だった。しかし、人の声そのものには聞こえない。薄い金属板の向こうで押しつぶされたように、音が少しずつずれていた。
「用件だけ言え」
エルヴァンは短く答えた。
『失礼いたしました。先日お話しした件ですが、花嵐月の末日はいかがでしょう』
花嵐月。野外授業のある月だ。
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
エルヴァンはすぐには答えなかった。
沈黙が長い。
ようやく、彼の声が続いた。
「問題ない」
『承知しました。そして可能であれば、鍵は傷のない状態が理想です』
鍵。傷のない状態。
その言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、私は右目を強く閉じ、また開いた。瞼の裏で、薄い刃物が近づいてくる光景が一瞬だけ閃き、足先の爪がきゅっと縮こまった。
「それは僕がどうにかする。そちらこそ、スクロールの準備は終わっているのか」
『もちろんです。来週の茶会が終わり次第、直接お目にかかりましょう』
エルヴァンは爪先で机の上を二、三度、とん、とん、と叩いた。それから、低く湿った声で答える。
そんな声を、私は彼から一度も聞いたことがなかった。
「失敗すれば、おまえも私も終わりだ」
『肝に銘じております。ですが、エルヴァン様はよろしいのですか』
「何がだ」
『いくら何でも、同級生を直接処理なさるのです。胸が痛むことはございませんか』
エルヴァンは、すぐに答えた。
「すべては大義のためだ。黒い雪という災厄から生き延びるには、仕方のないことだ」
彼の言葉が、胸の奥へ沈んでいった。熱い針が深く刺さったまま抜けない。
爪だけが木の床をかすかに掻き、とても小さな音を立てた。目のふちがじわりと熱を持ち、視界の端が滲んだ。
「なら、お前はどうだ。家に未練はないのか」
エルヴァンの問いに、通信石の向こうで低い笑い声がした。
『かつてはございました。ですが、沈む船から先に降りるのは賢明なことですから』
「名誉の欠片もない男だ。だからこそ、信用できる」
エルヴァンが短く笑った。
家。その一語が、耳の奥に残った。
声として聞いた途端、身体が先に動いた。ほんの少し、足を後ろへ引いただけだった。
尾羽が本棚の奥の壁をかすめた途端、ちり、とその先に細い電流が走った。
私は素早く後ろを振り返った。壁には、紫の光を帯びた細い線が走っていた。蜘蛛の巣のように広がる、魔力の警報網だった。
直後、エルヴァンの手が本棚へ伸びた。
本が何冊か、乱暴に抜き取られる。
視界が開いた。
私と彼の目が合う。晴れた空をそのまま閉じ込めた、丸い青い瞳。その視線が、私の身体を内側から締め上げていく。
羽が一本ずつ逆立った。
『どうなさいましたか、エルヴァン様?』
通信石の向こうから声が尋ねる。
エルヴァンは私を見たまま答えた。
「何でもない。では、茶会で会おう」
紫に光っていた通信石の光が消える。
彼はそれを静かに木箱へ戻した。そして、また私を見た。
「初めて見る鳥だな」
エルヴァンは、人差し指を私の足元へ伸ばした。
私は後ずさった。その拍子に、背後の警報網にまた触れてしまった。
短い電流が身体を貫き、翼の先が跳ね上がる。足先まで痺れ、瞼が細かく震えた。
目の前で、彼の指が止まった。
短い静寂。息が浅くなり、くちばしが勝手に開く。尾羽が、意志とは関係なく細かく震え続けていた。
そして。
がしっ!
「けっ……!」
手が、私を握り込んだ。
胸と腹が一度に押し潰される。翼が身体の横へ無理に折り込まれた。
彼は私を顔の近くまで持ち上げる。
「使い魔か?」
手に、さらに力がこもった。
胸の奥が押し潰されていく。吸おうとしても、空気が入ってこない。喉の奥が細く塞がり、胃のあたりが押し上げられる。
目の奥に火が点いた。熱がじわりと広がり、視界が赤く滲んだ。
「け、ぁ……!」
私は全身の力を振り絞って身をよじった。
爪で彼の指を引っかく。だが、その手は少しも緩まない。
爪先の抵抗も長くは続かず、足から力が抜けていった。
「たす……助けて……!」
最後の力で、肺に残っていた空気をかき集めて鳴いた。
しかし、喉から出たのは掠れた小さな音だけだった。もう息が続かない。
視界の端が暗くなり、赤黒い靄が頭の内側を塗りつぶしていった。
意識が深い水底へ沈みかけた、その時。ばんっ、と扉が荒々しく開く音がした。
「おや、カシアン様。ノックもなしに……このような夜更けに、何の御用でしょう」
エルヴァンの声が、遠くで聞こえた。
続いて、低い声が部屋を横切る。
「放せ」
短い一言だった。
「ん? ああ、この鳥のことでしょうか。間者の使い魔である可能性がありましたので、処分しようと――」
「二度言わせるな、エルヴァン。それは俺の鳥だ」
その声には、ほとんど抑揚がなかった。
それなのに今は、ひと言ひと言が小さな火になって、胸の奥を包んでいく気がした。
けれど、その温もりを確かめる間もなく、私の意識は闇の向こうへ落ちていった。




