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10話「孤影」

 がたん、がたん。


 身体を伝ってくる揺れに合わせて、馬の(ひづめ)の音が耳のそばで続いていた。


 鼻先には、雨が通り過ぎたあとの土の匂いが届いている。陽を浴びた道がゆっくり乾いていく時に立ち上る、少し生臭くて、どこか香ばしい匂いだった。


 私はゆっくりと目を開けた。


 最初に見えたのは、きちんと整えられた真っ白な短髪だった。丸い眼鏡の向こうから、小さくて温かな目が私を覗き込んでいる。


「パパ……?」


 私は、パパの膝の上に頭を預けていた。


「おや、アリア。もう目が覚めたのかい? もう少し寝ていてもよかったのに」

「あれ……? ここは……」


 私は自分の手を持ち上げた。


 ペンを一本まともに握るのも難しそうな、小さな手だった。指も短く、手のひらも頼りない。私はその手を、何度も握って、開いた。


 父は目を細めて、やわらかく笑った。


「はは。ずいぶん深く眠っていたんだね。アリア、今日は君の五歳の誕生日だろう。新しい魔導車椅子(エーテル・シェーズ)を見に行った帰りじゃないか」

「魔導車椅子……?」


 その言葉を聞いた瞬間、目の端から雫がひとつこぼれた。


 パパは指先で、私の頬を軽く拭った。声が少しだけ低く、穏やかになる。


「怖い夢でも見たのかい?」

「……違います。嬉しくて……」


 私は小さな手を見下ろした。


「ごめんなさい。リハビリしても、ぜんぜん歩けなくて……」

「こら。何度言わせるんだい」


 パパは私の頭にそっと手を置き、髪を乱さないくらいの力で撫でた。


「アリアが元気で、幸せにいてくれるなら、それでいいんだ。さあ、早く帰って、みんなに君の贈り物を自慢しよう」


 私は返事の代わりに、少しだけ笑ってみせた。それから顔を横へ向け、馬車の外を見た。


 夏の陽を受けた木々が、眩しく揺れていた。葉の一枚一枚に残った水気が、風のたびに小さな宝石になってきらめいた。


 その隙間で。


 きらり、と光が走った。


「アリア!」


 パパの腕が私を包み込んだ。


 次の瞬間、パパは私を抱えたまま馬車の窓を突き破り、外へ飛び出した。


 身体が一瞬、宙に浮く。


 濡れた地面に、パパの靴底がほとんど音もなく触れた。


 目の前で、矢に首を貫かれた馬が前のめりに崩れ落ちる。続いて、馬車が轟音を立てて横倒しになった。


「うっ……」


 倒れた御者(ぎょしゃ)が起き上がろうとした、その前に。


 空から矢が降り注いだ。


 御者の身体に、いくつもの矢が突き刺さる。鎧の隙間に食い込んだ矢羽が震えた。彼はそれでも数歩だけよろめき、口元から血をこぼして倒れた。


「ひっ……!」


 悲鳴が喉から飛び出しかけた瞬間、パパの手が私の口を塞いだ。


 直後、頭上に濃い青の膜が広がった。揺れる光の上へ、矢が次々とぶつかる。きん、きん、と鋭い音を立てて弾かれていった。


 だが、光の膜にはひびが入り始めていた。細い亀裂が、蜘蛛の巣を描いて広がっていく。


「反魔導か……」


 パパの目元が鋭く沈んだ。


 彼は馬車から放り出された車椅子を魔法で引き寄せ、私をそこへ座らせた。


 森の奥から、足音が聞こえてくる。


 ひとつではなかった。いくつもの金属が触れ合う音が、木々の間から近づいてくる。


「パパ……人が、人が……」


 血を流す御者と馬を見た途端、呼吸が浅くなった。視界がぐるりと回る。パパの顔が、水の底に沈んだみたいに揺れて見えた。


 パパは私の前に膝をついた。そして(ふところ)から小さなスクロールを取り出し、私の手に握らせる。


「アリア。反対側へ行きなさい。車椅子は動かせるね?」

「……パパは?」


 パパは私の頬を一度撫で、目元だけで笑った。


「心配しなくていい。このパパが誰だと思っているんだい」


 彼は自分の首飾りを握った。青い宝石の嵌まったペンダントだった。


 しばらく目を閉じたあと、それを私の首にかける。


「パパが来なかったら、このスクロールを持って『ワープ』と唱えなさい」


 足音がさらに近づいた。


「さあ、早く。行きなさい!」


 私はそのまま車椅子を動かした。


 パパに背を向けて。


 背後では、悲鳴と金属音が混ざり合っていた。肉が裂ける鈍い音。剣と剣がぶつかる音。何かが地面へ倒れる音。鼻先には血の匂いが鋭く入り込んでくる。


 私は涙をこらえながら、ただ車椅子を前へ進めた。




 どれくらい進んだのだろう。


 空の真ん中にあった太陽はいつの間にか傾き、森の隙間には赤い夕暮れが滲んでいた。


 私は大きな木の陰に隠れ、息を殺していた。


 その時、足音が聞こえた。


「パパ……?」


 私はそっと顔を出した。


 だが、そこにいたのは――黒い外套をまとい、真っ白な仮面をつけた大柄な男。


 斬り落とされた片腕からは、赤黒い血がぽたぽたと落ちている。反対の手には、赤い絵の具をべったり塗った剣が握られていた。


 男と目が合った。


 彼はすぐに剣を持ち上げる。


 私は顔を引っ込め、スクロールを胸元に抱え込んだ。


 指先が震える。巻物の端を何度つまんでも、うまく開けなかった。


 ぬちゃ、ぬちゃ。


 濡れた草を踏む音が、一歩ずつ近づいてくる。


 私は手の甲を、力いっぱい噛んだ。痛みが指先まで広がる。


 ようやく手の震えが少し止まった。


 もう一度、スクロールを開く。読めない文字が、青い光を帯びて浮かび上がった。


 私は叫んだ。


「ワ……ワープ!」


 その瞬間、周囲に青い光が立ち上がった。


 視界が歪む。誰かに柔らかくこねられ、頭から細く引き延ばされていく感覚があった。


 身体も、車椅子も、呼吸の音も、すべてが細い糸にほどけて、どこかへ引きずられていった。




「うっ……」


 頭の奥がずきずきと痛んだ。


 ゆっくり目を開けると、巨大な広間が見えた。


 天井は、頭上のはるか遠くまで続いていた。その先は暗がりに溶け、見上げても終わりが分からない。


 周囲には、一定の間隔でガラスの壁が立っている。その向こうでは夜空の星様が散らばり、ガラスの上で淡く瞬いていた。


 床には、星形の青い(とばり)が広がっていた。その中心に、ひとりの女が立っている。


 腰より下まで流れ落ちる、影ひとつない真っ白な髪。深い紺色のドレス。銀糸で刺繍された花模様が裾に沿って光り、首元と袖には薄い白のレースが幾重にも重なっていた。


 彼女の右手には(おうぎ)があった。


 月明かりの中でも、その黒い扇だけは深い闇を帯びていた。彼女の顔は、その向こうにすっかり隠れている。


 私はパパの背中を思い出した。


 車椅子を必死に動かし、彼女のもとへ近づいた。


「ママ……ママ! パパが、パパが――」


 最後まで言えなかった。


 視界が横へ弾けた。遅れて、右の頬に鋭い痛みが広がる。


「え……?」


 もう一度顔を向けようとした瞬間。


 バシッ。


 また。


 バシッ。


 もう一度。


 バシン、バシン、バシン。


 頬が熱く腫れ上がった。舌の先にぬるい鉄の味が広がり、鼻から流れた温かいものが唇の上へ伝った。右の目元は腫れて、視界が半分ほど閉じている。


 私は頬に手を当てた。熱く腫れたそこを押さえたまま、全身を震わせ、彼女を見上げた。


 彼女はまだ、扇で顔を隠していた。見えるのは、影の奥で細く裂けた青い瞳だけ。その目は私の顔ではなく、胸の真ん中を貫くように見下ろしていた。


「ごめ……ごめんなさい……ひっ、ママ……」

「役立たずが」


 冷たい声が落ちた。熱を持っていた頬まで、その声の下で冷えていく。


「歩くこともできない半端者のくせに。二度と私をママと呼ぶな」


 彼女は大きく息を吐いた。


「どうして、あの人が……」


 そこで一度、言葉が途切れる。


「いっそ、おまえのようなものが死ねばよかったのに」


 息が止まった。腫れた唇を開いても、声は出てこなかった。


 身体の内側で、何かがゆっくり崩れていく。


 彼女の姿も、ガラスの壁も、星明かりも、視界の底へ沈んでいった。


 地の底へ。


 闇の中へ。



***



『ア……アリア……アリア!』


 頭の中で響く澄んだ声に引かれ、私はゆっくりと目を開けた。


 瞼が重かった。持ち上げようとするたび、目元の皮膚が引きつった。


「クロ……ノア……様?」

『よかった! やっと気がついた!』


 目を完全に開いた瞬間、明るい光が目を鋭くこすった。


 身体が重かった。


 何日も眠れなかったあとのような重さだった。けれど、不思議と痛む場所はない。


 青い光が、身体のまわりを薄く包んでいた。羽の下では、こわばっていた筋肉がほどけ、力の抜けた身体が木箱の底へ沈んでいる。


 視界の端で、黒い髪が揺れた。


 すっと細く切れた目。高い鼻筋と、白い肌。


 カシアン様だった。


「ようやく目を開けたか」


 唇に刻まれた細い皺まで見える距離で、カシアン様は私を見下ろしていた。


「朝は、翼もろくに動かないまま姿を消す。夜は夜で、廊下の方からぎゃぎゃぎゃっと悲鳴が聞こえる。駆けつけてみれば、満身創痍(まんしんそうい)で握り潰されかけている……」


 カシアン様は、最後まで言わなかった。代わりに、短く息を吐く。その吐息が、私の羽をほんの少し揺らした。

「あの毒蜘蛛めいた男の部屋に、よりにもよって自分から入り込むとはな。俺が駆けつけていなければ、おまえは死んでいた」

 彼の手が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。

「……治療はおおよそ済んでいるはずだ。少しだけ触る。痛くはしない」

 彼は片手で、私を慎重に持ち上げた。


 視界の下には、開かれたルーンスクロールが見える。回復用のルーン文字がびっしりと書かれ、青い光がまだ紙の上を薄く流れていた。


 私は声を出そうとした。


 くちばしがわずかに開いただけで、言葉は出てこなかった。


 カシアン様は私の背中と腹の下に指を添え、そっと持ち直した。それから、反対の手で状態を確かめ始める。


 胸をそっと撫で、翼を片方ずつ広げ、脚に指を添えて少しだけ引いた。


 痛くはなかった。痛くはなかったのだけれど……。


 彼が尾羽(おばね)の下あたりまで確かめようとした瞬間、目がかっと開いた。


 私は足で彼の指をぎゅっとつかみ、全身をひねった。


「きゃあっ!」


 悲鳴を上げながら、彼の指へ何度も噛みつく。くちばしの先に、肌が沈む感触が伝わった。遅れて、頬のまわりの羽が熱を持つ。


「痛っ……分かった、分かった」


 カシアン様はわずかに目を細め、私を下ろした。


『急にどうしたの?! 温かくて気持ちよかったのに、びっくりしたよ』

「い、今のは私の身体の……そんなところまで……!」

『身体が無事か見てくれようとしただけでしょ。さっき、あのクズに握り潰されかけてたの、覚えてないの?』


 その言葉で、エルヴァンに全身を握られた感覚が戻ってきた。胃の奥が揺れ、息が勝手に抜けていく。


 私はくちばしを少し開け、浅く早い呼吸を繰り返した。


 その時、カシアン様の人差し指が足元へ伸びてきた。さっき私が噛んだ場所に、小さな赤い穴が開いている。血が、ほんの少しずつ滲んでいた。


 私はしばらく、その指だけをぼんやりと見つめていた。


 しばらくして、カシアン様はその指を引っ込め、椅子に腰を下ろした。


「まだ手には乗ってくれないか……。ひとまず、元気は戻ったようでよかった。窓は少し開けておく。休みたいだけ休んで、帰りたくなったら帰るといい」


 そう言って、彼は机の上へ視線を戻した。


 ほどなく、紙をこする音が聞こえてくる。


 さく、さく。


 羽ペンより少し乾いた、柔らかく滑る音。色鉛筆がスケッチブックの上を走る音だった。


 彼は色鉛筆を動かしながら言った。


「本当に、どうして鳥はこうも愛らしいのだろうな。ひとつひとつの仕草がよく分からない分、なおさらだ」


 首筋の羽が、根元から逆立った。


『なんでそんなに嫌そうなの? 目つきはちょっと鋭いけど、人間の基準なら顔は整ってる方じゃない?』

「それは、そうですけど……」


 カシアン様がまた言葉を続けた。


「二つの翼で、行きたい場所ならどこへでも自由に飛んでいける。家族でも、ましてや同族でもない。それでも、いつもそばにいてくれるのはおまえたちだけだ」


 色鉛筆の音は止まらなかった。


「俺を信じてくれるのも」


 その言葉に、クロノアが急に湿った声で鼻をすすった。


『ぐすっ……いい子だねえ。そうだよ、わたしたちがどれだけ義理堅いか。人間とは違うんだから』

「……それを本人が言うんですか?」


 カシアン様は描き続けた。視線は机の上に落ちたまま、少しも揺れない。




 一時間ほど経ってから、カシアン様はようやく色鉛筆を置いた。


 私をもう一度見て、小さく笑う。


 指先がこちらへ伸びかけたところで止まった。その手は、何も触れないまま静かに引っ込められた。


 それから立ち上がり、寝台へ向かう。


 ほどなく、規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 私は木箱の壁に爪をかけ、昨日と同じく外へ這い出した。机の上の魔力時計は、真夜中を示していた。


 窓へ飛ぼうとした、その時。机の上のスケッチブックが目に入った。何の模様もない、きちんとした表紙だった。


 私はくちばしで端をつまみ、そっと開いた。


 絵が現れた瞬間、唾を一度飲み込んだ。


 表紙を音を立てずに下ろし、絵を覗き込んだ。


 線は単調だった。けれど、揺らぎがない。色もほとんどが暗い単色に近い。それなのに、明暗だけで森の深さも、空の遠さも、風が過ぎたあとの草の揺れまで見える気がした。


 色は少ない。それなのに、絵の中には不思議な奥行きがあった。


 最初のページには、野原に座る黒髪の少年がいた。その周囲に、何羽もの鳥が集まっている。その中には、長い冠羽(かんう)を持つ鳥もいた。


 私はそっと顔を横へ向けた。


 昨日と同じ場所に置かれた鳥籠の中で、ソリアが片目だけを開けてこちらを見ていた。


 私は肩を少しすくめ、もう一度スケッチブックへ視線を戻す。


 次のページ。また次のページ。


 描かれているものは、どれも似ていた。


 自然の中にいる、ひとりの少年と鳥たち。変わっていくのは、鳥の数だけだった。


 五羽から四羽へ。


 四羽から三羽へ。


 そして、一羽へ。


 そのたびに、色の調子は少しずつ暗くなる。絵の中の少年の顔からも、表情が消えていった。


 最後の絵で、私は動きを止めた。


 黒い雪が降る、荒れ果てた城砦(じょうさい)。その上に、ひとりの少年が座っている。


 少年は空を見上げていた。肩にはソリアがいて、頭の上には綿菓子のように丸く小さな鳥が一羽、ちょこんと乗っている。


 私はその絵をしばらく見つめたあと、そっと表紙を閉じた。


 隣に置かれた色鉛筆が目に入る。


 使い込まれて、小指の一節ほどの長さしか残っていないものばかりだった。


 寝台の方を見た。


 カシアン様は静かに眠っていた。夜空の星明かりでも照らしきれないほど黒い髪が、枕の上に散っている。


 私は爪で、机の縁を一度だけ強くつかんだ。


 しばらく彼の寝顔に目を留めてから、ゆっくりと窓の外へ飛び立った。

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