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11話「贈答」

 白花月五日。


 開花の茶会まで、残り二日。


 毎晩、鳥の姿になって、私を苦しめてきた子たちの部屋とカシアン様の部屋の近くを行き来するようになって、もう四日目になっていた。


 得たものは、思っていたより多い。


 彼らが親と交わす会話は、教室での言葉よりもずっと不用心だった。扉の向こうから漏れてくる声は、家名や婚約の話、誰の親が誰に取り入っているのかといったことを、あまりにも簡単に零していった。


 ただ、エルヴァンの部屋には、もう入れなかった。


 彼の窓の前まで行くと、胸の内側で心臓が羽ばたくほど暴れた。爪は窓枠をつかんでいるのに、身体はいつもその場で固まってしまう。


 そして今。


 暖かな日差しの降る学院の庭先で、私は古い郵書箱(ゆうしょばこ)の前に車椅子を止めていた。


 郵書箱は、低い石造りの柱の上に据えられている。濃い緑青(ろくしょう)をまとった青銅(せいどう)の箱には学院の紋章が刻まれ、上部には手紙を入れるための細い口がいくつも並んでいた。


 それぞれの口の横には、貴族家宛、王都内、外領(がいりょう)、緊急伝書用、と書かれた小さな銀板が貼られている。


 私は鞄を開いた。


 中には教材が数冊と筆記具、普段使っている色鉛筆、それからまだ一度も開けていない新しい色鉛筆のセットが入っていた。きれいに巻かれた魔法スクロールも、何枚かある。


 その奥から、封筒をいくつか取り出した。


 差出人は、匿名。


 私は封筒の表に書いた宛先を、二度ずつ目で確かめた。封筒の端は、指先の汗で少し湿っていた。


 それを一通ずつ、郵書箱の中へ押し込んでいく。


 最後の封筒を入れ終えた時だった。


 車椅子の前輪がふわりと浮き、身体が小さく跳ねた。


「アリア、ほんとに色鉛筆の予備ない? それより、何をそんなに熱心に送ってるの? ラブレター?」


 フレイヤが車椅子の後ろにもたれかかり、私の肩に腕を回していた。


 私は息を整え、彼女の腕をそっと外した。


「そういうのじゃないって。それに、色鉛筆は本当にないから。前もって買っておきなさいって言ったでしょ」

「ええー。終階(レツテ)に上がっても魔法陣(まほうじん)の授業があるなんて知らなかったんだもん」

「はあ……魔法陣は毎年あるでしょ」


 短く息を吐いて、私は鞄から使いかけの色鉛筆を数本選び、彼女に渡した。


「授業が終わったらすぐ返して。高いんだから。前みたいに力を入れて使わないでね。折れるから」

「ありがとう! マジ天使!」


 フレイヤはぱっと笑い、車椅子を押し始めた。


 床のタイルの継ぎ目を越えるたび、車椅子が小さくがたついた。


「フレイヤ、少しゆっくり!」

「はいはい!」


 私たちはそのまま、朝一番の授業がある大講堂へ向かった。



***



「では、皆さん。実際に魔法陣を描いてみましょう」


 大講堂の前で、教官が言った。魔力増幅石の授業と同じ、丸眼鏡をかけた老年の男教官だった。


「本日描くのは、洗浄水の魔法陣です。必要なルーン文字は黒板に書いてありますから、参考にしてください」


 彼は教科書の二倍ほどもある広いスクロール紙を、学生たちへ一枚ずつ配っていった。紙は少し黄ばんでいて、指先に触れると乾いた木の葉みたいに薄く鳴った。


「何度も説明した通り、ルーン文字の組み合わせに、正解はひとつしかないわけではありません。型に縛られすぎず、授業で学んだことを思い出しながら、自由に構成してみてください」


 その時、後ろの方から女の子の声が上がった。


「先生、色鉛筆がなかったらどうすればいいですか?」


 教官は眼鏡の向こうから彼女を見た。


「それをなぜ私に聞くのです。そういうものは自分で準備しておくものです。友人に借りるなり、鉛筆だけで描くなりしなさい」

「ええ……」


 その言葉が終わるより早く、誰かが私の背中をつついた。


 私は手のひらを一度握り込み、ゆっくりと顔を向けた。


 淡い茶色の長い髪。


 前髪は眉の下まできれいに整えられ、横の髪は後ろで束ねられて、小さな月桂冠(げっけいかん)を描いている。濃い二重の下にある目は、幼い鹿の目をしていた。


 王国南部、ファルケンベルク伯爵家の長女。


 エレオノーラ・ファルケンベルク。


 私は少しだけ頭を下げた。彼女の胸元のあたりを見ながら答える。


「どうしたの……?」

「アリア。色鉛筆、ちょうだい」

「ごめん。私もあまり持ってなくて……」


 言い終える前に、肩に鋭い痛みが走った。


 エレオノーラの指が、私の肩をつかんでいる。爪の先が制服の布越しに食い込んでいた。


 彼女は笑っていた。


「アリア。色鉛筆、ちょうだい」


 私は唇を閉じた。鞄へ視線を落とす。


 半分ほど空になった色鉛筆入れ。残っているのは五本ほどだった。その隣には、まだ包装を外していない新しい色鉛筆のセットがある。


 私は半分空の色鉛筆入れを持ち上げ、その中からあまり使わない色を一、二本選ぼうとした。


 その時、エレオノーラが色鉛筆入れごとさらっていった。


「やっぱりアリア。ありがと!」


 私の指が、空中で止まった。


 目だけを上げて、彼女を見る。


 彼女は口元を手で隠し、目を丸くした。


「あら。不満でもあるの? ここまで取りに来られたら返してあげる」


 近くに座っていた女の子たちが、くすくすと笑った。


 私は横へ視線を移した。後ろの列へ続く段差は、一段一段が高かった。


 車椅子の手すりを強く握り、私は顔を前に戻した。


 鞄から鉛筆を一本取り出す。


 下唇を強く噛んだ。じん、とした痛みが、口元から頬の奥へ広がっていく。


 それから、鉛筆を持った。スクロールの上に、黒い線が一本引かれる。


 色はひとつだけ。ルーン文字同士をつなぐ流れも、向きも、同じ黒の中へ沈んで見分けづらい。私は書いては止まり、消して、また書き直した。


 他の学生たちのスクロールには、赤、青、黄、緑の線が絡み合っていく。


 私の前のスクロールだけが、墨を引きずった虫の足跡じみた黒い線で埋まっていった。



***



 昼休みを告げる鐘が鳴ると、学生たちは互いに話しながら、作成したスクロールを提出し始めた。


 大講堂の中は、すぐに騒がしくなる。


 椅子が引かれる音。笑い声。紙が折れる音。


 その間を縫って、規則正しい足音がひとつ、こちらへ近づいてきた。


 私は顔をスクロールの近くに落としたまま、息を整えた。手のひらに汗が滲み、鉛筆が何度も滑る。


「アリア嬢。大丈夫かい? 色鉛筆、貸そうか?」


 私は顔を上げずに答えた。


「エルヴァン……様。いいえ、大丈夫です。ほとんど書き終えました……」


 エルヴァンはしばらく、私の前に立っていた。それから、私の後ろへ一段上がった。


 彼の声が低くなる。


「エレオノーラ。使い終わったのなら、早く返すべきじゃないかな」

「エ……エルヴァン様。これは……」


 エレオノーラの声が、少しずつ小さくなっていく。


「はあ。君は、いくつになればその幼稚さが抜けるんだろうね」


 少しして、エルヴァンは私の机の上に色鉛筆入れを置いた。


 戻ってきたのは四本だけ。その四本も、すべて芯が折れ、先が潰れている。


「アリア嬢。嫌なことをされたら、黙っていないで僕か学級長に言うんだよ。まあ……あの方には期待できないだろうけど」


 彼は教室の一番前、中央の席に座っているカシアン様の方を見た。


 私は折れた色鉛筆の芯を指先で触れた。黒い粉が、少しだけつく。


「お気遣い、ありがとうございます……エルヴァン様」


 やがて皆が教室を出ていき、最後に残ったのは私とカシアン様だけになった。


 私は完成したスクロールを両手で持ったまま、ちらちらと彼を見ていた。


 カシアン様は静かに席を立ち、スクロールを教卓の上へ置く。そのタイミングに合わせて、私は車椅子を動かした。


 彼の前へ進む。


 カシアン様は、私の前で足を止めた。


「用件でもあるのか」


 冷たく沈んだ声だった。


 そっと顔を上げると、光を帯びない黒い瞳が私を見下ろしていた。


「えっと……その……カシアン様」

「何だ。早く言え」


 私は震える手で鞄を開けた。そして、新しい色鉛筆のセットを取り出し、彼の前へ差し出す。


 視線を自分の膝の上に固定したまま、口を開いた。


「その……もしよければ、これを。あ、変な意味ではありません。魔法陣を描く時は、やっぱり色がいくつかあった方がいいですし。カシアン様は、いつも暗い色鉛筆ばかり使っているみたいで、それに、色鉛筆もずいぶん短くなっていたので……だから……」


 言葉が互いにぶつかり合いながら、口の外へこぼれていく。


 自分が何を言っているのか、心臓の音の向こうでうまく聞き取れなかった。指先だけが、包装紙の角に何度も引っかかっていた。


 その時、カシアン様が手を伸ばした。彼は色鉛筆のセットを受け取り、数秒だけそれを見下ろした。


「ありがとう、アリア」


 私は息を止めた。


 カシアン様は、淡々と言葉を続ける。


「それより、なぜ俺が暗い色鉛筆ばかり使うと知っている?」

「え……? え? あ、ああ! それは……」


 私は視線を忙しく動かした。


 教卓から黒板へ。黒板から窓へ。窓から自分の手へ。


 唇が、開いては閉じた。


 先に口を開いたのは、カシアン様だった。


「まあ、いい。だが、俺は特に返せるものを持っていない」

「いえ、大丈夫です! 私は何もなくても……」


 言いかけたところで、彼の片手が制服のベストの内側へ入った。


 胸元のあたりから取り出された手が、私の顔の方へ伸びてくる。


「ひっ……!」


 身体が先に反応した。私は両目をぎゅっと閉じ、両腕を上げて身体を縮めた。


 何も起きなかった。


 少しして、右目だけをそっと開ける。目の前には、真っ白なハンカチがあった。右下には、小さな鳥が一羽、刺繍されている。


「何をそんなに怯えている」


 カシアン様は、ハンカチを差し出した。


「これで頬でも拭け。一度も使っていない。捨てるなり持っていくなり、好きにしろ」

「頬……ですか?」


 私は片手で自分の頬をなぞった。指先に、黒い鉛筆の粉がつく。


「あ……」


 震える両手でハンカチを受け取り、私は頭を下げた。


「ありがとうございます……」

「ただのハンカチだ。君がくれた色鉛筆の方が、ずっと高い」


 カシアン様は席へ戻り、色鉛筆のセットを鞄の中へしまった。


「では、もう用はないな」

「は、はい……」


 私の返事を背に、彼は教室の扉へ向かって歩いていった。


 その途中で、一度だけ足が止まる。


「そういえば、一昨日は右腕に包帯を巻いていたな。もう治ったのか」


 私は左手で右腕に触れながら答えた。


「はい……」

「学業に()(さわ)らないよう、気をつけろ」

「はい。気をつけます」


 それを最後に、彼は教室の外へ出ていった。


 扉が閉まる。それからも私は、しばらく教卓の前で動かなかった。


 教室の窓は、すべて閉まっている。それなのに、外の木の葉が風に擦れる音だけが、妙にはっきり聞こえた。


 私は手の中のハンカチを、頬へ持っていきかけた。


 そのまま止まる。


 若木の葉と皮が混ざった、青い匂いが鼻先をかすめた。


 私はハンカチをきれいに畳んだ。そして、鞄の一番奥へしまう。


 最後に自分のスクロールを教卓の上へ置き、ゆっくりと車椅子の向きを変えた。

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