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12話「約束」

 放課後。教室の前。


 フレイヤが眉間に深い皺を寄せ、こちらへ歩いてきた。鞄は片方の肩に適当に引っかけられ、足取りも朝より目に見えて重い。


「アリア、早く夕食を食べに行こう。もう疲れた……」


 私は返事の代わりに、片手を差し出した。


 フレイヤが私の手のひらと顔を交互に見た。


「ん?」

「色鉛筆」

「ああ、色鉛筆! ちょっと待って」


 ようやく思い出したらしく、彼女は鞄を大きく開け、中を探り始めた。


 教科書とノートの擦れ合う音がしばらく続く。取り出された数本のうち、二本は芯が途中で折れていた。


 私は鼻から短く息を吐き、それを受け取って色鉛筆入れへ戻した。


「じゃあ早く夕食! お腹空いた」


 フレイヤが車椅子の取っ手をつかもうとする。


 その前に魔導車椅子を動かし、少しだけ後ろへ下がった。


「ごめん。寄るところがあるから、今日は先に食べてて」

「えっ? アリアが? どこに?」


 眉がわずかに動いた。


練武場(れんぶじょう)。お姉様に会いに行くの」

「お姉様? こんな時間に練武場にいるの?」

「うーん……」


 鞄の紐を握る手に、少しずつ力が入った。


 お姉様が誰かと揉めた末、練武場で喧嘩に発展し、壁を一枚まるごと吹き飛ばした日。その記憶を、口にするわけにはいかなかった。


「いろいろあるの。先に行ってて。あとで蜂蜜菓子を買ってあげるから」

「本当!?」


 フレイヤはぱっと目を輝かせ、私の肩に手を置いた。


 私はその手をそっと外す。


「急に触らないでって言ってるでしょ……とにかく、またあとでね」


 そう言い残し、学院の裏手にある練武場へ向かった。



 ***



 練武場は、巨大な鉄製のドームだった。


 扉を開けた途端、乾いた砂と埃の混ざった重い匂いが鼻を刺した。続いて、奥から吹きつけた強い風が顔を打ち、髪を前へ散らす。


 片手で髪を耳の後ろへ戻し、目を細めて中を見た。


 硝子張(ガラスば)りの天井から、午後遅くの日差しが降り注いでいる。


 中央には淡い砂を厚く敷き詰めた楕円形の演武場(えんぶじょう)があり、その周囲を低い防壁が囲んでいた。壁には衝撃を吸収するルーン模様が等間隔に刻まれ、かすかな光を帯びている。


 その中央に、二人の姿があった。


 一人は、腰まで届く純白の髪に、上級部魔法班の印である紺色の外套をまとっていた。手にした杖の先では、青い魔力増幅石の光が波打っている。


 私の姉、イリア・オルネン。


 向かい側には、黒い短髪の長身の男が立っていた。


 カシアン様よりさらに細く鋭い目を持ち、背丈も頭ひとつ近く高い。上級部武術班の印である赤褐色(せきかっしょく)の外套を肩にまとい、手には人の胴ほどもある大きな木剣を握っていた。


 カシアン様の兄にして、霜嶺王国の第一王子。


 カエレン・ルーンヘルム。


 彼の後ろの観覧席には、女子生徒が何人も集まっていた。


 両手を胸の前で組んでいる者。カエレン様が木剣を回すたび、小さな歓声を上げる者。彼が少し視線を動かしただけで、互いの腕をつかみ、笑い声を押し殺している。


 イリアお姉様はそちらを一度睨み、顔をしかめてから、カエレン様へ視線を戻した。


 杖の先が持ち上がる。


「今ならまだ間に合うよ。さっさと謝ったら?」


 声は気怠げだった。杖を握る手の甲には、筋がくっきりと浮かんでいる。


 カエレン様は木剣を一回転させ、腰を低く落とした。


「なぜ俺が謝る? 先に言ったのはおまえだろう。冠翼族は歳を取るのが早いから、実質的には俺より年上だと――おばさん」


 最後のひと言とともに、彼の口元がごくわずかに持ち上がった。


 地面の砂が低く震えた。お姉様の杖に嵌まった増幅石の中で、穏やかだった波が嵐へ変わる。


「マジでうざい!」


 空中に小さな結晶が次々と生まれた。結晶は瞬く間に数百本の氷の矢へ育ち、巨大な群れとなってカエレン様へ降り注いだ。


 同時に、彼の身体が澄んだ青い光に染まる。足元から生まれた光が脚と腰を駆け上がり、木剣の先まで行き渡った。


 カエレン様が砂を蹴った。


 木剣が青い残光を引いて振るわれるたび、氷の矢が乾いた枝の音を立てて砕けていく。破片は日差しを受け、白い光となって散った。


 お姉様まで十歩も残らない距離へ迫った時、彼女が杖先を彼の顔へ向けた。


「――氷截線(ひょうせつせん)


 杖の先から、髪の毛ほど細い白線が伸びた。音もなく練武場の反対側の壁まで届く。


 一拍遅れて、その周囲の空気が悲鳴を上げた。


 ぎいいいっ――!


 巨大な鉄板を(きり)で引っかく、甲高い音が演武場を貫いた。


 白線を中心に空間が凍りついた。空気も砂も、宙に散っていた氷の欠片も、一斉に白い光の中へ吸い込まれていく。


 杖の魔力増幅石に、細いひびが走った。青い珠は砕け、細かな破片となって砂の上へ落ちた。


 イリアお姉様は大きく肩を上下させ、息を整えた。


「だから……謝れって……」


 言葉が終わる前だった。


 氷の粉に覆われた白い帳の中から、カエレン様が飛び出した。


 彼女の手首をつかみ、足をかけて身体の軸を崩す。


「きゃっ!」


 お姉様の身体が、後ろへ倒れた。


 頭が砂へ触れる寸前、カエレン様の手が首の後ろを受け止める。そのまま彼女の身体をゆっくりと砂の上へ下ろした。


 彼の木剣は、すでに白い粉となって消えていた。顔も外套も、黒かった髪まで薄い霜に覆われている。息を吐くたび、白い煙が立ち上った。


 カエレン様はお姉様へ手を差し出した。


「本気で殺すつもりだったのか、イリア?」


 お姉様はその手を払い、自分で砂を押して立ち上がった。


「運がよかったと思いなよ。練習用の増幅石じゃなかったら、今頃は冷凍肉になってたから」

「それは楽しみだな」


 彼の口元には、ごく淡い笑みが残っていた。


 その姿を見ながら、私は鞄の中へ手を入れた。


 指先に、カシアン様からもらったハンカチの小さな鳥の刺繍が触れる。その部分を少しだけ撫で、手を抜いて鞄を閉じた。


 言い争う二人の後ろで、演武場を埋めていた氷の霧がゆっくりと薄れていく。


 その奥から、壁に開いた穴が現れた。


 直径は二メートル近くある。衝撃吸収用のルーンも、真っ白に凍りついていた。


 穴の向こうから、教官たちの切迫した声が聞こえてきた。


「練武場の中に誰かいるのですか!」

「まさか、また――!」


 お姉様とカエレン様が、互いの顔を見た。


 短い沈黙。


 二人は同時に、練武場の入口へ走り出した。その途中、お姉様と私の目が合う。


 険しかった顔が、一気に明るくなった。


「アリア!」


 彼女は逃げていた方向から急に曲がり、私のもとへ駆け寄った。


 両手で私の頬をつかみ、左右へぐにぐにと引っ張る。


「どうしたの? 私に会いに来たの? なんでここにいるって分かったの?」

「う……うん、お姉様。ちょっと久しぶりに……それより、頬を……」


 彼女の手首をつかんだ、その時。壁の穴から、女性教官が一人、駆け込んできた。


「やっぱり! またあなたなのね、イリア!」

「違います! 今回は私じゃなくて、カエレンが――」


 お姉様が勢いよく振り返った。


 カエレン様が立っていた場所には、砂の上へ続く足跡しか残っていなかった。


「くっ……卑怯者め」


 彼女は唇を噛んだ。そのまま私の車椅子の取っ手をつかみ、魔法で車輪を地面から少し浮かせる。


「ちょっと、お姉様?」

「とにかく逃げるよ!」


 次の瞬間、車椅子は矢となって練武場の外へ飛び出した。



 ***



 日が沈み始めた頃。


 私たちは学院の裏手にある、人のほとんど寄りつかない庭へ来ていた。迷路のように入り組んだ木々と花の茂み。その間に、小さなベンチがひとつだけ置かれている。


 イリアお姉様は、そこへどさりと腰を下ろした。


 私は乱れた彼女の髪と、増幅石を失った杖先を交互に見た。


「やっぱり、お姉様はすごいですね。来年卒業したら、宮廷魔導長(ロイヤル・マイスター)になるんですか?」

「やだ、やだ」


 お姉様は手を振った。


「私が何を好き好んで、あの王家のために働くのよ」

「そうなんですか? でも、カエレン様は評判もよくて、実力も――」


 話している途中で、彼女が私の手を取った。青い瞳の中にある縦長の瞳孔が、まっすぐ私の顔を捉えている。


 彼女の指が、私の手の甲を一度撫でた。


「アリア。それはいいから。どうしてわざわざここまで来たの? また何かあった?」


 私は膝の上で、ゆっくりと拳を握った。


「いいえ。何もありません」


 彼女の視線は動かなかった。


 私は顔を横へ向け、花の茂みを見ながら続けた。


「それより……明後日は、開花の茶会ですね。家の人たちは、もう王都に来ていますよね?」

「ああ、茶会ね」


 彼女はベンチの背へ身体を預けた。


「うん。お母様と、ほかにも何人か来てるけど……アリアには連絡がなかったの?」

「はい。何も」

「はあ、本当にもう。あれだけ連絡してって言ったのに。今度会ったら私がひと言――」


 私は彼女の手を両手でつかみ、言葉を遮った。


「いえ、大丈夫です。もう慣れていますから。それより、男性の方もいらっしゃるんですか?」

「ん? ああ、そうね。今回はキリアン叔父様も来るって。アリア、叔父様とも仲がよかったでしょ?」


 キリアン叔父様。


 前と同じ顔触れ。茶会に来る者の中で、ただ一人の男性。


 私は唾を一度飲み込んだ。


 お姉様は私の顔をしばらく見たあと、目を細めた。


「ところで、どうして? もしかしてアリア……男に興味が出てきた?」

「はい?」

「でも、冠翼族の男はやめておいた方がいいよ。数も少ないし、どいつもこいつも恋愛にはからっきしなんだから。お父様は別だけど」

「男の人に興味なんてありません……! そういう話じゃないです」


 早口で答えながら、私は鞄の中へ手を入れた。そして、あらかじめ用意していたスクロールを慎重に取り出す。


 全部で五枚。それをお姉様へ差し出し、口元を少しだけ持ち上げた。


「それより、お姉様。魔法陣の授業で習ったものを使って、スクロールを何枚か書いてみたんです。よければ、魔力を込めてもらえませんか?」

「魔法陣? アリアが書いたの?」


 彼女はスクロールを受け取り、膝の上へ置いた。


 一枚目を開く。


 次の一枚。


 そして三枚目。


 ページを進めるにつれ、お姉様の口元から笑みが消えていった。


「回復スクロールに……ワープ?」


 彼女が、もう一度私を見る。


「やっぱり何かあるんじゃない? 茶会に出たくないなら、私がお母様に話して――」

「大丈夫です!」


 思っていたより鋭い声が飛び出した。木の枝に止まっていた小鳥が、羽音を立てて飛び去る。


 私は一度息を吸い、膝の上を手のひらでゆっくり撫でた。


「そういうことじゃなくて……最近、またリハビリを始めようと思っているんです」

「リハビリ?」

「はい。そうしたら、転んだり怪我をしたりするでしょうから。その時に使おうと思って。ワープスクロールは……何かあった時のためです」


 彼女は何も言わなかった。ただ、私の目を見ていた。


 私は視線をそらさなかった。目の奥が少しずつ乾いていく。指は、スカートの同じ場所を何度も擦っていた。


 長い沈黙のあと、彼女がスクロールを持ち上げた。


 指先に、青い光が咲く。光は紙に刻まれたルーン文字を、ひとつずつ辿っていった。線を進み、円を回り、結び目となって絡む術式(じゅつしき)の中心へ集まっていく。


 五枚のスクロールが順番に青い光へ沈み、元の色へ戻った。


 彼女はそれを私へ差し出した。


 私は一枚目を慎重に開いた。ルーン文字のひとつひとつに、まだ呼吸が残っている。淡い青の光が、紙の上で静かに脈打っていた。


 スクロールを巻き直し、鞄の一番奥へしまった。


「ありがとうございます、お姉様」

「かわいい妹に頼まれたんだから、このくらい何でもないよ」


 お姉様は笑いながら、小指を差し出した。


「その代わり、つらいことがあったら、必ず最初にこのお姉様へ話すこと。約束して」


 私は手を持ち上げた。


 小指の先が、彼女の指を前にして止まる。


 一度、唇を結んだ。それから、ゆっくりと指を絡めた。


「もちろんです、お姉様」


 お姉様の小指は、温かかった。

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