8話「封印」
「アリアー、学校行くよー」
扉の向こうから聞こえた声に、私はゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、窓だった。少しだけ開いた隙間から朝の光が斜めに差し込み、硝子の縁に細い金色の線を作っている。カーテンの端が、風にほんの少し揺れていた。
頭の奥がじいんと響き、こめかみのあたりが鈍く痺れていた。
「アリア、行かないの? 入るよ?」
もう一度、声がした。
すぐに扉が勢いよく開いた。
私は床にうつ伏せになったまま、首だけを後ろへ反らし、扉の方を見た。
最初に入ってきたのは、脚だった。膝から下の肌には、小さな擦り傷や絆創膏があちこちに残っている。古い痣も、いくつか薄く浮かんでいた。
続いて、白みを帯びた金髪――フレイヤの顔が覗いた。
「……フレイヤ。おはよう」
私がそう挨拶した瞬間、フレイヤの足が止まった。
彼女は口を半分開けたまま、私を見下ろしている。青い瞳が、私の頭の先から足元まで一度なぞり、右腕のところで止まった。
「アリア?! なにこれ! 右腕もどうしたの!」
「うん……?」
フレイヤが慌てて駆け寄り、私の身体を起こした。
上体が起き上がると、長い髪が重力に従って落ちてくる。真っ白な髪が鎖骨と肩をかすめた。開いた窓から入ってきた風が、腕も、背中も、腰も、遠慮なく撫でていく。
「……あれ?」
私はゆっくりと下を見た。
服がなかった。何も。
そして右腕には、前腕の外側に沿って、血の滲んだ長い傷が斜めに走っていた。
そこでようやく、昨夜のことが戻ってきた。
鳥の姿でどうにか部屋まで戻ったあと、窓を越えた途端に床へ落ち、そのまま眠ってしまったこと。
私はフレイヤの顔を見た。フレイヤも、私を見ていた。
短い沈黙。
「きゃあああああっ!」
そうして、白樺月三日の朝は、騒がしく始まった。
***
授業はいつもどおり過ぎていった。
違うことがあるとすれば、私の右腕に分厚い包帯が巻かれているくらいだった。
鳥の姿で負った傷は、元の身体に戻っても消えないらしい。包帯の下がずきりと疼くたび、昨夜裂けた翼の感覚が、ほんのわずかに蘇った。
そしてまた、寮の部屋の前。
後ろから私の車椅子を押していたフレイヤが、声を落として言った。
「本当に大丈夫……? 今日は私が隣で寝る」
「大丈夫だって」
私は扉の取っ手を見ながら答えた。
「昨夜、少し熱があって、息苦しくて服を脱いで……窓を閉めようとして転んだ時に、机の角で引っかいただけだから」
「……分かったってば。でも、納得したわけじゃないからね」
私は答えの代わりに、口元だけを少し持ち上げた。
「本当だよ。それに、一緒に寝るのは寮の規則違反でしょ」
「うん……でも心配なんだけど」
彼女は唇を少し尖らせた。上から見下ろす青い目が、私の顔と包帯のあいだを行ったり来たりする。
私は車椅子を動かし、扉を開けた。
「本当に大丈夫。だから……また明日ね!」
私は急いで部屋へ入り、扉を閉めた。
「何かあったら、すぐ呼んでよ!」
扉の向こうから、フレイヤの声が聞こえる。
少しして、足音が遠ざかっていった。
部屋に一人きりになると、私は短く息を吐いた。それから軽い寝間着に着替え、机の前へ向かう。
魔導時計は、午後四時三十分を指していた。
窓の方へ顔を向けると、まだ部屋の中には日差しが残っている。傾いた光が、机の上を斜めに切っていた。
私は鞄から本を取り出した。
今日の授業で使った『高等礼法学』と『魔導基礎理論』。それから、図書館で借りてきた二冊――『封印式の力学』と『魔導解剖学概論:人体器官と魔力の運用』。
私は『封印式の力学』を机の上に開き、残りの本はすべて本棚へ差し込んだ。
表紙は濃い紺色の革でできていた。四隅には銀色の金具がつき、中央には幾重にも円を重ねた封印紋が押されている。指先で紋をなぞると、浅く刻まれた線が肌に引っかかった。
隣には新しいノートを開いた。羽根ペンの先にインクを含ませ、ゆっくりと最初のページをめくる。
紙面を埋めていたのは、複雑に絡み合う幾何学式と、びっしり並んだ古代ルーン文字だった。
私は目に力を込め、一文字ずつ読んでいった。ページに並んでいるのは、『魔導具の出力抑制』をはじめ、物に刻む封印式についての記述ばかりだった。
羽根ペンを握った右手は、いつの間にか宙で止まっていた。ペン先に溜まったインクが、黒く乾いていく。
やがて、あるページで手が止まった。
『猛獣の魔力抑制に関する応用』
私は姿勢を正した。
その章には、魔力の流れが強い猛獣に封印石を巻きつけたり、特定の位置に魔力抑制具を固定して暴走を防いだりする方法が記されていた。
指先でページを追っていくうちに、続く小見出しで手が止まった。
『完全抑制式:特殊加工を施した封印石を身体の中心部へ埋め込み、魔力の放出を根本から制限する方式。効果は強いが副作用も大きい。移植後の物理的除去は困難であり、解除には特定条件の解除式を要する』
その下には、複雑な式と図が続いていた。
私はペンを置いた。指先が、紙の上で動かなくなる。
少しして、車椅子を動かし、衣装棚の前へ向かった。扉を開けると、内側の鏡に私の姿が映る。
私は襟元をつかみ、胸元を少しだけ下へ引いた。
右の胸より少し下。みぞおちに近い場所。そこには、五センチほどの薄い傷跡が残っていた。
幼い頃、薔薇園でお姉様と遊んでいて転び、その時にできた傷。ずっと、そう聞かされていた。
私は指先で傷跡をなぞった。感覚は鈍く、遠かった。薄い布を一枚隔てた向こう側に触れている。爪の先で軽く押しても、痛みはぼんやりとしか上がってこなかった。
私はしばらく、何も言わずにその傷跡を撫でていた。
指先を離してから、服を整え、窓辺へ向かった。
日は沈み始めていた。部屋の光が、少しずつ薄くなっていく。空の上の雲は、青い影の中へ静かに沈んでいった。
私は窓辺に座ったまま、待った。日が完全に落ちるまで。
『本当に変身するの? 明日じゃだめ? 右腕もそんな状態だし……』
夜が降りたあと、クロノアが言った。
「はい。一日だって惜しいんです」
私は目を閉じ、意識を身体の奥へ沈めた。
小さな爪が机を叩いた時の硬さ。翼の先で風をつかんだ時の、あの軽さ。ひとつずつ拾い上げる。
そして、目を開けた。
私の手は、そのままだった。月明かりを受けて青白く光る、細い人の手。
「はあ……できませんけど。本当にこの方法で合っているんですか?」
『合ってるよ。君がまだ、鳥の感覚に慣れていないだけ。今日はわたしが手伝う。その代わり、今日は寮の周りを回るだけって約束して』
「はい。約束します」
その言葉が終わるより早く、視界が一度またたいた。身体の中心が、すとんと下へ落ちる。
次の瞬間、服が上から崩れてきた。昨日と違って軽い寝間着だったから、息が詰まるほどではない。私はくちばしと翼で布を押し分け、どうにか外へ抜け出した。
身体は、小さな青い鳥に戻っていた。
翼を広げると、右の羽の奥がちくりと痛んだ。
私は翼を何度か小さく揺らし、痛みの残り方を確かめる。それから軽く飛び上がり、窓枠の上へ降りた。
夜風に触れた途端、昨夜の白い猛禽の影が頭をよぎった。
「そういえば……雪夜梟を春に見たのは、初めてかもしれません。真冬でなければ、あまり見かけないはずなのに」
『分かりきってるでしょ。あの子たちも、位相喰いから逃げてきたんじゃない?』
「……そうですか」
私は短く答え、窓の隙間から外を見た。視線は自然と、男子寮の方へ向かっていた。
最上階の一番端にある、カシアン様の部屋。そして、そこから二つ隣の部屋。私はその窓に目を留めた。
古い記憶が、頭の中で浮かび上がる。
授業が終わると、誰より早く寮へ戻った日々。毛布に身体をくるみ、望遠鏡を抱えて窓辺に座っていた時間。
すべての寮室を何度も眺めて、その中に熟れた稲穂の金色の髪を初めて見つけた時、ベッドの上で転げ回った自分。
私はくちばしの奥をぎゅっと噛みしめ、頭を一度大きく振った。
そのまま窓の外へ身を投げた。
羽が夜気を打つ。傷ついた右の翼は少し遅れてついてきたが、胸の下に風が入り、身体はかろうじて浮かんだ。
私は男子寮へ向かって、低く飛んでいった。
目標は、さっきまで見つめていた窓――エルヴァン・グランデルの部屋だ。




