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7話「温箱」

 私は今、ベッドの上にいる。


 右の翼には、薄い包帯が丁寧に巻かれている。羽のあいだから覗く傷を押さえつけないよう、結び目はずいぶん緩くしてあった。


 まだ、ずきずきと痛む。けれど少し前のように、背筋の端まで裂かれる痛みではなかった。


 私は慎重に首を動かし、あたりを見回した。


 カシアン様の部屋は、思っていたより広かった。


 濃い胡桃材の机と本棚が壁の一面を占め、並んだ本は大きさと色ごとにきちんと揃えられている。机の上にはインク壺、羽根ペン、封蝋(ふうろう)が、少しの乱れもなく置かれていた。


 窓辺には黒と紺の混じった厚いカーテンが半分だけ束ねられ、床には濃い灰色の絨毯(じゅうたん)が敷かれている。


 その時、扉が開いた。どこかへ行っていたカシアン様が、部屋の中へ戻ってくる。両手には、小さな木箱を抱えていた。


 私は両目を強く閉じ、ベッドの上でぺたりと伏せた。身体が反射的に丸くふくらむ。


「かなり痛むのだな」


 ほどなく、彼の声が聞こえた。


 続いて、温かな手が私の身体をそっと持ち上げる。指は、傷ついた翼に触れないよう、少し開かれていた。


 私はどこかへ下ろされた。


 腹の下を包む、ふかふかした感触。その下から、ぬくもりがゆっくり上がってくる。冷たく固まっていた足先が先にほどけ、続いて腹と胸の下へ、温かさが染み込んでいった。


 羽のあいだにこわばっていた力が、少しずつ抜けていく。


 薄く目を開けると、私は小さな木箱の中にいた。底にはやわらかな布が何枚も重ねられていて、まわりには小さな穀粒が散らしてある。


『はあ……やっと少し楽になった』


 さっきまでずっと痛い痛いと騒いでいたクロノアが、頭の中で声を出した。


『それにしても、誰かは知らないけど、優しい子だね』

「は? あの冷血漢がですか……?」

『なに、知り合いなの?』

「ええ、まあ……」


 その時だった。窓枠が小さく軋み、冷たい夜風が部屋に入り込んだ。頭の上の羽が、かすかに揺れる。


 木箱の向こうから、カシアン様の声が聞こえた。


「トト! 今日は早かったな。怪我はないか?」

「キャキャキャキャッ!」


 返ってきたのは、耳を鋭くつつく鳥の鳴き声だった。


『あれ? この声……』


 クロノアが呟く。


 私は木箱の壁へ近づき、隙間に爪をかけた。身体を引き上げ、そっと顔を出す。


 窓辺に、一羽の鳥が立っていた。頭の上には細い羽が数本立ち、頬には丸い橙色のチークがある。全身を覆う黄色い羽は、夜の中でもほのかに温かい色をしていた。赤みを帯びた瞳は、暗がりの中で澄んで光っている。


 足には、小さな紙の巻物が結ばれていた。


『やっぱり! ソリアじゃない!』

「知っている鳥なんですか?」

『うん! 太陽の精霊ソリア! 千年前に会って以来だけど、こんなところにいたんだね』


 クロノアの声が、少しだけ高くなった。その言葉と同時に、私の口からも、意思とは関係なく小さなさえずりが飛び出す。


 私はすぐに、翼でくちばしを押さえた。


 カシアン様がこちらを見た。その瞬間、押さえていたくちばしが勝手に開いた。


 彼は、笑っていた。


 目が半分ほど細くなるくらい、やわらかく。口元には、かすかな弧が浮かんでいる。


「そういえば、トト。さっき怪我をした鳥が部屋に落ちてきてな。とりあえず温めて、餌を置いておいた」


 彼は木箱の中を見下ろし、静かに続けた。


「早く元気になるといいのだが……」


 私はそのまま固まった。


 私の知っているカシアン様の顔と、今目の前にある顔が、うまく重ならなかった。背筋を凍らせる視線はどこにもない。今の瞳は、見ているだけで羽の奥までほどけてしまいそうな温度をしていた。


 カシアン様は再びソリアへ顔を向け、ソリアが運んできた紙の巻物をほどき始める。


「さて、今日はどんな知らせだろうな。良い知らせならいいのだが……」


 彼は言葉を止めた。巻物を広げたまま、数秒、そのまま動かない。


 やがてそれを丁寧に畳み、机の上へ置いた。


 彼の顔から、先ほどの淡い笑みが消えていた。目元も口元も、ぴたりと動かない。


 カシアン様はペンを一本手に取ると、壁際に掛けられた大きな霜嶺王国の地図へ向かった。


 地図の前で顎に手を当て、ペン先を北の最上部へ持っていった。


 灰色の線で長く連なる城壁――北進城砦。


 その名の上に、黒い線が一本引かれた。その上に広がる白い北の雪原には、すでに何本もの黒い線が引かれていた。


「これ……まさか、位相喰いのことですか?」

『うん……たぶん。もう北進城砦まで、位相喰いに呑まれているんだ……』


 クロノアの声が低くなる。


 胸の奥で、野外授業の日にエルヴァンが言った言葉が静かに浮かび上がった。


 ――魔力もない、半端な体の君には、何も知らされていなかったのか。


 私はその言葉を喉の奥へ押し込み、クロノアに尋ねた。


「やっぱり……位相喰いのことは、みんな知っているんでしょうか」

『知らないはずがないよ。最初に降ってから、もう半年は経っている。民が動揺しないように情報を絞ることはあっても、貴族たちが知らないなんてことはない』

「……そうですか」


 私は爪に力を込めた。木箱の縁へ、爪がさらに深く食い込む。


 カシアン様は今度、片手で顎を支えたまま、北進城砦のすぐ下にある小さな集落の印へ丸をつけた。ペン先が、同じ場所を何度もなぞる。


 それから彼は、机へ戻った。


 椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。指のあいだから、低い息がこぼれた。


「どうすればよいのか……もどかしいな」


 白い手の甲には、裂けては塞がった傷跡がいくつも残っていた。


 私はしばらく、その手だけを見ていた。


 少しして、カシアン様が顔を上げた。視線は、窓の外へ向いている。


「ふう……もう月も高いな。そろそろ寝ようか、トト」

「ピヨッ」


 今度は、軽やかな鳥の声が聞こえた。


 ほどなく、部屋の明かりが消えた。闇が部屋へ降りる。


 その時、また大きな影が私の頭上にかかった。私は小さく跳ね、木箱の壁へ背中を押しつける。


 顔を上げると、カシアン様が片方の人差し指をこちらへ伸ばしていた。彼は私の頬の横の羽へ、そっと触れる。


 指先は温かかった。触れた場所がくすぐったくなって、気づけば私は、その指に頬を押しつけていた。


 私はすぐに頭を振り、くちばしを開けて、顔を後ろへ引く。


「もう少しだけ耐えてくれ。夜が明けたら、腕のいい医役(メディ)を連れてこよう。それより、俺は君を何と呼べばいいだろうな」


 彼はしばらく黙って、私を見つめた。


「透き通った氷のような青だから……ププがいいな」


 ププ……?


 くちばしが、半分開いたまま止まった。


 羽がふわりと逆立つ。さっきまで頬に残っていた温かさが、どこかへ引っ込んでいく。


 私は彼の黒い瞳を、真正面から見つめた。


 カシアン様は、私の青い羽をもう一度見下ろし、静かに瞬きをした。それから、ほんのわずかに頷く。


 ……変える気は、なさそうだった。


 やがて彼は身を起こし、黒い髪と白い襟元が、私の視界の外へ上がっていった。


 まもなく、ベッドの方で布団の擦れる音がした。部屋には、カシアン様の規則正しい寝息と、部屋の奥でソリアが羽を整える小さな音だけが残った。


 そうして、夜は更けていった。



***



 うとうとしていた私は、腹を箱の底につけたまま、目を瞬かせていた。


 ふと、身体を起こす。


「クロノア様。クロノア様?」

『ん……うん……なに……』


 半分水に沈んだような声が返ってきた。


 私は早口で続ける。


「そういえば、私はいつまでこの姿なんですか? どうやって戻ればいいんですか?」

『ん……? ああ……目を閉じて、元の姿を思い浮かべればいいよ……どうせ朝になれば精霊の力が弱くなるから、戻っているはず……だから、もう寝よう……』


 クロノアの声は、だんだん小さくなっていった。


 私は顔を下げ、自分の身体を見た。ぎっしり生えた青い羽が、全身を覆っている。


 服はどこにもなかった。


 私は木箱の壁に登り、ゆっくり顔を上げた。


 ベッドの上では、カシアン様がきちんと横になっている。身じろぎもしない。布団は顎の下まで掛けられ、黒い髪だけが枕の上に散っていた。


 それを確認した途端、頬のまわりの羽が熱くなった。小さな心臓が、せわしなく打ち始める。


「出ないと……!」


 私は爪を木箱の隙間にかけ、力いっぱい身体を引き上げた。


 こつ、と小さな爪の音が机の上に落ちた。


 羽ばたこうとすると、包帯が邪魔だった。私はくちばしで包帯の端をくわえる。


『ちょっと、アリア! それ取ると、わたしも痛いんだけど』

「静かにしてください」

『いや、本当に痛いんだって。今のわたしたち、ひとつなんだからね?』


 私は答えず、包帯を引っ張った。


『あいたたたたっ! ゆっくり! ゆっくり!』


 包帯が少しずつほどけていく。


 傷ついた羽のあいだから痛みがまた這い上がってきた。それでも私は、何度もくわえ直し、引いた。


 最後のひと巻きが外れ、包帯が床へ落ちた。


 右の翼は、きちんとは開かなかった。だが、動かすことはできた。


 私は足元を確かめながら、窓辺へ歩いていく。


 窓の前に立ったところで、部屋の片隅にある長方形の鳥籠(とりかご)が目に入った。中の止まり木には、ソリアが座っていた。赤い瞳だけが、闇の中で静かに光っている。


 けれどソリアは何も言わず、ただ私を見ているだけだった。


 私はくちばしを閉じ、ソリアへ向かって、ごく小さく頭を下げた。そして、窓の隙間へ歩いていった。


 冷たい夜風が入り込んでくる。


 私は傷ついた翼を、ゆっくり広げた。


『本当に行くの……?』

「ここで朝を迎えるわけにはいきません」

『それは、そうだけど……』


 私は窓枠の上に立った。


 男子寮から女子寮までの距離は、さっきよりずっと遠く見えた。右の翼は広げるだけで背筋の端まで痺れる。


 それでも、私は爪を離した。


 身体が宙へ落ちる。


 すぐに左の翼を大きく動かした。右の翼は、半拍遅れてついてくる。


 身体が傾く。けれど、落ちはしなかった。


 私は低く、できるだけ低く、寮の壁に沿って飛んだ。


 何度も均衡(きんこう)を崩し、石壁にぶつかりかける。そのたびにクロノアが短く声を上げ、私は残った力で身体を立て直した。


 女子寮の窓が近づく。


 私の部屋の窓。まだ、少しだけ開いていた。


 私は最後の力を振り絞り、その隙間へ身体を押し込んだ。


 床の上に転がり落ちる。


 今度は、悲鳴を上げなかった。ただ、しばらくのあいだ、静かに息だけを整えた。


 窓の外では、遠く男子寮の最上階の部屋に、かすかな明かりが残っていた。


 私は翼を畳み、机の下の影に身体を丸めた。青い羽のあいだには、カシアン様の指先が残していった温もりが、まだ少しだけ残っていた。

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