80話「掃討」
翌日の昼過ぎ、海岸。
太い丸太を高く組み上げた仮設防壁の上から、私は眼下を見下ろしていた。
暗い海を背に、果ての見えない浜辺が左右へ伸びている。その上を、異形の群れが徘徊している。
大きさも姿もばらばらだ。牛ほどもある魚が鰭を脚代わりにして這い、その傍らでは、人の背丈の半分ほどしかない何かが群れを成して蠢いている。
魔物とは、黒雪によって変質した動植物である――そう定義されている。
だが、その言葉だけでは説明がつかない。あの身体で呼吸ができるとは思えず、食べた物を消化する器官さえ備わっているか怪しい。
それでも、魔物たちは動いている。
防壁の中央から太い声が響いた。
「事前に通達したとおりだが、作戦をもう一度説明する」
声の主はソルベルグ伯爵。背には巨大な大剣。頭部まで銀色の鎧で覆っている。
周囲には武装した兵士たちと、カエレン殿下、カシアン、フレイヤ。さらに、お姉様を筆頭とする魔法使いたちが集まっている。
伯爵は大剣を抜き、眼下の浜辺を指す。
「奴らは倒しても、海から際限なく這い上がってくる。そこで結界石を設置し、海岸への侵入そのものを封じる」
大剣の切っ先を足元へ突き立て、ニアを含む影鱗族へ目を向ける。十五人ほどが、それぞれ結界石を抱えている。
「設置は彼らに任せる。影鱗族は姿を消すだけでなく、周囲の魔力と同調することができる。魔物が魔力の流れを追って獲物を探す以上、彼らの能力が最も適していると判断した」
影鱗族の間から声は上がらない。結界石を握る手は、誰もが胸元へ引き寄せている。ニアとノアの尻尾も、地面へ垂れ下がっていた。
「もちろん、彼らだけに危険を背負わせるつもりはない」
伯爵は、お姉様たち魔法使いへ向き直る。
「魔物掃討の基本は、遠距離からの一斉攻撃だ。持てる魔法をすべて撃ち込み、可能な限り数を減らす。その後、影鱗族が出発する」
続いて、鎧を着込んだ兵士たちを見る。
「移動中の護衛と、設置後の残敵掃討は我々戦士の役目だ。知ってのとおり、魔物は頑強で、頭部を斬らなければ死なない。重甲級以上でなければ刃も通らない。あらかじめ配った縄を使い、動きを封じることを優先しろ」
返事の代わりに、誰もが深く頷く。
伯爵がカエレン殿下へ目を向ける。殿下の首が縦に動く。
「では、直ちに作戦を開始する。全員、配置につけ!」
兵士たちが防壁に沿って一斉に散り、浄化具を装着していく。
図面を鍛冶工房へ送ってから、まだ一晩しか経っていない。それなのに、すでに数百個が用意されている。
配置についた魔法使いたちが杖を掲げ、声をそろえる。
「ミスト!」
濃霧が浜辺に湧き上がり、魔物の群れを覆っていく。
お姉様も杖を持ち上げる。その先端には、母の羽根が一本結ばれている。
青い瞳の奥で、縦に割れた瞳孔が鋭く細まる。
「――世界よ。我が魔力に屈せよ」
足元を低い振動が這う。
お姉様を中心に、目に見えない何かが四方へ走る。巨大な氷鏡が周囲へ立ち並んだ気配がする。
光がその内側で何度も跳ね返り、散乱する。真昼だというのに、世界はさらに白く染まる。
お姉様が短く告げる。
「――散華氷華」
霧の中で氷が弾け始める。
ぱぱっ、ぱぱっ、ぱぱっ。
初めは花火ほどの破裂だった。だが、砕けた氷は数億の結晶へ分かれ、浜辺一帯を切り刻んでいく。
空間まで引き裂かれたかと思う轟音に、魔物たちの絶叫が重なる。
耳を塞ぎ、肩を震わせながら前を見続ける。周囲の兵士たちも、目の前の光景に言葉を失っている。
魔法が止まると、お姉様は膝から崩れ落ちる。額に浮いた汗を手の甲で拭う。
防壁の下では、ほとんどの魔物が原形を失っていた。
ただし、巨体を持つ個体は残っている。全身を裂かれ、黒い血を流しながらも、傷口から肉が盛り上がっていく。
「戦士たち、剣を取れ! 影鱗族の護衛を最優先とする!」
「うおおおっ!!」
鬨の声と同時に、影鱗族の姿が消えていく。
ニアとノアは輪郭さえ見えなくなった。ほかの者たちは、薄い膜を一枚被せた程度の痕跡だけが残っている。
彼らが浜辺へ駆け出し、兵士たちも後を追う。
兵士は巨体へ何本もの縄を掛け、地面へ押さえ込む。青い光をまとった戦士たちが周囲から斬り込み、頭部を落としていく。カシアンとフレイヤも、その中にいる。
ミハイル、カエレン殿下、ソルベルグ伯爵の三人だけは違った。
いずれも一人で魔物と対峙している。剣閃が一度走るだけで、巨大な顔が縦に割れる。
大きな被害を出すことなく、影鱗族は浜辺の端まで到達する。決められた地点へ結界石を設置していく。
私は胸元で両手を握り、その光景を見守る。
最後の結界石が置かれる。
それを確認したお姉様が城へ向けて杖を掲げ、一条の光を空へ放つ。
各地の結界石から淡い青色の膜が立ち上がる。光の壁は上空でつながり、浜辺一帯を包み込む。
「忌々しい魔物ども、これでお別れだ!」
兵士たちから歓声が上がる。だが、伯爵は即座に怒鳴る。
「まだ終わっていない! 気を抜くな。残った魔物もすべて討ち取れ!」
直後、浜辺全体が激しく揺れる。
地面が割れ、巨大な何かが突き上がってくる。
百足型の魔物だ。
一匹ではない。二匹、三匹――四匹。
全長は二十から三十メートル。ベヒモスには及ばない。それでも、十分すぎる大きさだ。
漆黒の胴を覆う節々から、折れた骨めいた突起が飛び出している。頭部に目はなく、あるのは二つの空洞だけ。
兵士たちが縄を投げる。しかし、張った端から引き千切られる。
一人が頭から噛み砕かれる。別の兵士は脚で腹を貫かれ、血を吐く。
そのうちの一匹が、結界石へ――ニアのいる方角へ進む。
「う……うわああっ!」
ニアは尻餅をつく。姿を消そうとしても、輪郭が透けては元へ戻るだけ。
ユリスが彼女の前へ飛び出す。全身を青い光で覆い、百足の顔面を剣の峰で受け止める。だが、横から振り戻された尾を浴び、遠くへ弾き飛ばされる。
「ユリス!」
ニアが悲鳴を上げ、倒れた彼のもとへ駆け寄ろうとする。
その背後から、百足型の魔物が襲いかかる。だが、牙がニアへ届くより先に、黒い巨体が凍りつく。
横を見れば、お姉様が荒い呼吸を繰り返しながら杖を構えている。ほかの魔法使いたちも同じだ。
大規模魔法を放った直後にもかかわらず、息を継ぎながら、氷と盾と炎で百足の動きを押さえている。
ニアの背後へソルベルグ伯爵が踏み込んだ。
頭上から大剣を振り下ろす。ただ一度の斬撃で、黒い巨体が縦に両断される。
「取り乱すな! 奴らも弱点は頭部だ! まず動きを封じろ!」
号令を受け、兵士たちが再び縄を放つ。長くはもたない。それでも、剣を届かせるには十分だ。
ミハイルが別の百足の胴を斬り裂く。落ちてきた頭部へ、カエレン殿下が剣を突き立てる。
頭が青い光を帯びて膨れ上がり、破裂する。黒い血が辺り一面へ飛び散る。
誰もが反射的に口元へ手をやる。顔を覆う浄化具の感触を確かめ、手を下ろす。
残る百足も、カシアンとフレイヤを含む戦士たち、兵士たちの連携によって一匹ずつ倒れていく。
胸に溜めていた息が抜けかける。
だが、眼前に巨大な影がせり上がる。
「キエエエエッ!」
百足が一匹、防壁を這い上がってきた。上にいる人々へ脚を振り下ろす。
「シールド!」
お姉様が叫ぶ。
巨大な青い膜が一帯を覆う。しかし、光は薄い。百足の脚が膜を突き破り、一人の魔法使いの腹を貫く。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
脚に突き刺されたまま身体が持ち上がり、上半身が百足の口へ引きずり込まれる。
視界が狭まる。
震える手で操縦桿を後ろへ倒す。車輪が防壁の段差に引っかかり、車椅子ごと後方へ転倒する。
魔法使いたちが応戦するが、百足を止められるだけの威力は残っていない。
再び百足の脚が持ち上がる。お姉様が杖を突き出す。
無数の氷柱が百足の身体を貫く。動きが止まり、凍った節が軋む。
再び蠢きだそうとした百足の前へ、別の影が防壁を越えて現れる。
全身に魔力をまとったカシアン。
彼が力任せに頭部へ剣を振り下ろす。半分まで裂けたものの、断面には肉が盛り上がり、傷が塞がり始める。
百足の狙いがお姉様からカシアンへ移る。
カシアンは次々に振り下ろされる脚を受け流す。
私は肘で身体を引きずり、後ろへ下がる。
彼が百足の脚を一本斬り落とす。切断された脚は勢いを失わず、こちらへ飛んでくる。
「きゃあっ!」
両手で顔を覆う。
だが、痛みは来ない。
目を開けると、カシアンが飛んできた脚を片手でつかんでいた。もう一方の手では、百足の牙を押し返している。
両腕が激しく震え、牙が何本も肩へ食い込み、そこから血が流れている。
「カ……カシアン……!」
叫び声に重なり、背後で青い閃光が走った。
百足の巨体が力を失い、真っ二つに崩れ落ちる。
カシアンは片手で肩を押さえ、膝をつく。
「カシアン様!」
ミハイルと兵士たちが駆け寄り、彼を仰向けに寝かせる。
横たわったカシアンの顔が見える。その上へ、別の顔が重なる。
焦点を失い、虚空へ向けられた目。大きく開いた瞳孔。頬を流れる、血とも涙とも分からない雫。
呼吸が浅くなる。吸い込んだ空気が喉元でつかえ、胸まで下りてこない。
――違う。
今度は違う。まだ生きている。さっきまで動いていた。手も、腕も、確かに。
耳鳴りが頭の奥を満たす。周囲の叫び声が水中の音に変わる。
視界の端から白く霞み、指先の感覚が抜け落ちていく。
世界が横へ傾いた。




