81話「伴侶」
目を開けると、見慣れた木の天井があった。ソルベルグ領で与えられた、私の部屋の天井だ。
上体を起こして窓へ目を向ける。日はすでに沈みかけていた。
紙をめくる音が聞こえる。
隣を見ると、ユリアンヌ様が椅子に座って本を読んでいる。その傍らには、片隅がへこんだ私の魔導車椅子が置かれていた。
「ユリアンヌ殿下……」
彼女は本を閉じ、こちらへ目元を和らげる。
「リア。『ユリアンヌ様』でいいですよ」
彼女の顔を見たあと、口を開く。
「ユリアンヌ様……私は、どれくらい眠っていたんですか?」
「大した時間ではありません。二時間ほどでしょうか。司祭様によれば、汚染の症状ではなく、強い衝撃を受けたせいだろうとのことでした。お身体は大丈夫ですか?」
目の前で手を握り、開いてみる。
「はい……」
倒れていくカシアンの姿が脳裏によみがえる。
「あの……! カシアン殿下は……!」
ユリアンヌ様は目元に笑みを残したまま答える。
「無事ですよ。牙も浅く刺さっただけですし、浄化具を着けていたので、汚染もほとんど進んでいないそうです」
肺に溜まっていた息を吐き出す。それでも、両手の震えは収まらない。
「よかった……。イリアお姉様は、大丈夫ですか?」
「ええ。魔力を使いすぎて倒れましたが、数週間ゆっくり休めば回復するでしょう。掃討も無事に終わり、死傷者は十名に届いていません。これ以上ない成果です」
「そうですか……」
窓の外へ顔を向けると、張り詰めていた唇が緩む。
ユリアンヌ様が続ける。
「それで、どうですか、リア。今でもカシアンの傍にいたいと思いますか?」
私は答えなかった。
彼女も、それ以上は何も尋ねない。
窓の外を見ていた。太陽が完全に沈む頃、深く俯き、膝に重ねた両手へ言葉を落とした。
「いいえ……私が傍にいれば、彼は傷ついてばかりです」
「賢明ですね」
衣擦れの音がする。
「この時代に王が必要としているのは、守らなければならない人ではなく、隣を歩ける人ですから」
ユリアンヌ様は席を立ち、部屋を出ていく。
入れ替わりにリーゼが入ってくる。いつもの侍女服姿だ。
「アリアお嬢さま、お加減はいかがでしょうか。きちんと召し上がらなければ、体力も戻りません。よろしければ夕食を――」
「大丈夫、リーゼ。今は一人にしてほしいの」
リーゼは私の顔を見たあと、頭を下げて退室する。
扉が閉じる。
布団を引き上げ、顔まで覆う。
息を呑み込むたび、肩が勝手に跳ねる。布団の端を口に含んでも、喉の奥から漏れる音を止められなかった。
***
涙が乾き始めた頃、クロノアが声をかけてきた。
『アリア……大丈夫?』
「クロノア様……大丈夫です」
『そっか……っていうか、もう夜だよ? 海辺に行かなくていいの? 今日カシアンと会うんだって、昨日はあんなに浮かれてたじゃない』
「行きません」
『ええ……カシアン、待ってるんじゃない?』
身体を起こして車椅子へ移り、机へ向かう。引き出しを開け、カシアンにもらったハンカチを取り出す。
「大丈夫です。もう彼の傍には行きません。私といると、彼は傷ついてばかりで……進軍が始まれば、もっと大きな危険が待っています。私は足手まといになるだけです」
クロノアから返事はない。
ハンカチから、机の脇に立てた杖へ視線を移す。母の羽根に指を触れる。
「せめて、私にも魔力があれば……。お母様、王家と何をすれば封印は解けるんですか。手紙には何も書かず、どうして……どうして一人で決めて、私の考えは何も聞いてくれなかったんですか……」
羽根を撫でていた指が止まる。喉が詰まる。
そこで、クロノアが尋ねる。
『でも……君だって、お母さんとあまり変わらないんじゃない?』
「……はい?」
『君だって同じだよ。自分はカシアンの迷惑になるって、一人で決めつけて、一人で離れようとしてる。今回だけじゃない。もう何度目か分からないよ。なのに、彼がどう思っているのかは、一度も聞いたことがないでしょう?』
言葉が出てこず、唇を固く結ぶ。クロノア様が話を続ける。
『人間って本当に自分勝手だね~ 他人の心なんて分かるはずもないのに、自分の考えが正解だって顔をするんだから』
カシアンの顔が浮かぶ。
普段は無表情で、誰も寄せつけない暗い目。けれど傷つき、苦しんでいるときでさえ、私といる間だけは和らいでいた目元と唇。
その表情を振り返る間もなく、クロノア様が言葉を重ねる。
『それにさ、アリア。カシアンはいつも自分を弄んでいるとか、期待させるだけだとか言ってたけど――君、自分で言ったよね。純粋で、子供みたいだって。それなら、アリアから告白すればいいんじゃない? 本当に不思議なんだけど』
「それは……」
小声で答え、もう一度引き出しを開ける。
一通の手紙。
母のノートの最後に挟まれていた、私へ宛てた手紙だ。
再び紙を開く。折り目は擦れて白く毛羽立ち、紙は黄色く変色している。
魔力を解放する条件が隠されていないか、すでに何十回も読んでいる。
けれど今回は、別の一節で目が止まる。
『愛する人を守るという名目で、その人の選択まで奪ってはなりません。
あなたの父は、私たちに何も尋ねず、あなたの身代わりとなって死にました。私はそんな彼を恨みながら、あなたを守るという理由で、あなたの魔力も人生も勝手に封じました。
私たちは愛を言い訳にして、最も大切な人の意思を奪ったのです。あなただけは、同じ過ちを繰り返さないでください』
何度も読み返してから、手紙を丁寧に折る。
腕時計は午後八時を回っている。日が暮れたら会う約束だったから、もうかなり遅れていた。
車椅子で窓辺へ向かう。
夜空を仰ぎ、目を閉じる。
翼を広げる。
城の上へ。夜空へ。遠くに見える海辺を目指して。
***
海岸へ近づくにつれ、地上に魔物の残骸が見えてきた。金色だった砂は黒い血を吸い、灰色に固まっている。
ただ、海だけは違った。
黒い画布となって星明かりを映し、その上を横切る結界が、淡い青色の波を描いている。
開けた砂浜の片隅に、カシアンが一人で座っていた。
仮設防壁の丸太の先では、ソリアが毛繕いをしている。その傍らを抜け、砂浜へ降りた。カシアンの隣に着地する。
彼は空を仰いだまま動かない。手にしているのは、以前見た色とりどりの羽根を収めたガラス瓶。瓶を握る白い手は、指先から関節まで赤くかじかんでいる。
部屋着のシャツに、毛布ほど厚い外套を一枚羽織っただけの姿。
空を見たまま、カシアンが口を開く。
「随分遅かったな。また俺が傷ついたせいで、君が気を落として来ないのではないかと心配した」
肩を一度回してみせる。
「だが、心配はいらない。浅い傷だ」
彼の背後へ回り、人の姿に戻る。露わになった肌へ冷たい風がまとわりつき、たちまち全身が震える。
膝を抱え、身体を丸める。
厚い外套が身体を包んだ。カシアンは前を向いたまま、背後へ腕だけを伸ばし、自分の外套を掛けてくれたのだ。
「大胆なことをするな。誰かに見られたらどうする」
「誰もいないよ……来る途中で確かめたから……」
カシアンが隣の砂を手で示す。
「こちらへ来てくれ。もうすぐオーロラが見られるかもしれない」
隣へ移らない。彼の背中へ自分の背を預け、口を開く。
「カシアン……前に言ってたよね。私について、知りたいことがたくさんあるって。全部話すよ」
声の調子を変えず、話を続ける。
「私……一度死んだの。野外授業のとき。エルヴァン・グランデルに騙されて、目を奪われて……ワープスクロールで北進城砦へ送られて……黒雪に呑まれて……」
両手で外套を握り、身体へきつく巻きつける。
「そこで時の精霊と出会い、位相が混ざったことで魔力が解放され、過去へ戻ったの。母のノートは、カシアンも読んだでしょう? 私の魔力は封じられていて、死ぬ間際にだけ解放される。守るためだったのは分かってるけど……そういうこと」
話しているだけで、目の奥が熱くなる。
「それで、鳥に変身できるようになったの。時の精霊が鳥だから。でも精霊は、星様が見守る夜にしか動けないみたい。だから夜だけ、鳥になれるんだよ」
片方の指で砂を何度も突く。昼の熱はとうに消え、表面の下には湿った砂が固まっている。指先が深く沈む。
「それで、私を虐めた子たちにも、エルヴァンにも、母にも復讐したかった。だから毎晩、カシアンの寮室へ通ったの。王子なら情報を持っていると思ったし、鳥の私には優しかったから。歩けず、魔力もない私には、情報しか武器がなかった」
砂を突く指を止め、喉元から胸へ手を滑らせる。
「黒魔術を使ったのも私。黒魔術は位相を媒介にするから、魔力を封じられた私でも使えるの」
乾いた笑いが漏れる。
「でも、おかしいよね。そんなことをしながらカシアンと過ごしていたら……会えないとずっと会いたくて、隣にいると胸が騒いで……」
両手を固く握る。
「カシアンには、よく分からない感情かもしれないけど。あなたが好き」
カシアンは沈黙を守っている。
涙が頬を伝う。
「嫌われてもいい。信じてくれなくてもいい。どうせ私のせいで、カシアンは傷ついてばかりだから。翠蘭の闘技試合では、私のせいで一度死んだの」
「……」
「だから残っていたペンダントの魔力を全部使って、一日を巻き戻した」
手の甲で顔を擦った。
「こんなに騙して、全部隠したまま隣にいるなんて……申し訳なくて、駄目だと思った」
言葉はまとまらず、浮かんだ順に口からこぼれていく。
両手で頬を流れる涙を拭い、ひりつく喉から声を絞り出す。
「私、最低だね。本当に最低な女だよ……」
カシアンがもう一度、隣の砂を示した。
「こちらへ来てくれ。空の色を見る限り、もうすぐオーロラが現れる」
視界が滲む。
身体の向きを変え、彼の隣へ移る。空を見る気にはなれず、膝を立て、その間へ顔を埋める。
「ごめんなさい……」
「つらかっただろう。勇気を出して話してくれたことに感謝する」
顔を横へ向け、カシアンを窺う。彼は相変わらず空を見上げている。
「そして、すべて信じる。むしろ、信じるほかない。これまでの出来事が、一本の線でつながった気がする」
「カシアン……馬鹿なの? 普通、こんな話を信じる人なんていないよ……」
カシアンがこちらを向く。私を見るときにだけ浮かべる、淡い笑みがそこにある。
「そうだな。論理的な話ではない。だが、君の言葉なら、それだけで信じる理由になる。それに、人間の常識から外れているだけで、辻褄が合わないわけでもない。つまり、起こり得る話だ」
片手を私の背へ置き、何度も撫でる。
「俺は生まれてから一度も、自分で何かを決めたことがない。いつも父上の命令に従うだけだった。認めてもらいたい一心で、大切にしていたものさえ切り捨てた。可愛がっていた鳥が殺されたときも、一言さえ口にできなかった。俺も最低な男だ」
背中を撫でていた手が止まる。
カシアンは羽根の入った瓶を月明かりへ掲げ、手首を傾ける。ガラスの向こうで、色とりどりの羽根が揺れる。
「これは、俺にとって最も大切なものだと言っても過言ではない。ずっと、この羽根を見て生きる理由を探してきた」
唇は笑っているのに、目尻だけが下がっている。
彼は立ち上がり、瓶の蓋を開ける。中から真っ白な羽根を一本取り出す。
「カシアン……?」
羽根を持った腕を、空高く伸ばす。
「ピク。いつも気高く、王族よりも高貴な鳥だった。行って、自由に空を飛べ」
指を開くと、羽根は風を受けて空へ舞い上がる。月光の道をたどり、海の果てへ流れていく。
次に取り出したのは、緑色の羽根だ。
「ピオ。気が荒く、いつも俺を嘴で突いていたな。行って、自由に飛べ。そしていつでも、俺を突きに戻ってこい」
カシアンは羽根を一本ずつ空へ放つ。
瓶の中から、すべてがなくなるまで。
空になったガラス瓶を砂の上へ置き、再び腰を下ろす。
彼の目の縁は赤く、睫毛の先が濡れている。
「カシアン……大丈夫? 大切なものだったんでしょう……?」
カシアンは深く息を吸い込み、赤くなった目で私をまっすぐ見返す。
「大丈夫だ。俺は自分の執着で、あの子たちをつなぎ留めていただけだ。瓶に閉じ込めた羽根に、何の意味がある。行くべき場所へ、今になって送り出しただけだ」
彼が私を見る。
これまで一度も見たことのない笑顔だ。
「それに、俺には今、前へ進むための新しい翼がある。あの子たちが残した場所へ君が来てくれた。それが、本当に嬉しい」
カシアンの手が、私の顎に触れる。
「君が話したことは、どれも俺が君を嫌う理由にはならない。ただ、一つだけ、君に文句を言いたい」
「……え?」
「入学して間もない頃、君は俺に色鉛筆を差し出してくれただろう。あの時、俺の世界に初めて君の色が差した」
「……はい?」
自分でも気づかないうちに、敬語が出た。
「……俺は、君を愛している」
一度そう告げてから、彼はわずかに視線を落とす。
「本には、こう伝えるものだと書いてあった。だが、今なら分かる。これは俺自身の言葉だ」
彼の親指が私の頬に残った涙を拭う。
「星様の下で誓う。この夜を幾度繰り返し、いつか君が俺を忘れても、俺は君を愛し続ける。永遠に、俺の伴侶でいてほしい」
その言葉を頭の中で繰り返す暇もなかった。
彼の唇が、私の唇へ重なる。
冷たい夜気の中で、そこだけが熱かった。
互いの吐息が混ざり合う。頬を包む手に引き寄せられ、唇の重なりが深くなる。驚きに目を見開いたまま、間近にある彼の濡れた睫毛から目を離せず、全身に細かな痺れが走る。
ぼんやりと霞む視界の端で、エメラルド色の光が空に広がり始める。
緑の光は波となって流れ、端で淡い紫へ溶ける。また緑が満ち、同じ変化を繰り返す。
その輝きが結界の青い膜と重なり、海面へ降り注いだ。空と海が同じ色に揺れている。
唇が離れると、細い糸が二人の間に残った。
唇を半ば開いたまま、カシアンの瞳から目を離せない。
カシアンは顔を赤くし、慌てて横を向いて口元を覆った。
「……無礼だったのなら謝る。だが、小説にはこう書いてあって――」
最後まで言わせなかった。
「はい」
両腕を首へ回し、自分の方へ引き寄せる。
「星様の下で誓います。何度忘れても、何度生まれ変わっても――そのたびに、あなたを見つけます」
もう一度、唇を重ねる。
オーロラが消えるまで、私は彼の首から腕を離さなかった。
彼の傍にいるたび疼いていた胸元の傷も、この時だけは痛まなかった。
どれほど経っただろう。
耳まで赤くしたカシアンは正面を向いたまま、指先で前髪を弄んでいる。私はその横顔へ、目元だけで笑いかける。
「でも……本当に私でいいの? ずっとカシアンを騙していたし、王家の結婚はいろいろ複雑でしょう? それに、私といればまた傷つくかもしれない。一歩間違えば、死ぬことだって……」
「構わない。君の話を聞く限り、騙したことにはならない。あの状況なら当然の判断だ」
カシアンは私の手に、自分の手を重ねる。
「それに、今さら王家が何だというのだ。父上もいない。俺の伴侶は俺が選ぶ。傷つくことも、命を懸けることも、君のためなら望むところだ。もっとも、君を守るためであっても、死ぬつもりはない」
彼の指に自分の指を絡める。
「わかった……私も、できることは全部する。カシアンを守るために……」
絡めた指を眺めていると、カシアンは不意に手をほどき、ひとつ咳払いをする。
「……それより、もうかなり遅い。オーロラも見たことだし、今日はそろそろ戻ろう」
その言葉に、頬を膨らませた。呼吸はまだ整わず、唇に残る熱も、身体を走る痺れも消えていない。
「カシアンって、やっぱり……女のことを何も分かってないんだね」
「またそれか。小説では、この後はそのまま帰っていたはずだが……まだ何か必要なのか?」
「小説って……『雪の下で眠る種』? まさか書庫の前でぶつかったときに見て、わざわざ探して読んだの?」
「そ……そうだ」
カシアンの肩を手で押す。
彼の身体が砂の上へ倒れる。その上へ両腕をつき、身を乗り出して顔を覗き込む。
いつも私を見下ろしていた人が、今は下にいる。大きく見開かれた黒い瞳の中で、星明かりが揺れている。
「私が教えてあげる」
「な、何をだ?」
返事の代わりに、額へ落ちた前髪を横へ払う。
その額へ口づける。
カシアンは両手で顔を覆った。指の隙間から見える耳の先まで、真っ赤に染まっている。
「女の子はね、中途半端が一番嫌いなの」
彼の胸へ頭を預け、両腕で抱き締める。厚い胸板がほどよい弾力で頬を受け止め、若草の清々しい香りが鼻先に届く。
耳元で心臓が鳴っている。その音が、寄せては返す波音と重なり、一つの旋律を奏でる。
夜が深まっていった。




