79話「月舞」
前夜祭の会場となったソルベルグ居城の前庭へ出ると、赤く揺らめく夜が広がっていた。
雪をかき分けた場所ごとに篝火が焚かれ、薄暗い庭を赤く照らしている。長卓が何列も並び、その上には丸焼きの肉や魚の塩漬け、湯気を立てる大鍋、パンを詰めた籠が所狭しと置かれていた。
炭火へ脂が落ちる匂い。香辛料を加えて煮た酒の甘い香り。冷えた夜気に混じる、雪の匂い。
前庭は人で埋め尽くされている。鎧を脱いだ戦士とその家族、幼子を抱く女、杖をついた老人。貴族も平民も関係なく、厚い外套をまとって肩をぶつけ合いながら笑っている。
フレイヤは足を止め、辺りを見渡す。
「わあ……庭にこれほど人が集まったの、初めて見た」
その目が庭の片隅で止まる。
セドリックが一人で立ち、片手に杯を持っていた。口をつけようともせず、中身を揺らしている。
「行ってきなよ。心配なんでしょう?」
「でも、アリアが……」
「心配しないで。私も子供じゃないし、あとでリーゼも来るって言ってたから」
「そう……? じゃあ、またあとでね、アリア!」
フレイヤは手を振り、セドリックの方へ歩いていく。彼の前まで行くと、なぜか半身になり、スカートの裾を摘んで持ち上げてみせる。
セドリックは杯を下ろした。言葉も出ないまま、フレイヤから目を離せずにいる。
私は視線を逸らした。
別の場所では、ソルベルグ伯爵がカエレン殿下と話していた。伯爵はフレイヤの方へ一度だけ目を向け、何事もなかった顔で会話を続ける。
ユリアンヌ様は伯爵夫人の隣に座っていた。ニアはユリスという兵士の傍らで、ひときわ明るい色のドレスをまとい、背中で手を組んで身体を左右にくねらせている。
その近くでは、同い年ほどの少女たちがノアを取り囲んでいた。一人が尻尾を引っ張ると、ノアは顔を強張らせ、人垣の間へ逃げ込んでいった。
人波を端から端まで見渡してみたが、カシアンの姿はない。
車椅子を動かしながら捜していると、背後から取っ手をつかまれた。首を巡らせて見上げれば、イリアお姉様が笑っている。
濃紺ではなく、胸に灰色の狼紋が刺繍された絹のローブ。宮廷魔導長の礼装だ。
その後ろには、普段の侍女服ではなく、冠翼族のために仕立てられたオルネン家の衣装をまとったリーゼが立っていた。
「イリアお姉様……それに、リーゼ!」
リーゼは私の前まで来ると、ぎこちなく頭を下げる。背中の開口部から、灰色の翼が伸びている。
「どう? リーゼに似合っているでしょう? 私が前に着ていたものを貸したの」
お姉様に問われ、リーゼは頬を赤らめて顔を上げる。
「イリアお嬢さま……私は侍女です。このような衣装を着る資格もございませんし、似合いません」
「ですって。アリアはどう思う?」
お姉様がこちらを見る。私はリーゼを見上げ、大きく頷いた。
「すごく綺麗だよ、リーゼ。それに言ったでしょう。リーゼは侍女長だって。そして侍女だから何? 私にとっては家族も同然なんだから、気にしなくていいの」
「アリアお嬢さま……」
リーゼの目の縁が赤くなる。
そこでお姉様へ顔を向ける。
「そういえばお姉様、オズという宮廷魔導師はここにいないんですか? まだ見かけていなくて」
お姉様の表情が固くなる。
「……オズね。オズは王都にいるよ。弟がいるから」
「……そっか」
ふいに、人々の話し声が一斉に途絶える。
壇上へ目を向ける。
カシアンが立っていた。隣には、身なりを整えたミハイルが控えている。
カシアンは王家の灰色の正装をまとっていた。装飾と呼べるものは、肩に掛けた狼紋の肩章だけ。
真っ直ぐに開いた肩。伸びた背筋。篝火の赤い光が、その輪郭をなぞっている。
カシアンは集まった人々を見回す。途中で、私と目が合う。
彼が口を開く。
「今夜、ここへ集まってくれたことに感謝する」
その声は、前庭の端まで真っ直ぐに届く。
「この状況で宴を開くことに、疑問を抱く者もいるだろう。先の戦いで家族を失った者も、この場にいる。分かっている。だからこそ、この宴を開いた」
口を挟む者はいない。
「明日、我々は海岸一帯の魔物を掃討する。傷を負う者も、戻れない者も出るだろう。それを、なかったことにはしない」
言葉を切り、集まった人々の顔を見渡す。
「だが、そこへ結界石を立てる。そして魔物からこの城を守る。その先には、王都を奪還する」
声の調子が落ちる。
「だから今夜は、食べ、飲み、笑ってほしい。明日を生きて迎えるために」
私は膝の上で両手を握り、彼から目を離せなかった。
周囲の人々が一斉に杯を掲げても、拍手することさえ忘れていた。
人々は幾つもの輪に分かれて食事を取り、どこからか歌も始まる。手をつないで円を作り、踊りだす者もいる。
カシアンは壇を下り、前庭の隅に一人で立つ。先ほどまで歓声を巻き起こしていた人物とは思えないほど、顔には何も浮かんでいない。
通りかかった人々は一度だけ彼を見る。けれど誰も目を合わせられず、顔を背けて立ち去っていく。
私は離れた場所から、彼を見つめた。
隣にいたお姉様がリーゼの手を取り、私から離れながら声を上げる。
「アリア、私たちは何か食べてくるね。ああ、お腹すいた! アリアも適当に楽しんでいて!」
「お、お待ちください、イリアお嬢さま! アリアお嬢さまの車椅子が、誰かにぶつかりでもしたら!」
「過保護! 過保護!」
リーゼはお姉様に腕を取られ、連れていかれた。私は二人へ小さく手を振る。
もう一度カシアンへ目を向けると、まだ一人で立っていた。
車椅子を進め、彼の方へ向かう。人目につかないよう、人の少ない端を回り込む。
ところが距離を詰めるほど、カシアンは城の外側へ歩いていく。その背を追ううちに建物の脇を回り、裏庭まで来てしまった。
人の姿はない。あるのは凍りついた小さな噴水。その前で、カシアンが空を仰いでいる。
こちらから見ていると、彼は顔を下ろし、私へ目を向ける。
「アリア。宴も楽しまないで、こんなところで何をしている?」
車椅子を進めて彼の前へ出る。
「……人の多い場所は苦手なので。カシアン殿下こそ、楽しまなくていいんですか?」
「周りには誰もいない。いつもどおり呼んでいい。それに、俺も人混みは好きではない」
カシアンは噴水の傍らへ歩き、積もった雪を指先で払う。続いて懐から取り出したのは、青い鳥の刺繍を施した、私の贈ったハンカチだ。
「そういえば、このハンカチも学院の裏庭にある噴水の前でもらったのだったな」
「そうだね……もう三か月前か。エレオノーラは、どうしてるかな」
口にしたところで、車椅子に埋め込まれた魔力石へ手を置く。
はっと顔を上げる。
「そういえば舞踏会! ごめん、すっかり忘れてた……! 会う約束だったのに。本当にごめん……」
カシアンはハンカチを懐へ戻し、こちらを見て口元だけを緩める。
「いつの話をしている。地下坑へ攫われたのだから、仕方ないだろう。気にするな」
「それでも……本当にごめん……」
俯くと、背中の翼も力なく垂れる。
舞踏会へ行くと決まってから、何日も満足に眠れなかった。どんな服を着るか、最初に何を話すか、彼が踊る姿はどんなものか。頭の中で何度も思い描いていたのに……。
カシアンが私の前まで来た。片手を取り、腰を折る。
顔を上げると、彼の顔がすぐ目の前にある。黒い睫毛の一本一本も、澄んだ瞳に映る月明かりも、はっきり見える。
「ひっく」
しゃっくりが飛び出した。
カシアンは私の手を取ったまま告げる。
「遅くなったが、俺と踊らないか。舞踏会でなくとも、踊りはどこででも踊れる」
「ひっく……え……? でも私、歩けないよ。踊ったこともないし……」
「では、なぜ舞踏会へ行くと言った?」
「ひっく……それは、ただ……」
カシアンが踊る姿を見たかったから、とは死んでも言えない。
「それにしても、最近はしゃっくりがひどいな」
つないだ手に力がこもる。
「それに――踊りは必ずしも、脚でするものではない」
彼が私の手を掲げ、一歩後ろへ下がった。
引かれた手に合わせて、車椅子が前へ滑り出す。腕が横へ流れれば、私の身体も同じ方向へ回る。
足ではなく、つないだ指先が私を運んでいく。
彼の手が半円を描くと、車椅子もその軌道をたどる。凍った地面の上で、車輪がしゃり、しゃりと鳴る。スカートの裾が横へ膨らみ、元の形へ戻る。
遠くから歌声が届く。その拍子に合わせ、カシアンの手が上下する。
私は空を仰いだ。
雲一つない夜空に、二つの月が並んでいた。白い月と、それより小さな青い月。二つの光が重なり、離れるたび、私を見下ろす彼の顔へ色が移っていく。
白く、青く、また白く。
笑いがこぼれる。
「どうだ、初めての踊りは」
「楽しい……」
カシアンが動きを止める。
身体を左右へ運ばれただけなのに、息が弾んでいる。カシアンも細く息を吐く。
彼は私の手を握ったまま言った。
「アリア。よければ、一つ頼みがある」
「頼み? 何?」
「明日、魔物の掃討と結界石の設置が無事に終わったら……あの海辺へ来てほしい。夕方に」
「海辺……?」
先ほど部屋で読んだ小説の場面が、頭の中で勝手に開かれる。
うなじへ触れる吐息。つかまれた顎。
顔が一気に熱くなる。
「そ、それは……」
口ごもる私に、カシアンの言葉が重なる。
「まだ時期は早いが、あの海辺から見るオーロラは格別だ。君にも一度、見せておきたい」
「……」
彼を見上げてから、答える。
「カシアンって本当に……女のこと、何も分かってないんだね」
彼が首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「ううん……何でもない」
息を吐き、こぼれかけた笑いを噛んだ唇の内側へ押し込める。
「分かった。明日の夕方、海辺へ行くね。その代わり、絶対に無理しないで」
「心配はいらない。王国の強者が全員ここに集まっている。演説ではああ言ったが、大怪我をする者は出ないだろう。君には念のため、城の中で待っていてほしい」
「私も行く。私が作った浄化具を使うんでしょう? きちんと動くか、見届けないと」
「そうか……それもそうだな」
私は彼の手を握り直した。
「……もう一度だけ、踊ってもいい?」
「いいだろう。君が望むだけ付き合う」
二つの月明かりが降り注ぐ裏庭で、私たちは同じ踊りを何度も繰り返した。
遠くの前庭から流れていた歌が途切れるまで、ほかの誰も訪れなかった。




