78話「前夜」
魔物掃討を三日後に控えた日。
私はお姉様とともに魔力効率を調整し、完成した浄化具を携えて会議に臨んだ。
「三日はもちます。手入れを怠らなければ、四日まで」
浄化具を卓上へ置くと、列席者たちの視線が一斉に注がれる。
「浄化具の内部で黒雪の粒子だけを濾し取り、内側の浄化布で処理する構造になっています。必要な魔力も一つあたりごく少量ですから、全軍に配っても大きな負担にはなりません」
ソルベルグ伯爵はそれを手に取り、角度を変えながら細部を確かめる。
「……木製なのですね」
「はい。ルーンは平らな面へ刻んだ方が、精度を保てますから」
カシアンは何も言わずに席へ着いている。ただ、浄化具が伯爵から別の者へ渡るたび、その行方を視線だけで追っていた。
「たった数日で……これを作り上げたというのか?」
「独特な構造だな……」
感嘆を含んだざわめきが、列席者の間に広がった。
声が落ち着くのを待ち、お姉様が口を開く。
「これまでの黒雪に関する記録をすべて照合し、分かったことがあります。ご存じのとおり、黒雪が降る前には、必ず位相の波動が先に届きます。便宜上、転相波と呼びましょう」
お姉様が卓上へ資料を広げる。
「転相波が弱いほど、黒雪が到達するまでの時間は長くなります。反対に、強ければ早い。王都を覆った今回の大規模な黒雪は、波動を感知してから数時間も置かずに降りました」
カエレン殿下が席を立ち、資料を覗き込む。
「規模と間隔までは予測できないのか」
「規模と周期そのものは不規則です。ただ、波動の強さと降り始めるまでの時間には相関があります。そこで、これを作りました」
お姉様は懐から懐中時計を取り出した。秒針が淡い青色の光を帯びている。
「秒針に星貝の欠片を少量組み込んであります。波動を捉えると、針が逆回転する仕組みです。基準は五日。針が一分戻るごとに、黒雪の到来が一日早まると考えてください」
カシアンが頬杖をつく。
「では、五分戻れば……」
「その日のうちに黒雪が降ります。波動の強さによっては、数時間以内に降り始める可能性もあります」
誰も口を開かない。集まった視線を受けながら、お姉様が説明を続ける。
「魔物を掃討し、王都へ進軍する際は、この時計を目安にしてください。念のため、風力石も携行しましょう」
「北部の少数種族の集落へ配った風力石も、そろそろ尽きる頃でしょう。あとどれほどもつと見ていますか」
カシアンに問われ、お姉様の表情が固くなる。
「分かりません。小規模なら二、三度。今回ほどの規模なら、一度も防げない可能性があります。発生が不規則な以上、期限は出せません」
カシアンは顔色を変えず、卓上の資料へ目を落とす。
続いて、リーネ司祭が手を挙げる。白い法衣に、褐色の髪。地下坑から救出された直後に会って以来だ。
目が合うと、彼女は軽く頭を下げる。
「黒雪による汚染者についてご報告します。教会が備蓄していた聖水も、間もなく底をつきます。一週間はもたないでしょう」
カエレンが尋ねる。
「ほかに治療法はないのか」
「ありません。黒雪の汚染には、いかなる治癒魔法も効きません。損なわれるのは肉体ではなく、位相そのものだからです。そもそも聖水も治療ではなく、汚染の進行を抑えるための応急処置に近いものです」
「そうか……」
カシアンは一度俯いたあと、言葉を継いだ。
「これまでどおり、魔物には可能な限り遠距離から対処する。戦士にはオルネン卿が開発した浄化具を配備し、汚染防止を徹底する」
そう告げると、改めてリーネ司祭へ目を向ける。
「教会にも、この状況で力を貸してもらっている。感謝する」
「いいえ。黒雪は教会にとっても重大な問題です。当然の務めでございます」
二人の話を聞きながら、膝に置いた指を内側へ曲げる。
――サエナ・ミル。
地下坑と闘技場で、瀕死のカシアンを前にした私の口からこぼれた言葉。首筋まで這い上がった黒い線も、鮮明に記憶へ残っている。
それでも、私は何も口にしなかった。
不意に会議室の扉が開き、見覚えのある金髪の男が入ってくる。鎧は各所がへこみ、片方の肩当ては丸ごと失われている。
彼は片膝をつき、深く頭を下げる。
「ミハイル・ストール、ただいま帰還いたしました」
予定より二日も早い到着だ。
カシアンはすぐに歩み寄り、手を取って立たせる。
「ミハイル、よく戻った。予定より早いな。何かあったのか?」
ミハイルの口元は固く結ばれ、普段の快活さは見当たらない。
「反乱軍の残党に追われ、地下坑の位置を突き止められました。王党派の一行も一部が逃げ切れず、捕虜となっています」
「そうか……想定の範囲内だ。ご苦労だった」
だが、ミハイルはもう一度、深く頭を下げる。
「それと――有力諸家の兵が、王都へ集結しているのを確認しました。傭兵団もいくつか含まれています」
「……何だと?」
カシアンの声が鋭く響く。口を閉ざし、考えを巡らせたあと、低い声で続ける。
「王都までの道は一面の平地だ。まだ黒雪の汚染が残る中で兵を動かしたのなら、手段は一つしかない。まさか、浄化布を……」
「そのとおりです、カシアン王子殿下」
ミハイルが答えるのと同時に、セドリックが勢いよく立ち上がる。隣のフレイヤはセドリックとカシアンへ交互に目を向け、何度も口を開きかけては閉じている。
「あり得ません! 王国で浄化布を扱っているのは、エルハルト商団だけです。もともと需要が少なく、市場にもほとんど在庫がありません。大軍を賄える量が出回るはずがない。父上が王家を裏切るなんて――」
「分かっている。エルハルト侯爵は忠実な王党派であり、王国随一の商人でもある。だが同時に、学院の行事へ一度も欠かさず足を運ぶほど、息子を大切にしている」
カシアンは何の感情も浮かべず、セドリックを見据えたまま答えた。
「セドリック。ミハイルが偽りを述べていると思うか? 真偽を見抜くエルハルトの眼なら、分かるはずだ」
セドリックは長いことミハイルを見つめた。唇の端が震えている。最後には首を横へ振った。
「……いいえ」
「ならば、浄化布が反乱軍へ渡ったのは事実だ。つまり侯爵は、何らかの根拠から我々が敗れると見切ったのだろう」
カシアンは卓上の資料へ視線を落とす。
「兵が集まり始めた時期と、黒雪が薄れるまでの猶予。王都にいるのは反乱軍だけではない。王国軍にも、反乱側の領地に家族を残す者は少なくない。彼らがどちらにつくかは明白だ。名の知れた傭兵団には、相当な手練れもいる」
指先で卓を一度叩く。
「ミハイル、ほかに把握した動きはあるか?」
「申し訳ございません。それ以上は……」
重い沈黙が室内を満たした。
カエレン殿下が口を開く。
「結局、我々のなすべきことは変わらない」
全員の視線が彼へ集まる。
「態勢を整え、浄化具を用いて、敵がさらに兵を集め、魔力源の改良を終えるより先に王都へ進軍する。時間が我々に味方しないことに変わりはない」
カエレン殿下は言葉を切り、ミハイルへ目を向ける。
「ミハイルも戻った。海岸掃討は当初の予定より早まるが、進軍に備え、まずは視界が利き、身体も動かしやすい明日の午後に決行する」
ユリアンヌ様が口元を緩め、話を引き取る。
「でしたら、前夜祭も今夜開くことになりますね。こんな時に宴など、快く思わない方もいるでしょう。ですが、明日には武器を取る人々です。今日が最後の夜になる者もいるでしょうから」
会議室から物音が消える。
「士気のためにも、今夜くらいは笑って過ごしてもらいましょう」
反対する者はいない。
「日没までまだ時間があります。本日の会議は、これで終わりとします」
ユリアンヌ様の言葉を合図に、私たちは順に会議室を後にした。
会議室を出ても、話し合いの内容が頭から離れなかった。
捕虜。王都へ集まる兵。底をつきかけた聖水。そして、明日の海岸掃討。
どれも考え始めれば、胸が塞がる。それでも私は何も言わず、車椅子を自室へ向けた。
***
部屋へ戻り、リーゼに髪を梳かしてもらいながら本を開いた。
――『雪の下で眠る種』
数ページめくったところで、指が止まる。
主人公と男が、海辺に並んで座っている場面だ。波音に紛れて彼が何かを囁く。聞き取れずに顔を向けた途端、顎をつかまれ――。
口の中に唾液が溜まる。本を顔へ近づけ、その一文だけを何度も読み返す。
「その小説、本当にお好きですね。どのようなお話なのですか?」
リーゼの声を聞き、ぱたんと本を閉じた。
「ただの……小説だよ」
「そうでしたか……。ですが、安心しました。昨日なんて、一睡もなさらないので、倒れてしまうのではと心配していたんですよ」
櫛が髪を通る音だけが続いた。喉を整えてから尋ねる。
「リーゼ。それで、本当に短い髪は男の人に人気があるの?」
鏡に映る自分の顔は、頬の丸みが隠れず、以前より幼く見える。
「もちろんでございます」
リーゼが私のうなじにかかる髪を持ち上げる。
「以前は長く伸ばすことが美徳でしたが、今は短く整え、首筋を見せるのが流行なのです。ほら、こうして」
「ふうん……」
鏡の中に、白いうなじがあらわになる。襟が辛うじて異端の刻印を隠している。
髪を整え終えた頃には、窓の外で日が傾いていた。
「ありがとう、リーゼ。じゃあ、行ってくるね」
「お送りいたします」
「いいよ。リーゼも着替えてきて」
「侍女の私が参加するなど……」
「言ったでしょう。今夜の前夜祭では、身分なんて関係ないの。絶対に来てね」
本を胸に抱え、車椅子を進める。
「これ、フレイヤに返してから行くね。またあとで!」
***
フレイヤの部屋の前で扉を叩いた。
返事はない。もう一度叩いてみたが、結果は同じだ。
「フレイヤ? 入るよ?」
扉を開くと、彼女は鏡の前に立っていた。
淡い水色の冬用ドレスをまとっている。袖は手首まで届き、裾は足の甲を覆う長さだ。腰には銀糸で編まれた帯が巻かれている。
フレイヤは両腕を脇へ下ろしてみては、胸の前で組み直している。ベッドには、脱いだズボンとシャツが広げられている。
「ア、アリア!」
車椅子を中へ入れた拍子に、車輪が敷居へ引っかかった。がたん、と音が鳴る。
フレイヤは肩を跳ねさせて振り返り、中途半端な姿勢のまま両手でスカートを隠す。
「こ、これは、その……退屈だったから着てみただけ!」
「似合ってるよ」
「うん?」
「ドレス、よく似合ってる。フレイヤは背も高いし、スタイルもいいから」
フレイヤは目を伏せ、片手でもう一方の腕を撫でる。
「……そう?」
ベッドの脇に車椅子を止め、手招きする。
「こっちへ来て座って。髪、結んであげる」
フレイヤは床へ腰を下ろし、私に背中を向けた。以前リーゼに教わった編み方を思い出し、淡い金髪を指で分けて端から編み込んでいく。
膝の上で、フレイヤの指が忙しなく動き始める。
「でも、やっぱりズボンに着替えようかな」
「どうして?」
「だって、女の子っぽいだろ」
編んでいた手が止まる。
「フレイヤは女の子でしょう。男の子になりたいの?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
「ならいいじゃない。着たいなら着ればいいの。女の子なんだから、ドレスを着たって何もおかしくないよ」
髪を編む指を再び動かす。フレイヤから返事はなかった。鏡の中では、その頬に淡い赤みが差している。
「できた! さあ、行こう」
編んだ髪の先を結び、手を離す。フレイヤは立ち上がると、鏡の前で身体を一回転させた。淡い水色の裾が大きく広がる。
彼女は私の後ろへ回り、車椅子の取っ手を握った。
「ありがとう、アリア」
私たちは揃って廊下へ出た。窓の外では、一日の最後の光が雪原を赤く染めていた。




