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77話「浄具」

 肩を包む柔らかな毛布の感触で目を覚ました。


 視界に入ったのは、机いっぱいに広がる本とルーンの図案、それに浄化布(ピュリファ・ヴェール)の切れ端。寝ぼけたまま顔を上げると、唇と手の甲の間で唾液が細く糸を引く。


「う……」


 半端に腕を持ち上げたところで、背後から伸びてきた手が、ハンカチで拭ってくれた。


「リーゼ……?」


 振り返ると、イリアお姉様が目を細めて笑っていた。


「……お姉様」

「何よ、そのがっかりした顔は?」

「違います……瞼が重いだけです」


 お姉様はハンカチを畳み、机に散らばった研究資料へ目を落とした。


「何日、書庫(しょこ)()もるつもり? リーゼがアリアにつきっきりで、ろくに寝ていなかったから、休ませて私が代わりに来たのよ」


 鉛筆を握り、本を開き直す。


「でも、やらなきゃ……。もう五日も経ったのに、目標値には全然届いていません」


 紙に並ぶ数式へ目を戻す。


 長持ちさせるには、ルーンをさらに複雑に組まなければならない。けれど数式が複雑になるほど刻印(こくいん)に広い面積を要し、一人分に使う布が増える。これでは商団の在庫をすべて使っても、進軍する兵士全員には行き渡らない。


 計算は一巡して、また振り出しへ戻った。


 これで何度目だろう。


 額を押さえる私の向かいで、お姉様は頬杖をつき、黙ってこちらを見ている。


「どうして、そんなにじっと見ているんですか?」

「この数か月で、アリアもずいぶん大人になったなって思って」

「……私も十六歳です。もう大人ですよ」

「そうね。うん、もう大人ね」


 お姉様の視線が下がり、鉛筆を握る私の指に留まる。


 彼女が席を立つのと重なって扉が開き、息を切らしたリーゼが駆け込んでくる。いつもは整然と結われている髪から、数本が耳元へこぼれている。


「イリアお嬢さま、申し訳ございません。つい寝過ごしてしまって……」


 お姉様はリーゼの肩に手を置いた。


「もっと寝ていてもよかったのに。無理しないで、リーゼ。その手だって、まだ後遺症がひどいでしょう?」

「いいえ。侍女の私が休んでいるわけには……」


 お姉様は私を振り返り、片手を挙げる。


「じゃあアリア、また明日ね。そろそろ海から魔物が上がってくる頃だから、私も行くわ」

「はい、お姉様。気をつけてくださいね……」


 お姉様が部屋を出てから腕時計を確認すると、午前九時を回っていた。


 懐にしまっていた、乾燥薬草(かんそうやくそう)の包みをリーゼへ渡す。


「リーゼ、今日の分」

「お嬢さま。これは毎日、いつ摘んでいらっしゃるのですか? このところ書庫からほとんど出ていらっしゃらないのに」

「ニアと一緒に摘んでるの。毎晩、遅い時間に」

「夜遅くに……では、いつお休みになっているのです?」

「心配しないで。少しくらい寝なくても死なないから」


 リーゼが小さく息を吐き、首を振った。それに気づかないふりをして本を開く。



 何か言いかけた彼女は唇を結び、薬草の包みをエプロンのポケットへしまった。


「では……料理長へ届けてまいります。戻る際に朝食もお持ちしますので、お部屋でお待ちください」

「うん。ありがとう、リーゼ。それと、リーゼの分も摘んできたんだから、リーゼもちゃんと食べてね」


 リーゼを見送り、再び布へ鉛筆を走らせようとした途端、頭の中がぐるぐると回りだした。指にも力が入らず、鉛筆の先は布の上で震えるばかりだ。


 鉛筆を置いた。


「……ちょっとだけ寝ようかな」


 本と資料を抱え、書庫を出る。朝日が廊下の奥まで差し込み、石床を明るく照らしている。


 角を曲がったところで、硬い何かにぶつかった。


「いたっ……」


 腕の中から本や資料が崩れ、ばさばさと床へ散らばる。


「すまない。……アリアか」


 カシアンだった。肘まで袖をまくった薄手の訓練着をまとい、襟足にはまだ濡れた髪が張りついている。


「カシアン殿……カシアン。ごめん……」


 急いで資料を拾おうと身をかがめたが、彼が先に片膝をつき、散らばった紙を集めてくれた。その手が、一冊の本を前に止まる。


 ――『雪の下で眠る種』


 ニアから借りた例の小説だ。


「雪の下で眠る種……?」

「こ、これは! 何でもないの!」


 本をひったくり、背中へ隠す。カシアンは私を見たものの、何も言わずに残りの資料を拾い集めて手渡してくれた。


 続いて私の顔を見つめ、眉根を寄せる。


「すまない……君に大きな負担を背負わせたな」


 カシアンの指先が目の下に触れ、肌をひと撫でする。手が離れると、私は触れられた場所を手の甲で擦った。


「平気だよ。どのみち、誰かがやらなきゃいけないことだから」


 カシアンは何か言いかけた口を閉じ、ひと息つく。


「今夜、俺の部屋へ来てほしい」

「……えっ? な、何を急に言い出すの!? 夜に王子の部屋なんか行って、変な噂でも立ったら……!」

「確かに、今はまだまずいな」


 彼は顎へ手を添え、視線を上げる。


 ――今はまだ。


 その言葉が引っかかるより先に、カシアンは続ける。


「だが、鳥になればいいだろう。服も用意しておく。君にぜひ見せたいものがある」


 遅れて、頭の先まで熱が駆け上がる。


 ――夜に、部屋へ。


 二つの言葉が頭の中で勝手につながる。ベッドに畳まれた服。背後で扉が閉じる音。その先に起こる、何かまで。


 私はぶんぶんと首を振った。


「そ、それなら……仕方ないね。ほんの少しだけ。顔を出すだけだから……」


 返事を聞いたカシアンは口元に笑みを浮かべ、来た道を引き返していった。


 さっきまで、書庫へ向かって歩いていたはずなのに。



***



 結局、部屋へ戻ってからも眠れなかった。


 もう少しだけ進めてから寝よう。そう考えているうちに、窓の外は暗くなっていた。


 約束の時間を迎える頃には、指先一つ動かすのもつらかった。全身に重りでも吊るされたのか、座っているだけで息が上がる。


『アリア……最近、身体が重すぎるよぉ……』

「今は仕方ないって言ったでしょう。みんな大変なんですから、クロノア様も耐えてください」

『うえぇ……』


 鳥の姿に変わり、窓から夜空へ飛び立つ。


 城壁の外は、今も見渡す限り灰色の雪に覆われたままだ。東の彼方には、月明かりまで呑み込む黒い海が広がっている。


 さほど飛ばないうちに、カシアンの部屋の窓が見えてくる。


 ベッドと机、卓が一つずつ。目を引くものといえば、壁際に並べられた二枚の真新しいキャンバスくらいだ。


 私が入るなり、机に向かっていたカシアンが、読んでいた本をさっと引き出しへ押し込んだ。


「来たか」


 窓辺では、ソリアが餌をついばんでいる。


『おお、これは!』

「クロノア様、駄目ですって――」


 言い終える前に、身体がひとりでに前へ進む。最近はクロノアの意志が強くなり、こうなると抵抗さえできない。


 ソリアの隣へ降り立ち、並んで穀粒をついばむ。


 カシアンがこちらを眺め、声を立てずに笑う。


 お腹いっぱい食べたあと、ベッドの上へ降り立ち、人の姿に戻った。


 何も言わずとも、カシアンは壁へ向き直り、着替えが終わるのを待ってくれた。


 ベッドには、服が一式揃えてあった。表地には滑らかな絹、裏地には柔らかな毛皮が使われ、背中には翼を通す穴が二つ開いている。


 その下には、下着まできれいに畳まれている。


「……これ、全部どこで用意したの……?」

「仮にも一国の王子だ。君の服一着くらい用意できる」


 着替えを済ませ、襟元を整えて座り直す。胸の鼓動が速くなる。


「それで……何の用なの? 見せたいものって?」

「絵を描こう。城内で上等なキャンバスを見つけた」


 彼は一枚を私の前へ運び、もう一枚を自分の側に置いた。それから机の引き出しを開け、以前プレゼントした色鉛筆を取り出す。


「このところ研究ばかりだろう。急いでいるのは分かる。だが、人は時折、頭を空にする必要がある。そうでなければ、新しいものも入らない。何かあっても、責任は俺が負う。心配するな」


 キャンバスへ目を落とした。布目は細かく、指で押すと張りを保ちながらも柔らかく受け止めてくれる。


 思わず乾いた笑いが漏れた。


「……なんだ。絵か」

「何か言ったか?」

「ううん。何でもない」


 色鉛筆を手に取る。絵を描くのは久しぶりだった。


 一本目の線を引くと、指は迷いなく進む。二本、三本と重ねるうち、もう止まらなくなっている。頭を埋め尽くしていた数式が退き、代わりに色が満ちていく。


 描いたのは、夜の翠蓋樹海すいがいじゅかい。空を幾重にも覆う巨大な葉と、隙間から斜めに差し込む光。月を映した小さな湖。そして水辺に座る、二人の影。


 夢中で手を動かしている途中、顔を上げた。


 カシアンの手の甲には痣がいくつも浮かび、人差し指の脇は皮膚が剥け、まだかさぶたさえできていない。


 色鉛筆を握る指から力が抜ける。


 カシアンが唐突に口にした。


「ありがとう」

「何が?」

「薬草だ。毎晩、薬草を煎じたスープが食事に添えられている」


 危うく色鉛筆を落としかけた。


「ど、どうして……私だって分かったの?」

「俺の症状を知る者は、カエレン兄上とユリアンヌ姉上だけだ。二人とも、ああいうものを黙って届ける性格ではない」


 彼はキャンバスへ目を向けたまま、話を継いだ。


「先日、姉上の部屋を訪ねたそうだな。何か、きついことを言われなかったか?」


 私は再びキャンバスへ色を重ねた。


「ううん。何も言われてないよ。お茶を飲んで、盤上遊戯をしただけ。それだけだから……」

「そうか」


 カシアンは、それ以上尋ねなかった。




 絵が完成した。


 カシアンは私のキャンバスを覗き込み、短く感想を口にする。


「見事だ。やはり、君は絵がうまいな」

「ありがとう」


 私も彼のキャンバスを覗いた。


 極光京きょっこうきょうの夜の海が描かれている。城壁の向こうから黒い波が押し寄せ、その上を長いオーロラが渡っている。波頭には淡い光が宿り、暗い海でありながら冷たさばかりを感じさせない。


 海の上には、何羽もの鳥が飛んでいた。浜辺には、小さな二人の人物が背中を合わせて座っている。顔は描かれていない。ただ、一人は黒い髪で、もう一人は白かった。


「明るくなったね……」


 口にしてから、はっと唇を押さえる。


 カシアンは色鉛筆を置き、こちらを向く。


「何が明るくなった?」

「えっと……色合いが? 前はもっと暗かったというか……。もちろん、あれもすごく素敵な絵だったと思うけど!」


 早口で付け加えると、カシアンは自分の絵を眺めながら頬杖をつく。


「そうか……?」


 逃げるように視線を逸らした。その先で、卓上に置かれた物が目に留まる。


 厚い布を折り重ねて作られ、両脇には耳へ掛ける紐がついていた。


「ところで……ねえ、カシアン。あれは何?」


 カシアンが手に取って見せる。


「これか? フレイヤにもらったものだ。セドリックの咳がひどくてな。口の乾燥を防ぐため布を巻いたところ、息苦しいと言われたらしい。それで作ったそうだ」

「なんで、それをカシアンに……?」

「俺にフレイヤの考えることが分かるものか。廊下で顔を合わせるなり、嬉しそうにひとしきり自慢して、そのまま押しつけていった。昔からそういう子だろう」


 その光景を思い浮かべ、くすくすと笑った。


 だが、ふいに笑いが止まる。


「待って……それ、私にも見せてくれる?」


 受け取った布を耳へ掛けてみる。顔と布の間には空間があり、普通の布と違って肌に張りつかない。


 口元を覆ったまま動きを止める。


「……これだ」


 布を外し、掌の中で強く握る。


「今まで、浄化布ピュリファ・ヴェールそのものにルーンを刻もうとしていたから駄目だったんだ。浄化のルーンは空気以外、触れたものを何でも浄化する。黒雪も、埃も、湿気も。だから休む間もなく働き続けて、半日で焼き切れていたの」


 カシアンは首を傾け、私を見返す。


 布を裏返し、内側の空間を確かめながら話を続ける。言葉が考えに追いつかず、声が次第に速くなる。


「でも、こうして口元を覆う器を作れば、中に空間ができるでしょう? ここを層に分けて、別々のルーンを刻める!」


 内側を指で順番に示していく。


「一層目には弱い風のルーンを置いて、吸い込んだ空気を一方向へ回転させるの。黒雪の粒子(りゅうし)は空気より重いから、流れについてこられず、外側へ弾かれて壁に張りつく。軽い空気だけが、中央を通って口へ届く」


 手が勝手に動きだす。キャンバスを裏返し、色鉛筆で図案を描き始める。


「次に、内壁へ浄化布を張る。そうすれば、布は壁に集まった黒雪だけを浄化すればいい。湿気も埃も相手にしなくて済む。負担が何分の一にも減れば、効率はその分、何倍にもなる!」


 カシアンは何も答えなかった。向かいに座って頬杖をつき、穏やかな笑みを浮かべて私を見ている。




 長いあいだ図案を描き続け、顔を上げたときには、腕時計の針が午前二時に差しかかっていた。


「ごめん。図案ばかり描いて……。もう帰らないと――」


 言葉の途中で、視界が大きく回る。指先の感覚が消え、色鉛筆が床へ落ちる。


「アリア!」


 名前を呼ぶ声が、ひどく遠くから聞こえた。



***



 目を覚ますと、全身を布団で幾重にも包まれていた。


 息を吸えば、覚えのある香りが鼻をかすめる。若木の樹皮に似た、ほのかに甘い香り。


 ここがどこなのか、すぐに分かった。


 上体を跳ね起こして辺りを見回すと、机に向かう彼の背中が見えた。


「起きたか」


 カシアンは机から目を離さない。


 私は片手で目を擦った。


「カシアン……ごめん。いつの間にか寝落ちしてて……」


 カシアンは椅子から立ち、ベッドまで来ると、何かを差し出す。


 掌ほどの大きさをした、木製の器具。


 鼻と口を覆う半円筒(はんえんとう)が前方へ膨らみ、顔に触れる縁は内側へなだらかに削られている。指でなぞっても、引っかかる場所は一つもない。両脇には紐を通す穴が開き、内部の空洞(くうどう)を囲む形で、布を差し込む浅い(みぞ)が彫られていた。


「試しに作ってみた。ルーンを刻むなら、平らな面がいいと言っていただろう。それで木を使った」


 器具を受け取った。


「……これ、一人で作ったの?」

「図面を描いたのは君だ。俺は木へ写したにすぎない」


 蓋を開け、内部を覗く。


 空洞の周囲には、ルーンを刻む面が層ごとに分けられている。


(最も内側へ風のルーンを刻み、少量の魔力を流す。その外側の溝へ浄化布を差し込めば……)


 目を見開いて彼を見ると、カシアンは用意していた鉛筆を差し出す。


 すぐに鉛筆を握り、ルーンを刻み始めた。



***



 最後のルーンを書き込み、鉛筆を机へ置いた。


「できた……! 計算どおりなら、これで三日はもつ。うまくいけば四日も……!」


 満面の笑みで完成品を渡すと、カシアンは刻まれた術式を上から下まで何度も確かめる。


「……すごいな。だが、これは何と呼ぶ? もう浄化布ではないだろう」

「浄化……具。そう、浄化具マスク!」

浄化具マスクか。よい名だ」


 私はベッドの上で身を弾ませる。


「早く、みんなに知らせないと――」


 声が止まる。


 窓から橙色の朝日が差し込んでいる。腕時計を見ると、午前六時。クロノアの声も聞こえない。


 鳥の姿を頭に浮かべる。


 何も起こらない。


「……やばい」

「どうした?」

「もうすぐリーゼが朝食を持ってくる時間なの! この部屋から出るところを誰かに見られたら、大変なことになる……!」

「鳥になればいいじゃないか。浄化具は俺が届ける」

「駄目……鳥になれるのは、夜だけなの……」


 布団の端を握りしめ、動かない足へ目を落とす。車椅子もない。


 廊下から足音が聞こえてくる。


 カシアンが顔をしかめる。


「はあ……兄上か……」

「は……?」


 急いで隠れ場所を探す。衣装棚は狭すぎる。机の下は、運悪く扉の真正面だ。


 足音が迫る。


 視線をあちこちへ走らせていると、カシアンはベッドへ上がり、私の隣に腰を下ろす。肩に腕を回され、身体が固まる。


「失礼する」

「え?」


 彼は布団をめくると、私を抱えたまま扉に背を向け、横向きに寝転ぶ。私を胸元へ引き寄せ、頭まで布団をかぶせる。


 ばんっ。


「カシアン、朝の鍛錬だ! ……何だ、寝坊か?」

「兄上……私にも休息は必要です」


 そのあとの会話は、何一つ耳に入らなかった。耳の奥で鳴り続ける心臓の音が、すべてを押し流していた。


 翼に触れる硬い胸板。服越しに伝わる体温。


 熱が羽の一本一本へ染み込み、翼の付け根から背骨へ、さらに頭の先から爪先まで一気に駆け抜ける。


 肩に置かれた大きな手が、すぐ目の前にあった。それを呆然と見つめる。手の甲の(あざ)も、剥けた皮膚も、硬いたこも、何もかもがはっきり見える。


 扉の閉まる音がして、布団が取り払われた。


 カシアンが私を見下ろす。


 口を半分開けたまま、ぼんやりと彼を見上げることしかできない。


「何を呆けている。俺が背負って部屋まで送る。もうすぐ侍従(じじゅう)たちが清掃(せいそう)を始める時間だ。急ぐぞ」

「ひっく」


 喉から、しゃっくりが飛び出す。


 こうして私は、数日ぶりにカシアンの背へ負ぶわれ、浄化具を片手に抱えたまま、大急ぎで部屋へ戻った。


 しゃっくりは、リーゼが運んできた朝食を食べ終えるまで止まらなかった。

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