76話「駒」
案内されたのは、ユリアンヌ殿下の居室だった。
造りは私の部屋と大差ない。ただ、窓辺の小卓に乾いた花を盛った皿が置かれ、ほのかな香りが室内を満たしている。
その卓の前まで進み、車椅子を止める。膝の上で重ねた両手を、落ち着かずに擦り合わせる。
ユリアンヌ殿下は小さな茶器へ茶を注ぎ、その一つを差し出した。会議室で見せていた無表情は消え、目元が穏やかに弧を描いている。
「王都でしたら、もっときちんとおもてなしできたのですが。申し訳ありません、オルネン卿」
「とんでもありません! お茶までご用意いただいて……」
肩をすぼめ、両手で茶器を受け取る。ユリアンヌ殿下は書き物机から小さな盤を取り上げ、胸に抱えたまま私の向かいへ腰を下ろした。
まっすぐな黒髪が肩を滑り、白い頬の脇へ流れる。盤が卓上へ置かれるまで、私の目はその横顔を追っていた。
「あなたを初めてお見かけしてから、もう何年になるでしょうね」
「ユリアンヌ殿下にお目にかかるのは、今日が初めてだと思うのですが……」
彼女は楽しげに口角を上げ、茶器を手に取る。
「そうでしょうね。オルネン卿は覚えていないでしょう。カシアンが入学した年、入学式で学院代表の挨拶をしたのは私なんです。そのとき、一度お見かけしました」
「……ああ!」
記憶の奥から、壇上に立っていた女性の姿が蘇る。
周りの男たちと変わらないほど背が高く、背筋もぴんと伸びていた。私は講堂の最後列にある通路で車椅子に座り、首が痛くなるまで彼女を仰ぎ見ていたのだ。
「まさか、あの方が殿下だったなんて……。気づかず、申し訳ございません」
「気にしないでください。あのときは、互いにすれ違っただけですから」
ユリアンヌ殿下は茶器を卓上へ戻した。
「それより、お母様のことは本当に残念でした」
茶器を包む指に力がこもる。
「……お気遣い、ありがとうございます」
「いけませんね。せっかく二人で話しているのに、暗い話をしてしまいました」
彼女は片手を振り、話題を切り替えた。
「オルネン卿では、少し堅苦しすぎますね。同じ学院の先輩と後輩でもありますし、お名前で呼ばせてもらっても?」
「はい。もちろんです」
「では、リアにしましょう」
「……リア?」
「ええ、リア。可愛い愛称でしょう? あなたも『殿下』ではなく、『ユリアンヌ様』でいいですよ」
晴れやかに笑う端正な顔へ、私をププと呼ぶカシアンの面影が重なる。私は口元へ無理に笑みを作る。
「……はい。ユリアンヌ様」
「よろしい」
ユリアンヌ様は、卓上の盤へ片手を載せた。
「これは知っていますか?」
「はい。霧嵐公国から伝わった、チェスという遊戯ですよね」
「できますか?」
「少しなら……」
「では、一局打ちましょう。王が死ねば負けです」
盤を回し、白い駒を私の前へ並べる。
使い込まれた木製の盤だ。黒い升目は漆を塗られて光り、白い部分は年月を経て黄色く褪せている。
「先手はリアに譲ります」
「……ありがとうございます」
前列の兵士を二マス進める。
けれど、長くは持たなかった。取れそうな駒へ手を伸ばせば、その先で別の駒が待ち構えている。逃げ道を求めて動かしても、移した先まで彼女の駒に塞がれていた。
十手ほど進んだ頃には、私の王は兵士たちに囲まれ、行き場を失っていた。
「完敗です……」
「ふふ。もう一局しましょう」
二局目は、序盤からおかしかった。
ユリアンヌ様は早々に王の守りを崩し、一つの兵士を守るためだけに、王を盤の中央へ進ませていく。私が兵士へ駒を寄せるたび、王を逃がすのではなく、その守りへ回した。
王を詰めてよいのか迷い、何度か手を緩めた。けれど、偶然にしては同じ手が続きすぎている。
兵士を庇ううちに退路を失った王は、盤の中央へ一人取り残された。私は最後の一手を置く。
「……勝ちました」
ユリアンヌ様は指先で王を倒し、拍手する。
「私の負けですね。お見事です」
返事ができない。
私が見つめていたのは、最後まで盤上に残った彼女の二つの駒だけ。横倒しになった王と、その背後で無傷の兵士。
喉の奥が冷える。
「何を……お伝えになりたいのですか、ユリアンヌ様」
彼女は満面の笑みを崩さない。
「やはり察しがいいですね」
無傷の兵士を指でつまみ上げる。
「リア。カシアンから離れてください」
唾を呑み込み、聞き返す。
「……急に、何のお話ですか?」
「今の状況だからこそです。先ほどの会議で、リアも分かったでしょう。皆の意見をまとめ、進むべき道を示したのはカシアンです。カエレンは優れた戦士ですが、王の器ではありません」
兵士の駒が彼女の指先で揺れる。
「カシアンには、王になってもらわなければなりません。だからこそ、彼に死なれては困るんです」
「彼は死にません」
「ええ。本来なら、怪我をすることも、命を落とすこともないでしょう」
声は変わらず穏やかだ。
「カエレンほどではなくても、あの子も優れた剣士です。いざとなれば、自分の身くらい守れる。そもそも危険を冒す性格ではありませんでした。徹底して理性的で、冷静な子だったんです。お父様が、そう育てましたから」
「…………」
「けれど、リアと関わり始めてから変わりました」
兵士の駒が、細い指の間を行き来する。
「野外授業、地下坑の魔物、今度は翠蘭で闘技試合。一歩間違えれば死ぬ道ばかり選んでいます」
乾いた喉が鳴る。顎を引き、揺れる兵士だけを追う。
「リアのことが、よほど大切なのでしょうね。昔は可愛がっていたインコをお父様に殺されても、目一つ動かさなかった子なのに」
顔を上げ、彼女の目を真正面から捉える。
「それは、どういう……! なぜ、そのようなことを……」
「王となる者に、ささやかな感情は必要ない――お父様は、そうお考えでした」
兵士が盤上へ戻された。
「ですから、彼と離れてください。リアには隠しているのでしょうが、あの子の身体は満身創痍です。地下坑で汚染されて以来、毎日のように血を吐き、鎮痛剤に頼っています。今度は槍で脇腹を貫かれました。紙一重で急所を外れたから、助かっただけです」
目を固く閉じ、もう一度開く。
「それは……命令でしょうか」
「まさか。あくまで、あの子自身が選んだ道です。私には、リアにあれこれ指図する権限もありませんから」
茶器を持ち上げかけた彼女の手が止まる。
「ですが、このままでは遠からず命を落とします。リアも、彼が死ぬのは嫌でしょう?」
膝の上で両手を握っては開く。手のひらは冷たい汗で湿っていた。何度目かに指を開いたあと、顔を上げる。
「それでも、私は彼のそばにいます。もう私のために無茶はさせません。今度は私も、彼を支えられるだけの力を――」
ユリアンヌ様は兵士の駒を指先で押し倒した。盤へぶつかった駒が、硬い音を立てる。
「その力を得るまで、誰があなたを守るのです?」
倒れた駒から目を離せない。
「弱者とは、誰かの犠牲なしには生き延びられない者のことです」
ユリアンヌ様の手が伸び、私の頭をひと撫でする。その指先には、小さな埃が絡んでいる。
「あまり悪く受け取らないでくださいね。私はオルネン家が好きですし、これまで多くの助けを受けてきました」
彼女は指についた埃を払った。
「リアが、あの子に釣り合わないと言っているのではありません。魔力こそ持たないものの、あなたは優秀です。学院では常に首席の座を争い、風力石を見れば、その才能は明らかです。だからこそ惜しいんです。今がこんな状況でなければ……」
そこで言葉を切り、チェスの駒を箱へ収めながら立ち上がる。
「楽しい対局でした。また遊びましょう」
扉まで歩き、自ら開けてくれる。
「会議のあとで疲れていたでしょうに、時間を作ってくれてありがとうございます」
私は頭を下げ、部屋を出た。
背後で扉が閉まった。
廊下に出てからも、しばらく車椅子を動かさずにいた。
――地下坑で汚染されて以来、毎日のように血を吐いている。
何も知らなかった。
何度も背負ってもらい、その背中へ顔を預けていたのに、私は何一つ気づかなかった。
喉の奥から熱いものが込み上げる。それを押し戻し、膝に置いた紙束を手に取った。会議で受け取った、浄化ルーンの図案が描かれた資料だ。
紙を開いたまま車輪を回す。向かったのは自室ではない。
廊下の反対側にある、図書室だ。




