74話「再会」
フレイヤとニアに案内されて客室へ向かう間、私たちは互いの身に起きたことを話した。
セドリックがグリムナル族を連れて領地へ来た際、ソルベルグ伯爵は彼らを快く受け入れたという。今では皆が影鱗族として生まれ変わり、町の一員として働いている。
ただ、ニアの祖母は数日前に亡くなっていた。黒雪が降ってから咳が止まらなくなり、ほどなく息を引き取ったという。その話をするときだけ、ニアは前を向いたまま、尾の先を床へ引きずっていた。
セドリックも到着早々に風邪で寝込み、何週間も咳が治らないため、フレイヤが付ききりで看病している。その知らせを受けたエルハルト侯爵は、付近を通っていた大規模な商隊の積荷を買い上げ、荷馬車ごとソルベルグ領へ向かわせたそうだ。
おかげで雪が降り続き、魔物があふれる今も領内にもともとあった備蓄と合わせれば、一年はしのげるだけの物資が確保されているという。
案内された部屋の前で、フレイヤが足を止めた。
「はい、案内はここまで! 温泉へ行く時間になったら迎えに来るから、それまで休んでて!」
「フレイヤ、今はそんなことをしている場合じゃないよ。オルネン家はどうなったの? お姉様はどこ? それに、カシアン様はどこへ行ったの?」
「もう。アリアのお姉様は別の用事があって、今は城にいないの。カシアン様も、ご家族に会いに行っているだけ。私だって詳しくは知らないよ。明日の朝に会議があるらしいから、そのとき聞いてみて」
立ち去ろうとするフレイヤの手をつかんだ。
「だったら、私もお姉様のところへ行く。どこにいるかだけ教えて」
ニアが私の指を一本ずつフレイヤの手から外す。
「アリア。そんな格好じゃ、どこにも行けないよ。地下にいた頃の私よりひどいもん」
「私が……?」
両手で頬に触れてみる。フレイヤはニアの手を引き、廊下の先へ歩きながらこちらへ手を振る。
「じゃあ、またあとで!」
頬に手を当てたまま、遠ざかる二人を見送る。両手を下ろすと、手のひらが真っ黒に汚れている。
「うわ……最悪……」
ため息をつき、目の前の扉を開ける。
質素だが、手入れの行き届いた客室だ。濃い色の板張りの床に寝台が一つ、その横の窓際には小さな机が置かれている。壁に掛かっているのは、一本の燭台だけ。
部屋の中央では、一人の女が窓を開け放ち、絨毯の埃を払っている。
見覚えのある侍女服。灰色を帯びた翼。艶やかな金髪。
私は敷居の前で車椅子を止め、息を詰めた。
「リ……ゼ?」
女の手が止まる。こちらへ振り返った顔を見て、両手で口元を覆う。
右目から頬へ、深い傷痕が走る。赤みはまだ引かず、右の瞼も固く閉ざされたままだ。袖口から覗く手は生身ではなく、鉄製の義手に置き換わっている。
リーゼは首を傾け、唇に笑みを浮かべる。
「アリアお嬢さま。いえ……今はご当主様ですね。お帰りなさいませ。まだ掃除を終えておりませんので、部屋が片づいていな――」
最後まで聞かずに車椅子を走らせ、彼女の腰へ抱きつく。
洗濯に使う灰汁石鹸の匂い。幼い頃、泣き疲れて眠るたびに鼻先へ届いた、あの匂いと何も変わらない。
「リーゼ……リーゼ……」
口から出てくるのは彼女の名前ばかり。肩が細かく震え、息が大きく途切れる。リーゼは何も言わず、私の髪を撫で続けてくれた。
どれほど泣いていたのだろう。
何度も「座って」と頼んだ末、リーゼは私の向かいへ腰を下ろした。両手を膝の上に重ね、背筋を伸ばしている。
閉ざされた右目から、膝に置かれた鉄の手へ視線を落とす。尋ねたいことはいくらでもある。それなのに、口にすれば今度こそ何かが崩れてしまいそうで、声にできなかった。
「それで……リーゼ以外は、もう誰も残っていないのね」
「はい……残念ながら。領民たちは王都へ避難しましたが、封臣家の方々やほかの侍女たちは、別の家門へ身を寄せるか、戻らないままです。オルネン家をお守りできず、面目次第もございません」
「大丈夫。そうなると思ってたから……。領民のみんなが無事なら、それだけでも本当によかった……」
声が尻すぼみに消えた。
脇に立てかけていた杖を持ち上げ、柄に結ばれたお母様の羽根を見つめる。
「お姉様は今、王家のもとにいるし……オルネン家に残ったのは、私とリーゼだけなんだね」
リーゼが深く頭を下げる。
「この命ある限り、ご当主様をお支えいたします」
「ご当主様なんて呼ばないで。前と同じく、お嬢さまでいいよ」
「それは……」
「リーゼ。あなたをオルネン家の侍女長に任命する。それなら、お嬢さまと呼んでもいいでしょう?」
「……拝命いたします、お嬢さま」
腕時計を見ると、フレイヤと温泉へ行く約束の時間まで、残り十分しかない。窓の外では雲一つない空に、星が一つ、また一つと灯り始めていた。
「それより……リーゼ。私、そんなに汚い?」
「いいえ! お嬢さまが汚いなど、とんでもございません。長旅でお召し物が汚れているだけです」
リーゼは衣装棚へ向かい、一着の服を取り出した。オルネン家の濃紺の長袖礼装だ。
「湯浴みを終えたら、こちらにお召し替えください。ほかのお召し物までは持ち出せず……下着も城で用意されたものですので、少し大きいかもしれません。今夜はこちらをお使いください。明日中には、お嬢さまのお身体に合うよう仕立て直しておきます」
「うん、ありがとう……」
リーゼは礼装と下着を畳み、寝台の上へ順に並べた。
私は一番上の下着を見下ろした。自分の胸元へ目をやり、再び下着を見る。
車椅子を寝台へ寄せて片手で取り上げ、身体の前へ当ててみる。
「…………」
元の場所へ戻し、腕を組んで窓の外を睨む。
リーゼが向かいの席へ戻ったところで、ふと思い出したことを尋ねた。
「そういえば、リーゼ……私から何か匂う?」
「匂い、ですか?」
「うん。匂い」
リーゼが首を傾げたため、こちらから続ける。
「焼きたてのパンの匂い……。これって、やっぱり臭うってことだよね?」
「パンの匂いですか!? いったい誰が、お嬢さまにそんなことを?」
「カシアン殿下が……」
リーゼは目を丸くしたあと、口元を覆ってくすくす笑い始める。
「どうして笑うの……?」
「いいえ、失礼しました……。なるほど、パンの匂いですか。確かに近いかもしれません。香ばしくて、抱いていると眠くなる匂いですね」
袖を鼻先へ近づけて嗅いでみる。けれど、自分では何も感じない。
「結局……匂うんじゃない」
「匂いは誰にでもあります。少なくとも、嫌な匂いを焼きたてのパンに喩える方はいません。きっとカシアン殿下にとって、お嬢さまは、そばにいると安心できる匂いなのでしょう」
「そうなの……?」
扉を叩く音が響き、廊下からフレイヤの声が聞こえた。
「アリア! もう行けそう?」
リーゼの左目が穏やかに細まる。
「行ってらっしゃいませ。髪もずいぶん伸びましたから、白く染め直す準備もしておきます」
「うん。ありがとう、リーゼ。行ってくるね」
寝台の上の服を抱え、車椅子で廊下へ出た。
***
露天温泉は城の裏手、雪をかぶった岩場の間にあった。
粗く削った黒い石を円形に組んだ湯船で、水面から立ち上る白い湯気が、星の浮かぶ夜空へ溶けていく。
フレイヤが裸のまま勢いよく飛び込んだ。
「ひゃあー!」
肩を何度か回し、首まで湯に浸かる。沈む直前に露わになった首筋と鎖骨には、赤い傷と痣がいくつも残っている。
ニアも水飛沫を上げ、フレイヤの隣へ入る。
「ひゃあ! やっぱり温泉って最高!」
「でしょう? ニアは分かってるね。アリアは入らないの?」
フレイヤに呼ばれ、軽くすすいだ髪を頭の上でタオルにまとめた。身体には、湯浴み用の薄布を巻きつけ、まずは両足を湯へ浸す。
初めは、爪先が痺れるほど熱かった。けれど熱が足の甲からふくらはぎへ広がるにつれ、心地よさに変わっていく。
縁の岩に手をつき、身体を沈める。腰まで浸かると、背骨の周りに固まっていた強張りが解けていく。何日も背負われ続けて凝った肩から力が抜け、顎の下まで湯に沈む。
フレイヤとニアが私の前へ寄ってくる。ニアは身体に巻いたタオルを指差す。
「それ邪魔じゃない?」
「……身体に傷痕があるから。見苦しいでしょう?」
フレイヤが口を挟む。
「異端の刻印とかいうやつ? 私たちは全然気にしないから、大丈夫だって。それに、傷なら私のほうが多いんじゃない? ほら」
フレイヤは立ち上がり、両手を腰に当てる。
湯気の薄れた場所に、その身体が露わになる。脇腹から太腿へ走る長い傷。腕には短い痕が幾筋も刻まれている。
私は顔を横へ向ける。
「それでもいいの。私は、このままが落ち着くから」
「ふうん……まあ、アリアがいいなら仕方ないか」
フレイヤは湯へ戻り、ニアを見る。
「そういえばニア、貸した本は全部読んだ?」
「『雪の下で眠る種』? 読んだよ。もう三周目に入ってる!」
「本当に? この間まで、まともに字も読めなかったのに。すごいじゃん」
「読みたくて、夜通し勉強したんだもん」
聞き覚えのない題名に、会話へ割って入った。
「……『雪の下で眠る種』?」
フレイヤが私へ顔を向ける。
「アリアも読む?」
「いい。私、もう小説なんて読まないから」
「ええ~? でも、小説の面白さを教えてくれたのはアリアでしょう? これ、前にアリアが勧めてくれた『灰の中の雲雀』と同じ作者の新作だよ」
その作家の名を聞き、肩が跳ねた。
「本当に読まなくていいの? ニアは読み終わったんだから、アリアに貸してもいいでしょう?」
「もう一回読みたかったけど……アリアなら仕方ないか」
ニアは私へ顔を向け、唇を尖らせた。
私は咳払いを一つし、タオルからこぼれた髪を耳にかける。
「そこまで読んでほしいと言うなら……仕方ないわね」
フレイヤは両手を上げ、肩をすくめた。
「素直じゃないなあ。明日持ってきてあげるから、待ってて!」
私は急いで話題を変えた。
「それよりニア。その……オス、じゃなくて、ユリスさんとはどういう関係なの?」
「ユリス? 私の恋人!」
隣からフレイヤがニアの肩へ腕を回し、にやにや笑う。
「ニアも本当にすごいんだよ。城へ来てユリスを見つけた途端、目を輝かせて――むぐっ!」
「わあっ、待って!」
ニアがフレイヤの口を両手で塞ぐ。フレイヤはその手の間から無理に声を押し出す。
「それで、『私のオスになれ』って――むぐぐっ!」
「駄目! それ以上は言わないで!」
二人のやり取りに、吹き出してしまった。
ニアがこちらを振り返る。耳の先まで真っ赤だ。
「笑ったでしょ! アリアだって同じじゃない! フレイヤから全部聞いたんだから! 学院に入ってすぐ、王子……殿下を見て『かっこいい』って、色鉛筆を渡しに行って振られたんでしょ!」
「は……?」
無言でフレイヤへ顔を向ける。
「あ……いや、違うの、アリア」
「フレイヤ」
「ま、待って! あれは昔の――」
言い終わる前に、両手ですくった湯を彼女の顔へ浴びせた。
「最低! 誰にも言わないって約束したでしょう!」
「だって、もう何年も前の話じゃん!」
フレイヤも両手で湯をすくい、こちらへ投げ返してくる。水飛沫が四方へ散り、間に挟まれたニアが悲鳴を上げる。
「ちょっと待って、どうして私まで! 私は何もしてないってば!」
湯気の立つ湯船で、水飛沫が何度も飛び交う。星明かりの揺れる水面に、三人の笑い声が長く重なっていた。




