73話「極光京」
地下坑を抜けると、見渡す限り影に沈んだ森が広がっていた。
細い光は差し込んでいる。だが頭上では、果ての見えない巨木が枝葉を重ね、空を丸ごと覆い隠していた。翠蘭の翠蓋樹海とは違い、樹皮はどれも濃い褐色で、幹に絡みついた太い藤蔓が天を目指して伸びている。
湿った苔と針葉樹の匂いが、冷気とともに鼻を刺す。
カシアンの背で腕時計を確かめる。午後一時。まだ昼の盛りだ。
「初めて来たけど、思っていたよりずっと暗いね……。黒藤樹海って、本当に名前のとおりなのね」
「ああ。空を覆う木々に藤が絡み、闇を生むことからついた名だ」
そう答えながら、カシアンは肩にとまっていたソリアを片手へ移した。
「トト、ここにいては危険だ。先にソルベルグ領へ行っていろ」
腕を空へ掲げると、ソリアは純白の翼を広げ、北――ソルベルグ領の方角へ飛び去っていった。
私たちは樹海の奥へ進んだ。
地面は固く凍りつき、カシアンが足を下ろすたび、霜をかぶった草がぱりぱりと砕ける。さほど歩かないうちに寒さが身体の芯まで染み込む。
カシアンの肩へ頬を押しつけ、寒さに身を縮めていると、彼は荷包みから毛布を取り出し、私の肩から足元まで巻きつけてくれた。
背負い直して歩き出そうとしたところで、前方に二つの人影が現れた。
一人は鉄の鎧をまとった体格のいい男。金髪で、頬には薄いそばかすが散っている。年は私よりいくつか上に見える。
隣には、丸い金色の瞳を持つ少女が立っている。顔立ちにはまだ幼さが残り、きれいに切りそろえられた褐色の髪が肩先で揺れる。背後からは、爬虫類を思わせる長い尾が伸びていた。
カシアンの手が鞘へかかったのと同時に、少女が満面の笑みを浮かべて駆けてくる。
「アリア!」
私の横へ回り込み、銀色になった髪を指先でもてあそぶ。
「本当に会いたかった! この髪どうしたの? 染めたの? 白い髪も綺麗だったのに……」
「ニ、ニア……!?」
目を見開く。以前よりずっと身なりが整っているだけで、よく見れば確かにニアだ。
「うん、ニア! 友達の顔を忘れちゃ駄目でしょ!」
「だって……前とは雰囲気が全然違ったから。ごめん、気づけなくて……」
鎧姿の男がこちらへ近づき、カシアンの前で姿勢を正した。
「オルネン伯爵閣下と……カシアン王子殿下でいらっしゃいますか?」
「そうだ。お前は?」
男はニアの手を取って私から引き離すと、片膝をついた。ニアも慌ててそれに倣い、横目で私をちらりと窺う。
「極光京の兵士、ユリス・ハルデンと申します。転相日以降、グランデル公爵家の反乱を逃れた避難民が地下坑を通って来るため、この一帯を巡回しております。事情は伺っていましたが……ご無事で何よりです」
カシアンはユリスを見下ろしたまま、聞き慣れない言葉を繰り返した。
「転相日……?」
「はい。王都全域が黒雪に覆われた、あの日のことです。以来、皆が転相日と呼んでいます」
「なるほど。それで暦まで転相暦と改めたのか」
カシアンは短く息を吐いた。ユリスの胸元に刻まれた、波をかたどるソルベルグ家の紋章へ目を留め、鞘にかけていた手を下ろす。
「事情は分かった。顔を上げて立て。この状況で形式にこだわる必要はない。ここまで巡回に出ていたのだな。ご苦労だった」
ユリスとニアが立ち上がる。ニアがこちらへ笑いかけてきたので、私も笑みを返した。
「では、極光京までご案内いたします。オルネン伯爵閣下は……よろしければ、私がお運びいたしましょうか」
「必要ない。アリアは俺が背負う。案内を頼む」
「はい」
ユリスがニアへ頷くと、彼女の丸い瞳が淡い黄金色の光を帯びた。
魔力の織りを色として読み取る、影鱗族の眼。
ニアが先頭に立ち、迷いのない足取りで歩き出す。
「この周辺には、黒雪の影響で汚染された場所が点在しています。影鱗族の眼なら判別できますので、彼女の後を進めば安全です」
カシアンが先を行くニアに尋ねた。
「ほう。黒雪に汚染された場所は、どのように見える?」
「うーん……何て言えばいいんだろう。色がないの。どんなに小さなものにも、本当なら色があるはずなのに、黒雪が通った場所だけは何の色もな――」
ユリスが横から、ニアの袖を二度引いた。
「ニア……敬語、敬語……!」
「あっ……何の色もありません。王子、でん……か?」
カシアンは頷いた。
「色がない、か。分かった。先を急ごう」
それから私たちは足を止めず、黒藤樹海を進み続けた。
***
樹海を抜けると、灰色の雪に覆われた平原が現れた。カシアンはミハイルから受け取った白い布を私の口元へ巻き、自分も同じように鼻と口を覆った。
ニアに従って幾度も迂回し、私たちの目には映らない汚染区域を避けて進む。日が傾き始めた頃、ようやく前方に巨大な城壁が見えてきた。
灰色の石を幾重にも積み上げた壁。
その輪郭には、かすかな見覚えがあった。幼い頃、一度だけ訪れた街。
極光京だ。
城壁の前まで来ると、衛兵たちが槍を構えて行く手を塞いだ。ユリスが二言三言説明した途端、衛兵たちはカシアンの前へ膝をつき、声を震わせた。カシアンは表情を変えず、手振りだけで立つよう命じる。
城門が開き、中へ足を踏み入れる。街には、冷たく湿った潮気と、乾ききった海藻の臭いが入り交じっている。
王都ほど大きくはないものの、よく整えられた都市だった。雪を掻いた跡が等間隔に延び、白い建物が規則正しく並んでいる。街の中央に建つ居城も、城というには低く、周囲の建物の二倍ほどの高さしかない。
ただ、通りを歩く者は少ない。誰もが足早に過ぎ去り、すれ違ってもこちらへ長く目を留めようとはしない。窓を板で塞いだ家もいくつかあった。
カシアンが立ち止まり、雪に沈んだ街並みを見渡した。
「道中もそうだったが、どこも雪に覆われているな。これも黒雪の影響が大きいのか」
「はい、殿下。極光京も本来、この時期に雪は降りません。降り始めたのは転相日からです」
ユリスが答えると、別の鎧姿の兵士が、褐色の髪を無造作に切った少年を連れて近づいてくる。
ニアと瓜二つの丸い瞳に、爬虫類の尾。ただし、こちらは目鼻立ちが一段と端正だ。
私は目を細め、その顔つきから体格まで念入りに確かめてから、口を開いた。
「……ノ、ノア……?」
私の声には答えず、ニアがノアのもとへ行って肩に手を置いた。
「気をつけて行ってきてね、ノア」
「ノア、気をつける。ニア、心配するな」
ユリスともう一人の兵士が短く言葉を交わす。話が済むと、ノアはその兵士と共に城門へ向かった。途中で一度だけ振り返り、私へ頭を下げてから再び歩き出す。
ユリスが戻ってきて、先へ手を向ける。
「それでは、領主城までご案内いたします。それと……長い道のりを来られて、お疲れでしょう。私が代わって、アリア様をお背負いしたほうがよろしいでしょうか」
「必要ない。二度言わせるな」
「……承知いたしました」
ユリスは頭を下げ、前へ戻った。
進みながら、カシアンの手へ目を落とす。袖口から出た手の甲が、寒さで赤くかじかんでいる。
私は身体に巻かれた毛布を引き寄せ、その端を彼の肩まで掛けた。
ほどなく居城へ辿り着く。
居城の石壁はところどころ黒く変色し、下部は角が削れて丸みを帯びている。古い壁の隙間には、補修に使われた白っぽい石が点々とはめ込まれていた。
ユリスが門番へ何か告げると、門番は血相を変えて城内へ駆け込んだ。ほどなくして、一人の男が姿を現した。
濃い金髪を短く整えた、四十代ほどの男。目元には薄い皺が刻まれ、顎に沿って生えた髭も乱れなく手入れされている。厚い毛皮をあしらった冬用の外套を着ていても、その下にある頑健な体格は隠せていない。
まだ視線すら向けられていないのに、背筋が勝手に伸びる。
ソルベルグ伯爵家当主、グンナル・ソルベルグ。剣神と呼ばれる、フレイヤの父親だ。
その後ろには見慣れた顔が並んでいる。フレイヤと彼女の母親、それに妹たち。
五歳ほどの女の子がカシアンを見つけ、指を差した。
「あっ! お茶会で会った、かっこいいお兄ちゃんだ!」
「リティ! 静かに!」
母親が慌てて娘の名を呼び、口元へ人差し指を立てる。
カシアンは動じることなく、淡々と答えた。
「茶会で会った子だな。元気そうで何よりだ」
ソルベルグ伯爵が歩み寄り、片膝をついて礼を取る。
「ご無事で何よりです、殿下。このような遠方まで足を運ばせてしまい、申し訳ございません。陛下のお側でお守りできなかったことも、痛恨の極みです」
ソルベルグ伯爵は深く頭を垂れた。
「ソルベルグ家は、いかなる時も王家と共にあります。どうぞここを、ご自身の城と思ってお過ごしください」
「感謝する、ソルベルグ卿。世話になる」
「カエレン殿下とユリアンヌ殿下もお待ちです。中へご案内いたします」
ソルベルグ伯爵が私へ顔を向ける。背後のフレイヤは両手を胸の前で握り、何度も踵を上げ下げしている。
「オルネン伯爵。オルネン家の新たな当主として、礼を尽くしてお迎えいたします。とはいえ、私より気安く迎えられる者がいるでしょう」
彼は後ろを振り返った。
「フレイヤ。くれぐれも失礼のないよう、おもてなししなさい」
「はい、お父様!」
フレイヤが勢いよく頭を下げる。
そこへ一人の従者が、何かを押してきた。私の魔導車椅子だ。別の従者も絹張りの厚い外套を二着運んできて、無駄のない手つきでカシアンと私の肩へ掛ける。
カシアンが私を抱き直し、車椅子へ慎重に下ろす。
「行ってくる。長旅で疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」
「はい、カシアン殿下」
頭を下げると、カシアンの口元が緩む。
「まだ聞き慣れない呼び方だな」
そう言い残して表情を引き締め、ソルベルグ伯爵と共に城内へ入っていった。伯爵夫人とフレイヤの妹たちも後に続く。
彼らの姿が扉の奥へ消えるなり、フレイヤが駆け寄ってきた。
「アリア!」
「フレイヤ……! ちょ、ちょっと!」
首へ両腕を回され、力いっぱい抱き締められる。片肘で押し返してみたが、びくともしない。
「その髪、どうしたの? 染めたの? それより、すごく具合が悪いって聞いたけど、もう大丈夫なの?」
「う、うん。もう大丈夫だから……それより、ちょっと息が苦しい……」
傍らでは、ユリスがニアへ穏やかに笑いかけていた。
「それじゃあ、ニア。僕は仕事へ戻るよ」
「えっ? 私も行く!」
「久しぶりに大切な人たちと会えたんだろう? 仕事は僕に任せて、ゆっくりしておいで」
ニアは頬を赤らめ、嬉しそうに笑った。
「うん……ありがとう。この前みたいに、怪我して帰ってきちゃ駄目だからね。絶対だよ」
私を抱き締めたまま、フレイヤが遠ざかるユリスへ手を振り続けるニアを見て舌を鳴らした。
「ちぇっ。羨ましいな~ いいな~」
ニアは指で得意げにVサインを作る。
「でしょ~? 私のオスって、最高なんだから!」
そのとき、くしゃみが一つ出た。肩が勝手に縮こまる。
「それよりニア、仮面は……? グリムナル族って、みんな仮面をつけるんじゃなかった?」
ニアは両手をぶんぶん振る。
「グリムナル族だなんて! 私たちは影鱗族として生まれ変わったんだよ。仮面だって、もうつけない!」
フレイヤがやっと身体を離し、私の車椅子を押して城内へ向かった。
「それより、冷え切ってるじゃない。まずは中に入ろう」
「うん。でも、どうして私の車椅子がここにあるの?」
「これ? アリアのお姉様が持ってきたの! 聞きたいことが山ほどあるでしょう? 私も話すことがいっぱいあるの。セドリックったらね――」
懐かしい声を聞いているうちに、頬が緩んだ。私は誰にともなく囁く。
「なんだか……懐かしいな」
「ん? 何か言った?」
「ううん。早く中へ入ろう。寒いよ」
フレイヤに車椅子を押され、城の中へ入っていった。
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いつもお読みくださっている皆さま、作者のうめ紫蘇です。
私の確認不足により、一部表記を誤っていた箇所がありましたので、訂正いたします。
カシアンがソリアを呼ぶ際の呼び名は、「ソリア」ではなく「トト」です。
「ソリア」はクロノアとアリアが呼んでいる精霊としての名前で、カシアンは愛称の「トト」で呼んでいます。私がうっかりして、一部で表記が混同しておりました。該当する過去話は、すでに修正済みです。
混乱させてしまい、申し訳ございません。
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いつもありがとうございます!




