72話「友達?」
ランプを持つ手首が痺れてきた。指の関節までこわばり、何度も握り直す。腕時計へ目を落とすと、もう夜の十時を過ぎている。
カシアンの呼吸も荒い。数歩進むたび、背中の私を背負い直している。
「今日はここで休まない? 私、重くない……?」
「重いどころか、羽根より軽いくらいだ」
それだけ答えて、再び歩き出す。諦めずにもう一度声をかける。
「ちょっと休もうよ。もう遅いし、私も疲れた……」
そこで初めて足を止め、壁際へ私を下ろした。
カシアンは腕時計を確かめ、魔力石ランプの光を弱めて足元に置いた。向かいの壁にもたれて腰を下ろすと、ずっと私の頭に乗っていたソリアが、彼の肩へ飛び移った。
「そうだな。確かに遅い。君も疲れただろう。先に休んでくれ。朝になったら起こす」
差し出された毛布を受け取り、丸めて枕にする。背中に括りつけていた杖も外し、手の届く場所へ置いた。
カシアンは座ったまま、ミハイルから受け取った包みを丁寧に解いた。中へ手を入れ、一つずつ品物を取り出していく。
最初に出てきたのは、学院で私が贈った色鉛筆。次は、青い鳥の刺繍を施して渡したハンカチ。今も汚れ一つなく、真っ白なままだ。
続いてスケッチブック。それから、異なる鳥の羽根を収めた小瓶が数本。
カシアンはそれらを地面へきれいに並べると、空になった包み布を広げた。荷袋から干し肉と穀粒を取り出し、穀粒だけを布の上へ載せる。
ソリアが布の前へ降り、さっそく餌をついばみ始める。
カシアンが人差し指を伸ばすと、ソリアは嘴を開き、その先を軽くつつく。
そのやり取りを眺めていると、カシアンがこちらを向く。
「……君も食べたいのか?」
勢いよく上体を起こした。
「まさか! 私は人間だから!」
「鳥でもあるだろう」
「それは……そうだけど……」
彼は口元を緩め、紙包みから干し肉を一つ取り出して差し出した。
「寝る前に食べるのは感心しないが……腹が減っているだろう。これでも食べてから寝るといい」
「……ありがとう」
受け取った肉を噛んでみたが、硬すぎて歯が立たない。前歯で何度も引っ張った末、諦めて顔をしかめる。
カシアンが近づき、口にくわえていた肉を取り上げる。
「まったく、これ一つ食べられないのか。ソリアより手がかかるな」
細く裂いてから、改めて渡してくれた。
口へ入れると、今度はきちんと歯が通る。噛むたびに塩気が染み出し、舌の上へ広がる。
カシアンも一切れ取り、黙々と噛み始める。
「アリア。君はソルベルグ領の極光京へ行ったことがあるか?」
「一度だけ。幼い頃だったから、あまり覚えていないけど……」
「とても美しい街だ。東には広大な海があり、霧嵐公国との交易も盛んだ。冬になれば、空にはオーロラがかかる。それは見事だぞ」
「……見てみたいな」
そう答えて、彼の手へ視線を落とした。
声は落ち着いている。けれど、干し肉をつまんだ指は何度も曲がっては伸び、空いた手も膝を細かく叩いては止まる。
餌を食べ終えたソリアが、カシアンの肩へ戻ってくる。彼は包み布を払い、並べていた品を収めて結び直すと、それを枕代わりに横になる。
「さあ、今度こそ寝よう」
「うん……分かった。おやすみ」
カシアンが目を閉じたあとも、しばらくその顔から目を離せなかった。
続いてソリアへ顔を向けた。気づけばカシアンの腹の上に乗り、眠たげに何度もまばたきをしている。
(やっぱり、あのとき見たものは幻だったのかな……)
腹が満たされたせいか、まぶたが重く沈んでいく。全身から力が抜け、意識は暗闇へ溶けていった。
***
目を開けると、魔力石ランプが淡い光を放っていた。その横では、ソリアが包みの上に座り、片脚を羽毛の中へしまって眠っている。
カシアンの姿がない。
「カシアン……?」
一気に目が覚め、上体を起こす。辺りを見回しても、前後へ伸びる長い闇しかない。
腕時計は午前三時を指している。
「クロノア様、クロノア様! カシアンがどこへ行ったか分かりますか?」
『う……ん、おはよ……』
「もう、一日中寝てばかりで何なんですか、本当に!」
『ええ……? どうして急に怒るの、アリア……』
答える代わりに、地面を這って先へ進んだ。けれど、でこぼこした土に服が何度も引っかかり、肘を石へぶつけるたびに腕が痺れた。
「どこへ行ったの……?」
手紙に書かれていた言葉が、一つ一つ頭をよぎる。水鎧百足に私が傷つけられたあと、手が裂けるまで剣を振り続けていた彼の背中まで、鮮明に浮かんでくる。
鼓動が一気に速まる。
青い鳥へ姿を変え、地面を蹴る。暗い通路を羽ばたいて進むと、ほどなく壁へ背を預けて座るカシアンの姿が見えた。
近くまで飛び、地面へ降り立つ。
カシアンは両手で顔を覆っていた。広い肩だけが、細かく震えている。
その場に降り立ったまま、翼一枚動かせなかった。
気づかれないうちに引き返そうと背を向けたところで、翼が勝手に開く。
「クロノア様!? 何をしているんですか!」
『カシアンが悲しんでるんだよ。行って慰めてあげなきゃ!』
「この姿で、どうしろっていうんですか!」
抗議もむなしく、身体は意志に逆らって飛び上がり、カシアンの頭へ着地した。
震えていた肩が止まる。
「ププ……寝ないで何をしているんだ」
鼻にかかった、ひどくこもった声だった。
「えっと、カシアン……」
もちろん、嘴から出るのはピヨピヨという鳴き声だけだ。
彼は目元を擦り、顔を上げた。まぶたは腫れ、鼻筋まで赤く染まっている。
胸の奥が詰まった。泣いていた私を、何も言わず抱き締めてくれた彼の腕が脳裏に浮かぶ。
差し出された指へ移り、声をかける。
『カシアン、ちょっと待ってて。すぐ戻ってくるから』
「俺が情けなく見えるか……? 自分でも分かっている……」
カシアンは鳴き声を聞き、見当違いなことを呟く。
気にはなったものの、再び飛び立って来た道を戻る。毛布のそばで人の姿へ戻り、服を身につける。
包みの上では、ソリアが片目だけを開けてこちらを見ている。背を向け、カシアンのいる方角へ這い始める。
鳥ならすぐに戻れた距離が、両腕で進むとひどく遠い。どうにか彼の姿が見えるところまで辿り着くと、カシアンが顔を上げた。
「アリア……寝に戻ったと思っていた。なぜまた来た? 今度はその身体で……。俺もすぐ戻るから、心配しな――」
言い終える前に、残った距離を這い寄った。彼の後頭部へ手を添え、胸元へ引き寄せる。
「……これは、その……前に言ったでしょう。つらいことがあったら、いつでも抱き締めてあげるって。もちろん、変な意味はないから! 友達として……そう、友達だから!」
返事はない。カシアンは胸元へ顔を預けたまま、深い呼吸を繰り返している。衣服越しに、張り詰めていた肩が少しずつ下がっていく。
何も言わず、彼の髪を撫で続けた。
やがて、カシアンは身体を起こし、隣へ並んで座った。
そこで初めて、自分のしたことを思い返す。顔へ熱が集まり、スカートの皺を何度も伸ばした。つかえながら言葉を探す。
「カシアン……何もかも一人で背負わないで。私にできることは少ないかもしれないけど、そばで支えるから。ソルベルグ領にはイリアお姉様も、フレイヤのお父様もいる。みんなで力を合わせればきっと大丈夫だよ」
膝の上に置いた手へ力がこもる。呼吸が浅くなり、爪がスカートへ食い込む。
あの日、薔薇畑に倒れていたお母様と、その傍らで片眼鏡を直していたキリアン叔父様の姿が、まぶたの裏に蘇る。
その手を、カシアンが握った。
驚いて横を向いたが、彼は何もない地下坑の天井を仰いでいる。
「君がいてくれて、本当によかった。いつもありがとう」
握られた手を、こちらからも包み返した。
手のひらには硬いまめが幾つも重なり、指もごつごつしている。それでも、包み込む熱は不思議なほど優しかった。
「私も……カシアンがいてくれたから、耐えられた。本当に、ありがとう……」
カシアンがこちらを向く。赤く腫れた目元が、柔らかく細められる。
「それにしても、友達というのは本当にいいものだな。そばにいるだけで、こんなに安心できる。だから、君が羨ましかった」
「私が……?」
「ああ。君は友人の数こそ多くなくても、フレイヤとはいつも一緒だっただろう。クラスが分かれてからも、休み時間になれば必ず会っていた。俺も、あんな友人が欲しかった」
「……うん。そうだね。フレイヤは……いい子だね」
休み時間になるたび教室へ来ては駄々をこね、持ち物を忘れたと泣きそうな顔をしていたフレイヤが浮かび、思わず小さく笑った。
カシアンが言葉を継ぐ。
「だが、不思議だな」
「何が?」
「安心するのに、苦しくもなる」
つないでいないほうの手を、自分の胸へ置いた。
「こうして君の手を握っていると、胸の奥が時々、妙に疼く。鳥たちと一緒にいるときは、こんなことはなかったのだが……」
その言葉に、私の心臓まで激しく脈打ち始める。つながった手から目を上げられない。
「もしかすると、まだ風邪が治りきっていないのかもしれない。悪かったな。俺のせいでこんな時間に起こしてしまった。そろそろ戻って寝よう」
カシアンが手を離そうとしたところで、その手をさらに強く握って引き留めた。顔を背け、つま先へ目を落とす。
「ねえ、カシアン……カシアンは、女性のことをどう思ってる?」
「女性を? 質問の意味がよく分からない」
「その……友達じゃなくて、異性として……」
カシアンは眉を寄せ、数秒黙ったあと、真顔で答えた。
「やはり分からない。俺は男で、女性は異性だ。違いといえば、身体のつくりが異なる程度ではないのか」
はっと顔を上げた。カシアンは一度まばたきをし、首を傾けるだけだった。
「嘘でしょう、カシアン? 女と男は全然違うよ!」
「何がどう違う?」
「何がって……恋愛小説とか、そういうものを読んだことはないの?」
彼が片手で顎を支え、淡々と答える。
「知らないな。俺が読んできたのは、政治や交易、剣術、それから王になるために必要な本ばかりだ。学院でも授業が終われば剣の稽古をして、あとは寮へ戻るだけだった」
まじまじと顔を確かめる。
(この人、本気だ……)
どこにも、とぼけている気配はない。ぱちぱちと瞬く彼の黒い瞳を眺めていると、胸の奥がむずがゆくなる。
乾いた唇を内側へ巻き込み、舌で湿らせる。片手で髪を耳の後ろへ流し、その指を襟元へ下ろした。
布をほんの少し引き下げ、鎖骨鎖骨のあたりを覗かせる。耳たぶまで熱くなる。
「ねえ……カシアン。これでも、何とも思わな――」
言葉の途中で、カシアンが下がった襟を喉元まで引き上げる。
「何をしている。ただでさえ寒いのに、風邪をひくだろう」
さらに、私の身体を軽々と抱き上げる。
「え……?」
「え、ではない。戻って寝よう。明日中には必ずソルベルグ領へ着くぞ」
服越しに彼の手が触れたところが、ぴくりと震えた。鼓動が耳の奥まで響き、気づかれそうで息を浅くした。
来た道を戻り、毛布の横へ下ろされた。
カシアンは包みの上で眠るソリアを指へ乗せ、いったん肩へ移した。それから包みを枕にして横たわり、ソリアを腹の上へ戻して目を閉じる。
「おやすみ、アリア」
「う……うん。おやすみ……」
こちらも毛布へ戻り、仰向けになる。
天井を見ていても、顔の熱はなかなか引かない。
頬を膨らませ、誰にも届かない声で呟く。
「ばか……」
目を閉じると、クロノアの声が聞こえた。
『なんだか……ずっと暑くない、アリア? さっきから心臓もすごく速いよ。あれれ、風邪がうつったのかな?』
「黙って寝てください」
『……うん。ごめん……』
杖を足元へ引き寄せて足枕代わりにし、今度こそ眠りについた。




