71話「崩御」
いつもと同じ、無数の時計に埋め尽くされた空間だ。
慣れた動きで床を這う。
(また……この悪夢)
けれど、どれだけ進んでも、いつもそこにいるはずの少女が見当たらない。銀髪に翼を持ち、なぜか顔だけがはっきりと見えない、あの少女。
代わり映えのしない時計の海を、ひたすら這い続ける。
不意に、四方の時計が一斉に逆回転を始める。背中の翼が、ぞくりと震える。
「ねえ……誰かいないの?」
声は虚しく散っていく。辺りを見回し、もう一度叫ぶ。
「あの! 誰かいませんか!」
頭上から何かが落ちてきた。
「ひゃっ!」
驚いて身を引く。
顔から床へ落ちたまま動かない、翼を持つ銀髪の女。
手を伸ばし、その身体を仰向けにする。顔を見た途端、声も出せずに口元を押さえた。
女は片目を抉られ、全身の傷口から血を流しながら、虚空を見つめている。
「お……お母様……! お母様!」
泣きながら身体をつかみ、何度も揺さぶる。それでも、お母様は指一本動かさない。
「ごめんなさい……私のせいで……。これからはもっといい子になりますから、戻ってきてください……お願い……ママ……」
背後から、誰かが服を引いた。
恐る恐る振り返ると、この空間でいつも目にする、顔だけが白く霞んだ少女が座っていた。
「君は……いったい誰なの!? どうしていつも、私にこんなものを見せるの!」
胸ぐらをつかむ。少女は抵抗せず、手の動きに合わせて揺れながら、顔だけをこちらへ向けた。
目元さえ見えないはずなのに、まっすぐ見据えられているのが分かる。
少女が口を開く。
「ああ……また殺したの? そんなことをしたって、彼女が喜んでくれるはずもないのに」
「何を言ってるの……? 何を殺したっていうの……」
少女は答えない。霞んだ顔の中で、唇だけを歪めて笑い、私を抱きしめる。
力いっぱい押しても、びくともしない。
「もう、残っているのは君だけ。……わたしを殺して」
「待って! 本当に何も分からないの! ちゃんと分かるように話してよ!」
叫びながら突き放すと、少女は笑顔のまま手を振る。
足元が消え、身体が床の下へ落ちていく。少女の姿も、時計で埋まった空間も、遠くへ離れていった。
***
「ママ……!」
勢いよく上体を起こすと、掛けていた毛布が膝へ滑り落ちた。
強い朝日の下で、カシアンが馬の荷を整えている。こちらを振り向き、口を開いた。
「悪いが、俺は君の母では――」
言葉を切り、すぐそばまで来てしゃがみ込む。片手で目元をそっと拭ってくれた。
「悪夢を見たのか。もう少し休んでから出発するか?」
「いえ……大丈夫です。早く出発しましょう。カシアン様こそ、お身体はもうよろしいのですか……?」
「君のおかげですっかり良くなった。絶好調だ。それより、たまに敬語へ戻る癖は、そろそろ直してほしいな」
「あ……ごめん。カシアン」
彼の腕に抱き上げられて馬へ乗り、再び街道を進み始めた。
半日ほど走っただろうか。
森を抜け、川を渡り、次の森も終わりに近づいた頃には、辺り一帯が不気味な静けさに包まれていた。いるはずの虫や獣の気配すら感じられない。
夏の終わりとはいえ、長袖を貫く冷気が肌にまとわりついていた。鼻先まで凍え、匂いもほとんど感じ取れない。
「気候がおかしい。ここまで来ても、通信石がまったく反応しない」
カシアンは片手に通信石を握り、何度も口元へ運んでいる。
「そうだね……山影月に、こんな寒さになるはずがないのに。通信石にも何か影響が出ているのかも……」
森を出かけたところで、カシアンが馬を止めた。
突然差し込んだ光に目を覆い、指の隙間から前方を見る。
――雪原が広がっている。
カシアンは手綱を握ったまま動かない。私も、目の前の光景から目を離せなかった。
ただの雪ではない。灰色を帯びた粉雪が地面を覆い、その一部が風に巻き上げられて、薄い吹雪となっている。
「これはいったい……ごほっ、げほっ」
声を出した途端、喉の奥が焼けつき、咳が噴き出した。カシアンがすぐに手で私の口を塞ぐ。
横を見ると、彼は目を見開いて雪原を凝視していた。
「黒雪だ……! あり得ない。なぜ、こんな場所に……」
前方を警戒したあと、馬の向きを変え、まだ淡い緑の残る森へ引き返した。木のそばに馬をつなぎ、休める場所を確保する。
彼は同じ場所を行き来しながら、途切れ途切れに呟いた。
「そんなはずはない……黒雪が王都まで下りてきたのか? 通信が途絶えたのも、その影響……? いや、それでは……」
「カシアン。少し落ち着いて、座って。まずは状況を整理しよう」
震える手をスカートの布へ押しつけ、声を絞り出した。
「……そうだな。君の言う通りだ」
彼がこちらへ歩み寄ったとき、澄んだ鋭い鳴き声が空を横切った。
「ピヨォッ!」
見上げれば、長い冠羽と純白の翼が風を切っている。
「トト!」
カシアンの声に応え、ソリアは一直線に降りてきて、その肩へとまった。
「トト、なぜここまで来た?」
耳元の羽毛を撫でられ、ソリアは気持ちよさそうに目を閉じた。カシアンはその足に結ばれた小さな巻紙を解き、広げる。
「さて、今日はどんな――」
途中で言葉が途切れる。
彼の喉仏が大きく上下する。黒い瞳が紙面を追い、下まで行っては上へ戻る。それを何度も繰り返していた。
「何が書いてあるの……?」
返事はない。こちらへ来て紙を手渡すと、離れた木の下へ腰を落とし、ソリアの頬を撫で続ける。
巻紙を開き、最初の一文を読んだ。
『国王ハラルド・ルーンヘルム陛下が崩御されました』
「え……?」
思わず声が漏れた。理解が追いつかないまま、続きを読み進める。
『ベヒモス討伐からの帰還直後、王都全域が大規模な黒雪に襲われました。遮断杭を備えた主要都市は無事ですが、それ以外の小都市では消滅が確認されています。魔力の流れも乱れ、通信石は機能しておりません』
そこまで読み、固く目を閉じた。呼吸を整えてから、先を追う。
『夏の議会は中止されました。王党派の中核を担うオルネン家の混乱に乗じ、グランデル家をはじめとする複数の家門が反乱を起こし、王都を占拠しました』
指先から、紙の感触が遠のいた。
『彼らは王都以北を放棄し、王都を囲む巨大な遮断杭の壁を築いて、黒雪に備える方針です』
同封された小さな新聞には、こう記されていた。
――黒雪から霜嶺王国を存続させるために。すべては大義のため。転相暦元年。
「転相暦……?」
手紙には、まだ続きがあった。
『カエレン様をはじめとする一部の王党派は、黒雪に汚染された土地を逃れる途中、地底の影鱗族の助けで地下坑へ入り、現在はソルベルグ領に避難しています。入口の地図を同封しますので、山影月中にお越しください。お待ちしております。
ミハイル・ストール』
初めからもう一度読み返し、丁寧に折り畳んだ。そのまま地面を這い、カシアンのもとへ向かう。
「カシアン……」
肩へ手を置くと、彼は勢いよく顔を上げた。
「移動しよう。地図に記された湖へ向かう」
差し伸べられた手に身体を預けながら、尋ねた。
「大丈夫……? 偽造された手紙かもしれないよ」
「それはない。この歪んだ字は、間違いなくミハイルのものだ。それにソリアは、俺が指定した者以外から手紙を受け取らない」
馬上へ戻るなり、カシアンは手綱を振る。鞍の前にはソリアが陣取り、平然と尾羽を整えている。
そっと顔を仰ぎ見る。そこにあるのは、普段と変わらない無表情。けれど、手綱を握る指の節だけが白く浮いていた。
何かを言おうとして、結局は唇を閉じる。何一つ言葉にできないまま、先を急いだ。
***
森を抜けるたび、灰色の雪原が行く手を塞いだ。そのたびに木々の間へ戻り、大きく迂回する。それを何度も繰り返し、日が傾き始めた頃、ようやく地図にある湖へ辿り着いた。
森が途切れた先に、広い湖が開けている。波ひとつない水面へ斜陽が落ち、対岸の木々と赤く染まった空を映している。
カシアンは馬から降り、手綱を握る。
「この湖へ来るのも、久しぶりだな……」
馬上から問いかけた。
「来たことがあるの?」
「幼い頃、父上に連れられて、ここでよく剣術の稽古をさせられた」
「ごめん……」
湖のほとりまで歩いたカシアンが、つま先で水を蹴る。生まれた波紋は幾重にも広がり、遠くで水面へ溶けていく。
「謝らなくていい。父上……いや、俺は陛下を父だと思ったことはない。この湖にも、いい思い出はないからな」
彼の横顔を眺めた。
かつて、お母様の顔色ばかり窺っていた自分。回帰してから、暦に記された〈開花の茶会〉の日付へ、何度も『死ね』と書き殴っていた自分。その姿が、彼に重なる。
それでも言葉は出てこなかった。
カシアンが言葉を継いだ。
「それより、湖の近くに地下坑があるとはな……。いったいどこに――」
背後から草を踏む音がした。
現れたのは、大きくはないものの、全身を黒く焼かれた鹿に似た獣。片方の角は自らの目へ突き刺さり、もう片方は空へ向かって螺旋状にねじれている。
「魔物……!」
カシアンが即座に剣を抜き、馬を背後へ庇った。ソリアも空へ飛び立ち、上空を旋回しながら鋭く鳴く。
魔物が地を蹴り、カシアンへ突進する。
だが、あと数歩というところで動きが止まる。
――びしり。
黒い血が幾筋も噴き出し、胴体が真っ二つに裂けて倒れる。草の上へ広がった血から煙が立ち、腐臭が辺りを満たす。
その向こうから、金髪で丸い目をした男が姿を現した。口元には白い布を巻いている。
「ミハイル!」
「カシアン様! アリア様も……ご無事で何よりです!」
こちらへ駆け寄り、カシアンの前で片膝をついた。唇を固く引き結び、目を伏せたまま、重い声で告げる。
「……王子殿下。申し訳ございません。僕の力が及ばず、この事態を防ぐことができませんでした。この命で償わせてください」
カシアンも膝をつき、ミハイルの肩へ片手を置く。
「やめてくれ。これほどの事態を、たった一人の戦士にどうにかできるはずがない。それに、命で償うなどと言うな。十年以上も俺を見てきて、まだ分からないのか?」
ミハイルの伏せた目の縁が、徐々に赤く染まっていく。
「それより……陛下が崩御されたのなら、護衛騎士のヴァルデン卿はどうした?」
ミハイルは姿勢を崩さずに答えた。
「バスティアン・グランデルに……」
「……そうか。分かった」
カシアンはミハイルの手を取り、立ち上がらせた。
「地下坑へ行こう。すぐにソルベルグ領へ向かう」
ミハイルの案内に従い、湖から少し離れた一本の巨木へ向かった。
道すがら交わした短い会話から、イリアお姉様も無事に避難できたと知る。胸を縛っていたものが、わずかに緩んだ。
木のそばまで来ると、ミハイルが根元の茂みをかき分けた。ゴゴゴ、と地を擦る音が響き、隣にあった巨大な岩が横へずれて、地下へ続く穴が現れる。
「グリムナル……いや、影鱗族が各地に地下坑を掘っているとは聞いていたが、こんなところにも道があるとは……」
「僕も驚きました。それより、早く移動しましょう」
ミハイルが先へ入る。カシアンは私を抱き上げて馬から下ろしたものの、馬と入口を交互に見て足を止めた。
毛布を地面へ敷き、その上に私を下ろす。
「少し待っていてくれ」
馬のもとへ行き、荷物と鞍を外した。手を伸ばし、その顔を優しく撫でる。
「君とは、ここまでだな。ピーちゃん」
(ピーちゃん……?)
疑問を口にする間もなく、カシアンは手を離した。
「さあ、故郷の南へ帰れ。今まで俺のために走ってくれて、ありがとう」
馬は一度だけ尾を振り、カシアンを見つめていた。やがて背を向け、南へ向かって歩き出す。数歩進んだところで速度を上げ、その姿は木々の奥へ消えていく。
カシアンは馬が去った方角をじっと見送った。
「行きましょう、カシアン様。ここも、いつまで安全か分かりません」
「ああ、行こう」
***
カシアンの背に負われ、地下坑を下りていく。頭の上では、ソリアが私の髪を嘴でつついている。
ほどなく、細長い通路へ出た。
湿った冷気が肌へ染み込んでくる。地上の入口から吹き込んだ風は狭い通路へ吸い込まれ、低く長い唸り声を響かせている。
壁際には、いくつかの荷物が置かれている。
ミハイルはその中から魔力石ランプを取り出し、火を灯した。青い光が十歩ほど先まで照らし出す。それをカシアンへ渡したあと、下にあった小さな包みも差し出した。
「こちらは、カシアン様のお部屋にあったものです。一番下の引き出しから、急いで持ってまいりました。大切になさっていた品ですよね?」
「一番下の引き出し……?」
聞くなり、カシアンは包みを奪い取る。ミハイルの手だけが、取り残されて宙に浮く。
「……中は見ていないだろうな?」
「まさか。星様の名にかけて誓います」
疑う目を向けられ、ミハイルがわざとらしく咳払いをする。
私はカシアンからランプを受け取った。
「これは私が持つよ」
「ありがとう」
隣でミハイルが目を丸くする。慌てて言い直す。
「……申し訳ございません、カシアン様」
「やめてくれ。ミハイルの前では構わない。それからミハイル、アリアは俺の友人だ。言葉遣いのことは気にするな」
ミハイルは小さく笑い、懐から自分が巻いているものと同じ白い布を二枚取り出した。
「承知しました。それより、この地下坑を二日ほど進むと出口があります。黒藤樹海へつながっていますので、森を抜けてソルベルグ領へ向かってください」
「この布は何だ?」
「黒藤樹海も北方にある以上、黒雪の影響は避けられません。汚染のひどい場所では、これで口元を覆ってください。まだ開発途中ですが、黒雪の粒子を防ぐ効果があるようです」
「そうか。ありがとう」
カシアンは二枚の布を懐へ収め、ミハイルを見た。
「ところで、さっきはなぜ笑った?」
「いえ……カシアン様にご友人ができて、本当に良かったと思いまして」
「へえ。おまえは俺を、友人の一人もいない寂しい人間だと思っていたのか?」
ミハイルは答えず、こちらを見てにやりと笑った。私も困った笑みを返す。
カシアンは拳を口元へ当てて咳払いをすると、片腕に包みを掛け、通路の奥へ身体を向けた。
「では、行こう」
だが、ミハイルはその場を動かない。
「カシアン様、アリア様。お二人で先へ進んでください」
「どういうことだ?」
「孤立している主要な方々にも、使いを出しております。今月が終わるまでは、ここで待つつもりです」
「おまえも一緒に来い。俺の護衛騎士だろう。それに、待っている間に地下坑を発見されたらどうする?」
ミハイルは再び片膝をついた。
「殿下。あなたをお守りするには、一人でも多くの味方が必要です。もし密偵や反乱軍に見つかったときは――命に代えても、地下坑の存在だけは悟らせません。どうかご安心ください」
カシアンは黙り込んだ。
背負われている私にだけ伝わるほど深く息を吸い、前へ足を踏み出す。
「……無理だけはするな」
「はい。もちろんです」
こうして私たちはもう一度、地下坑の奥へ進んでいった。




