70話「夜鳴」
夏の終わりを告げる山影月も、残すところわずかとなっていた。
橋を渡り、霜嶺王国の領土へ戻った私たちは、巨木が空を覆う森を進んでいた。
翠蘭とは、空気の肌触りからして違う。木陰へ入るたびに首筋が冷え、吸い込んだ空気にも薄い冷気が混じっている。
私は手綱を握るカシアンの手に、自分の手を重ねた。
「カシアン。今日はこのあたりで休もう」
「……まだ日が高い。急がなければならない」
「カシアン」
手に力を込め、顎を上げた。カシアンが横目でこちらを見る。目が合っても、私は逸らさなかった。
彼は短く息を吐き、馬を止めた。
鞍から降りて地面に足をついた途端、カシアンの身体が大きく傾いた。それでも何も言わずに馬を木につなぎ、荷袋から毛布を取り出して戻ってくる。差し出された両腕が、私の身体を抱き上げた。
服越しに伝わる体温が異様に高い。熱した石に触れたのかと思うほどだ。
私を地面へ下ろしたあと、カシアンも木の幹に背を預けて座った。額には細かな汗が浮いている。
「三十分だけ休み、また出発する」
私は渡された毛布を丸めて即席の枕を作り、隣の地面を手で叩いた。
カシアンは手の甲で額の汗を拭いながら、私を見る。
「何だ……」
「横になって」
「俺はいい……」
私は頬を膨らませた。
「これ以上意地を張るなら、また敬語に戻すから。早く横になって。朝から何度もふらついてたし、具合が悪いのは分かってるんだから」
カシアンは反論せず、毛布に頭を預けた。
彼の額に手の甲を当て、次に自分の額へ触れる。もう一度確かめてみても、やはり熱い。首筋に指を添えると、脈も普段より速い。顎の下を軽く押すと、彼の眉間に皺が寄る。
「……風邪かな。無理しすぎたんじゃない?」
「無理などしていない」
「とにかく、今日はしっかり寝て。丸一日休んでも議会には間に合うから」
カシアンの額に浮かんだ汗を袖口で拭い、地面に手をついて森の奥へ進んだ。背後から、彼の声が追ってくる。
「どこへ行く……」
「薬草を探してくる」
「行くな……森は危険だ。その身体で、どこへ行くつもりだ……!」
振り返ると、カシアンは木にもたれたまま、熱で頬を赤くし、顔だけをこちらへ向けていた。
私は鼻から息を吐いた。
「心配しないで。私、這うのは得意なんだから。待ってて、すぐ戻るよ」
「アリア……!」
その声を背に受け、森の中へ入った。
***
湿った木陰では、見覚えのある草が真っ先に目に入る。
火根草。指先で葉を擦ると、鼻を刺す香りが立ち上る。翠蘭へ向かう途中、カシアンが煮てくれた汁物の味が舌に蘇る。けれど、今必要なのは熱を下げ、咳を鎮める薬草だ。
さらに奥へ進んだ。茂みをいくつもかき分け、太い幹の裂け目に目的の草を見つける。
雪耳草。
露を含んだ肉厚の葉が、幾重にも重なって生えている。子供の手のひらほどある葉は、裏側だけが白みを帯びている。
問題は、生えている場所だ。地面から、私の背丈の倍ほどの高さにある。
幹の凹凸に指を掛け、背中の翼を羽ばたかせながら身体を引き上げた。一手分、さらに一手分と登ったところで、指が滑る。
「きゃっ!」
地面へ落ち、脇腹を打ちつける。肘は樹皮に擦れて皮が剥け、裂けた袖に血がにじんでいる。
反対の手で肘を押さえながら頭上の葉を仰いでいると、隣の木で枝葉が鳴った。
リスに似た小獣が、幹を登っている。前脚で窪みをつかみ、腹を幹に押しつけて一度止まる。それから次の窪みへ移っていく。
腕の力だけでぶら下がっているのではない。幹に身体を預けているのだ。
「……なるほど」
木の根元へ戻り、今度は胸と腹を幹に密着させる。翼も強く打たず、身体が後ろへ反らない程度に動かす。
一手分登って止まり、また次へ進む。
指先が葉の縁に触れた。茎をひとつかみにして引き抜き、幹に沿って滑り降りる。
葉を鼻先へ運ぶと、清涼感のある鋭い香りがする。爪で裂けば、ぬめりのある汁が染み出し、香りがさらに濃くなる。
「うん。これだ」
帰り道に小川を見つけ、水筒を満たした。水面に映った顔は、すっかり泥まみれだ。顔を洗い、服についた血を落としてから傷口も水ですすぐ。
来た道を戻るうちに日は傾き、木々の影が長く伸びていた。濡れた袖から冷気が肌へ染み込んだ。
***
戻ってみると、カシアンは深く眠っていた。
音を立てないよう、馬の荷袋を探る。もっとも、這って進む私に足音などないのだけれど。
調理道具へ手を伸ばしたところで身体が傾き、支えを失った。
ガシャンッ。
鍋とお玉が、盛大な音を立てて地面へ転がる。
「……」
その場で固まった。
衣擦れの音がして、カシアンが上体を起こす。
「俺がやる」
「違うの! 起こすつもりじゃ……」
カシアンは返事もせず荷をほどき、調理器具を取り出した。さらに乾いた枝を集め、火まで起こしてくれる。
「ありがとう……もう休んでて」
そう告げても、彼は焚き火のそばへ腰を下ろした。呼吸はまだ荒く、頬にも熱がこもっている。
鍋に水を注ぎ、持ち帰った葉を細かく裂いて入れた。煮立つにつれて、汁は濁った緑色へ変わっていく。干し肉を足しても、鼻をつく青臭さは消えない。
木椀へよそい、カシアンに差し出す。
「はい。熱を下げるのに効くよ」
「ありがとう」
私もスプーンですくい、口へ運んだ。
「うえっ……」
舌の奥に苦味が弾け、石鹸めいたぬめりが喉へ絡みつく。慌てて水筒をつかむ。
「カシアン、無理しないで! 全部食べなくても効くから――」
言い終える前に、彼はすでに半分近く食べていた。そのまま残りも一息で飲み干し、空になった椀を地面へ置く。
「うまい」
「……嘘」
「本当だ。……うっぷ」
必死に平静を装う姿を前に、私は数秒と堪えきれず、声を上げて笑った。
***
寝支度を終えた私たちは、互いの間を空けて並んで横になり、夜空を仰いだ。
夏の終わりの空は高く、細かな星がこれまでよりも多く散っている。
「そういえば、カシアンは星様を信じていないって言ってなかった?」
「そうだ。そんなものは、ただの作り話だと思っている」
「ふうん……それなら、あのときはどうして星様に祈ったの?」
返事はない。
顔を横へ向けると、カシアンは月明かりの下で反対側を向き、前髪の先を指でいじっていた。
「それは……こほん。ところで、今鳴いているのは何の虫だ」
その様子に私は小さく笑い、耳を澄ませた。
細く高い音が尾を引いて途切れ、その合間を低い音が細かく埋めている。
「夜鳴蟲だよ。夏の終わりにしか鳴かなくて、この声が聞こえ始めると、十日もしないうちに初霜が降りるんだって」
「相変わらず物知りだな。俺と同じ授業を受けていたはずなのに、どこで覚えたのだ」
「本を読むのが趣味だから。魔法が使えないぶん……せめて知識くらいは持っていないと、って思ってた」
「せめて、とは何だ」
彼がすぐに言葉を返す。
「知識を魔法より下に置く必要はない。君の知識には、魔法に負けない価値がある。風力石だってそうだ。魔法は、君のように研究を重ねる人がいるからこそ、発展していくものだ」
ペンダントに指を添えた。
「ありがとうございます。そんなことを言ってくださるのは、カシアン様だけです」
「カシアンだ」
「……カシアン」
再び空へ顔を向けると、彼が別の問いを口にした。
「そういえば、こちらでは夜鳴蟲と呼ぶのに、翠蘭の生き物は水鎧百足をはじめ、北方の名とは響きがまるで違うな。何か理由があるのか?」
星空へ手を伸ばしながら答える。
「北方では、古代ルーン語の意味を王国語へ置き換えた名前が多いの。夜鳴蟲や冠翼族がそう。南方では、軍蟻族や水鎧百足のように、現地の呼び名をそのまま使うことが多いんだよ。今では、その境目もかなり曖昧になってるけど」
「……そうか。一つ賢くなった」
しばらくして、カシアンが目を閉じた。
「少し眠くなってきた。ひと眠りするから、十時になったら起こしてくれ。そのあとは俺が見張る」
「うん。分かった」
返事をして間もなく、彼の呼吸は一定の調子を刻み始める。
その寝息をしばらく聞いてから、上体を起こし、木の幹へ背を預けた。声を潜めて、クロノアを呼ぶ。
「クロノア様。長く生きてこられたぶん、いろんな人を見てきたんですよね?」
『うん、そうだね』
懐からヴァルマにもらった髪紐を取り出し、手のひらに載せた。
「大切な人に先立たれたら……やっぱり、つらいですよね」
『まあ、ね。でもそれは、定命の者なら誰もがいつか迎える運命だから。立ち止まったままの者もいれば、それでも前へ進む者もいるよ。……でも、どうして? それは君のほうがよく知ってるでしょ』
「確かに、そうですね……」
髪紐を懐へ戻し、鞍に掛けてある杖へ目を移した。杖に結ばれたお母様の羽根が、風を受けるたびに揺れている。
間を置いて、クロノアが続ける。
『でも、だからこそ羨ましいんだ』
「羨ましい?」
『うん。君たちの一生なんて、わたしにとってはまばたき一つの間でしかない。それなのに、その短い時間で何度も笑って、怒って……誰かを失うことを、あれほど怖がる。わたしが何かにそこまで熱くなったのは、いつのことだったかな……』
クロノアの声が途切れ、私はカシアンへ顔を向けた。
熱の赤みがだいぶ引いた頬には、傷のかさぶたが点々と残っている。引き締まった顎の線と、すっと通った鼻筋。
「クロノア様。もう一つ、聞きたいことがあるんです。魔力の封印を解くには、王家と何らかの形で関係を結ぶ必要があると、キリアン……あの人が言っていましたよね。その『関係』とは、具体的に何を指すのでしょう」
『それは、封印をかけた本人でなければ分からない。でも、一つだけ確かなことがある。条件は、かなり具体的に決められているはずだよ』
「具体的な条件、ですか?」
『そう。想いが通じ合ったとかじゃなくて、契約書に署名するとか。君たちがするあれ……そう、結婚なら指輪を交わすとかね。形に残る条件が組み込まれているはずだよ』
彼の唇へ目を移した。薄く形の整った唇は、眠りのなかでわずかに開き、静かな寝息をこぼしている。
自分の唇に指先を重ねる。柔らかな感触が、指の腹へ返ってくる。
激しい頭痛の最中でも、あの感触だけは鮮明に残っている。冷えきった私の唇を覆った熱。逃げ場もなく、口内へ流れ込んできた息。
鼓動がひとつ跳ね、たちまち速くなる。首筋まで熱が集まり、指先が痺れる。慌てて手を下ろし、両膝を抱えた。
(宮廷魔導長でないのなら……やはり……)
胸の下に残る傷痕が、鈍く疼いた。
片手で胸元を押さえ、背を丸める。
「はぁ……これも、封印のせいなのでしょうか」
『うわ……久しぶりだね、その痛み。封印が解ける条件に近づくほうへ心が傾けば、それだけ解ける可能性も高くなるでしょ。だから、締めつけを強めているんだと思う……』
「……そうですか」
何度か深く呼吸するうちに、痛みは引いていった。顔を上げ、星空を仰ぐ。
クロノアがまた口を開いた。
『一度、試してみたら? カシアンと結婚するとか』
「……からかっているんですか? 翠蘭で何を見てきたんです? 王族の婚姻は、そんなに簡単なものではありません。それに……」
顔を動かさず、目だけでカシアンを窺う。また鼓動が速まり、傷痕までちくりと痛んだため、すぐに視線を戻す。
「結婚は、愛し合う者同士がするものです。自分の目的のために、彼の気持ちも知らないまま利用するなんて……そんな自分には、なりたくありません」
『人間って複雑だね……』
腕時計の針が十時を回っても、カシアンは起こさなかった。
夜が深まってからも、キリアンへの愚痴から、あの人の企みについての推測、カシアンのことまで、クロノアと取り留めもなく語り合った。




