69話「隣」
目を開けると、真っ白な空間が広がっている。
色も匂いもない。水鎧百足の毒にやられ、意識を失ったときに来た場所だ。
辺りを見回すと、一人の人影がいる。全身を真っ黒に塗り潰された、あのときの少女。慌ててそちらへ這っていく。
「ねえ……! ここ、どこなの!」
声をかけると、少女がこちらを振り返る。
「どうしたら戻れるの……?」
そこでようやく、少女が口を開く。
「戻る? どこに?」
「どこって、現実に……?」
「戻って何をするの? 何のために戻りたいの」
傷ついたカシアンの姿が頭に浮かぶ。
「な、何って……カシアンが心配するから……」
「カシアンのため? ただの自己満足じゃなくて?」
言葉が出ない。
白い空間の端が、さらさらと崩れ始める。床だったものが黒い粉へ変わり、空へ舞い上がる。
「君といると、カシアンは傷ついてばっかり。最後には命まで落とした。君だって分かってるでしょ。君さえいなければ、あんな目に遭うこともなかったんだよ」
「違う! そんな――」
言い切る前に、いくつもの光景が押し寄せた。
野外授業で魔物に襲われ、全身を引き裂かれた彼。地下坑で冷や汗を流しながら倒れていた姿。腹から血を流し、焦点の合わない目が宙をさまよっていた、あの顔。
両手を強く握る。それでも震えは止まらない。
「何も言えないでしょ? だったら、このまま私といればいいの。何も考えなくていいから」
黙ったまま、自分の手を見る。白い床は崩れ続け、黒い境目がすぐ近くまで迫っている。
胸に片手を当て、顔を上げる。
「それでも私、帰る!」
「どうして? また彼を傷つけるつもり?」
「それは……」
少女は大きく息を吐き、首を横に振る。
「もうやめなよ。君は彼の足手まといにしかならない。歩けない、使える魔力だってもう残ってない。頭がいいつもりでも、いつも何か一つ抜けてる。もう時間も戻せない。次に彼が死んだら――それで終わりだよ」
それでも、私は俯かない。唇を噛みしめてから、言葉を返す。
「それでも帰る。私、知ってるから」
「何を?」
目の奥が熱くなる。
――お父様と、お母様。そして、カシアン。
一度、声が詰まった。
「君の言うとおり、私といたらカシアンは苦労すると思う。でも……」
唾を飲み込み、胸いっぱいに息を吸う。
「自分が傷つくより、大切な人がいなくなるほうが、ずっとずっと痛いって知ってるから。だから帰る。カシアンの隣で、私にできることを全部やってみる」
黒い少女は黙っている。
足元まで床が崩れかけたところで、彼女が私へ手を伸ばした。迷わず、その手を握った。
少女の身体が端から黒い粉となって散っていく。その下から、真っ白な髪が現れる。
「ほんと……自分勝手な女だね、アリア」
「それが私だから」
私は目を細めて笑った。
床の亀裂が止まる。
無色だった空へ夜の青が滝となって流れ込み、地上には数え切れないほどの薔薇が咲く。その周囲を、薄氷の浮かぶ透き通った湖が取り囲む。
「帰ったら、何をするの? 復讐?」
「うーん……それも大事だけど」
足元で開いていく薔薇へ目を落とした。
「全力で守る。私の大切なもの、全部」
薔薇は次々と茎を伸ばし、私の身体を這い上がってくる。花びらが視界を埋め尽くし、目の前が淡い紅色に染まった。
***
目を開けて最初に見えたのは、窓から差し込む夜明けの橙色だった。
見慣れた翠蘭の木壁。身体は柔らかな寝台に包まれている。
試しに身体を動かしてみる。あちこち凝ってはいるものの、痛みはない。眠りから覚めたばかりなのに身体は軽く、汗も引いて肌までさっぱりしている。
頭を押し潰していた痛みも、きれいに消えている。
そのとき、すすり泣く声が耳に入った。
寝台のすぐ脇を見る。
カシアン様が床に膝をつき、ベッドの縁に額を伏せていた。
「星様……お願いです。彼女を連れていかないでください……。もう、これ以上……俺から何も奪わないでください……」
喉が腫れているのか、声は掠れきっている。
胸が詰まり、息が途切れた。私は右手を持ち上げ、彼へ伸ばした。その震える手の上に、自分の手を重ねる。
カシアン様の震えが止まる。
「カシ……」
そこまでで、声が詰まった。
顔を上げた彼の目は、真っ赤に腫れていた。濡れた睫毛が何本もくっつき、頬には乾いた涙の跡へ新しい雫が重なっている。
カシアン様の唇が一度動いた。けれど、声は出ない。私の顔からも目を離さない。
私の唇も震えた。涙が滲み、彼の顔がぼやけていく。それでも目元を手の甲で拭い、精いっぱい笑ってみせる。
「……おはようございます、カシアン様」
彼が立ち上がって私を抱きしめた。
胸元へ顔が埋まる。懐かしい、樹皮の青い匂い。その奥に、薬草の香りが染みついていた。耳を当てた胸の内側では、心臓が激しく脈打っている。
私も彼の背中へ腕を回した。
日がすっかり昇るまで、私たちは一言も交わさず、ただ互いを抱きしめていた。
***
朝になり、カシアン様が腰を上げた。泣き腫らしたせいで、もともと鋭い目つきがいつにも増して険しく見える。
「では、俺は帰る支度をしてくる。何度も言うが、無理をする必要はない。ここで休んでいれば、あとで迎えを寄越そう」
「いいえ」
片腕を曲げ、力こぶを作ってみせる。もちろん、盛り上がるほどの筋肉はどこにもない。
「もうぴんぴんしてますし。帰ったら、やることもいっぱいありますから」
「……そうか。分かった。では、支度が済んだら迎えに来る」
「はい。カシアン様こそ、無理しないでくださいね」
寝台の上で頭を下げる。彼の足音が扉の向こうへ消えていった。
「うぅぅぅっ!」
即座に枕へ頭を突っ込んだ。両翼をばたばた広げ、布団を叩く。
「もう……最悪!」
あらゆる記憶が、鮮明に蘇ってくる。
唇を思いっきり噛む。耳まで熱い。胸の奥までむずむずする。
「ぎゅってしてあげる……? ほっぺにちゅー……? あああっ!」
枕へさらに顔を押しつける。
「アリアの変態! もう駄目……重罪だよ、重罪……!」
扉の開く音がした。
「ひぃっ!」
枕を抱えたまま飛び起きる。
入口には、片手で口元を隠したサリヤが立っていた。
「サ……こほん。サリヤ姫様……」
枕を置き、乱れた髪を手で整えてから寝台の端へ座り直す。頭を下げると、サリヤが慌てて手を伸ばした。
「起きたばかりだと聞きました。無理に起きなくても大丈夫ですよ……!」
「私、とんでもない無礼を……申し訳ありませんでした、姫様」
彼女は椅子を引いて私の前へ座り、膝の上に手を置いた。
「大丈夫です。顔を上げてください」
恐る恐る顔を上げると、彼女は穏やかに笑っていた。
「……記憶も戻ったみたいですね」
「はい……まあ……」
「丸三日、眠っていたんですよ。皆もう駄目だと諦めかけていたのに、カシアン様だけは三日三晩、ずっとここで看病していたんです」
腿の上で手を握ったまま、何も言えない。
サリヤの頬を見る。痣は黄色く薄れかけていた。
「私たちを助けてくださって、本当にありがとうございました。無茶なお願いだったのに、危険まで冒して。おかげでカシアン様は勝てました。この恩をどう返せばいいのか……」
サリヤはくすりと笑った。
「これくらい何でもありません。決めて動いたのは私ですから。それより、私のほうがアリアさんに驚かされました」
「何を……?」
「闘技場の草、全部抜いてあったじゃないですか」
息が止まりかけた。シーツをつかむ指に力が入る。
「え……? 何のことでしょう……」
「戦士の儀式の日です。カシアン様が出たあと、青い鳥が宿から飛び出して、闘技場へ向かうのを見たんです。気になって部屋を覗いてみたら、アリアさんはいませんでしたし……あれ、魔法で変身していたんですよね?」
「あ! ああ……! はい、そうです。そうでした、あはは……。その、秘密の魔法なので……誰にも言わないでください」
「秘密の魔法が多いのですね」
サリヤは目を瞬かせ、首を傾げた。
「ともかく、今日は帰られる前に一つお願いしたくて来たんです」
そこで、あの約束を思い出した。
カシアンが勝ち、すべてが片づいたら彼の傍を離れる。
「……はい。分かっています。戻ったら……カシアン様がサリヤ姫様と婚姻できるよう、私もできる限り――」
「いえ。婚姻はもういいんです」
サリヤは窓の外を眺めた。朝日に照らされた茶色い髪が、金色を帯びて揺れている。
「私の負けです。お二人の間に、私が入る隙なんてありませんから」
こちらを向き、肩に垂れた髪の束を指先で撫でた。
「羨ましいです。私もいつか、あんなふうに誰かに愛されてみたいです」
「まさか! 恋だなんて! 私はカシアン様を、王家を支える家の者として……!」
「ふふっ。記憶のないアリアさんも面白かったですけど、元から面白い方だったんですね」
サリヤが姿勢を正した。
「それで、お願いです」
私は唾を飲み込んだ。
「北へ戻っても、カシアン様を支えてあげてください。黒雪のこともありますし……王国内も何だかきな臭いみたいです。これからも危ないことは、きっと何度もあるでしょう」
彼女が私の手を取った。
「大変でも、どうかあの方を助けてあげてください」
その手を握り返す。
「もちろんです。我がオルネン家の――」
そこで言葉を切り、彼女の目をまっすぐ見た。
「オルネン家当主、アリア・オルネン。何があろうと王家に忠誠を尽くし、カシアン様の傍らでお支えすると誓います」
サリヤはしばらく私を見返し、椅子から立ち上がった。
「ありがとうございます。それなら心配いりませんね」
部屋を出る直前、彼女がもう一度こちらを振り返る。
「もしよかったら、もう一つだけお願いしてもいいですか?」
「……私にできることなら」
「アリアお姉さんって呼んでもいいですか?」
きょとんとして、自分を指さした。
「……お姉さん?」
「はい。カシアン様と同級生だと聞きました。カシアン様は今年十六歳になられますし、私は十四歳ですから」
彼女は廊下へ出ると、こちらへ手を振った。
「では、アリアお姉さん。またあとで」
「…………」
閉じた扉をぽかんと眺め、それから自分の身体へ目を落とす。
もう一度枕を持ち上げ、顔を埋める。
「完敗だ……」
***
ラサンの領地を出たところで、私たちは馬に乗った。
カシアン様の身体に背中が触れないよう気をつけながら、鞍の取っ手を握る。振り返れば、領地の外まで見送りに来てくれたルワン族長とサリヤ、それに大勢の人たちが並んでいた。
「道中、どうかお気をつけください。魔力石は採掘が始まり次第お送りします。食糧の供給についても、どうかお忘れなきよう」
「もちろんです。本当にお世話になりました。霜嶺王国は、このご恩を決して忘れません」
族長が笑みを返す。その隣では、住民たちが声を張り上げている。
「最高だったぞ! ラサンの英雄!」
「いつでもまた来てください!」
カシアン様は皆へ手を振り、馬を歩かせる。
サリヤも私へ大きく手を振っている。
「また会いましょうね、お姉さん」
「は、はい。サリヤひ……サリヤ!」
ぎこちなく手を振り返すうち、馬が駆け出した。
「速度を上げるぞ。夏の議会に間に合わせるには時間がない」
馬が大きく跳ね、背中がカシアン様の身体へぶつかる。慌てて腰を引き、距離を取る。
「本当に……本当に申し訳ありませんでした、カシアン様」
「何のことだ?」
「私のせいで苦労させて……たくさん怪我までさせてしまって……」
彼は馬を走らせたまま答える。
「結局、誰かがやらねばならなかったことだ。魔力石が供給されないのは、王国にとって重大な問題だからな」
「そう……ですよね」
私は俯いた。
「それに、君がいたからこそ成し遂げられた。特に……そうだな。ベヒモスとの戦いで使った魔法。あれは見事だった。あんな魔法は初めて見た」
「……」
ペンダントへ手を伸ばす。
強い日差しを受けても、そこには光を失ったただの石が一つ嵌まっているだけだ。
「それが……もう魔法、使えないんです」
「なぜだ?」
「魔力が全部なくなりました」
「それは妙だな。途方もない量だと聞いていたが……。いや、あれほどの大魔法だ。尽きても不思議ではないか」
「そ、そうですよね……。ごめんなさい。もう魔力もないし、何にも――きゃっ!」
カシアン様が手綱を操ると、馬が小さな畦を一気に飛び越えた。身体が鞍から浮きかけ、彼の片腕が私の腰を抱き留める。
「謝ってばかりだな。そもそも、魔力のない君を役に立たないと思ったことなど一度もない」
返事もできず、姿勢を低くする。鞍の取っ手を握る指に、少し力を込めた。
「……私のこと、怪しいと思わないんですか? 鳥に変身したり、異端の刻印まであったり……」
カシアン様は答える代わりに、広大な翠蘭の田園を指した。
陽光の下、稲穂が地平線まで続いている。風が抜けるたび、葉の擦れる音が波になって寄せては返す。
「見てみろ。ラサンの田だ。王国では想像もできない景色だろう。それだけではない。海を越えた霧嵐公国では、天を突くほどの巨大な山々が何百と連なっているそうだ」
強い向かい風が髪を巻き上げる。カシアン様は腰に回していた手を上げ、風から私の顔を庇ってくれる。
「君の言うとおり、知りたいことはいくらでもある。だが、世界は広い。何があっても不思議ではない。それに、大切なのは――」
目が合った。
「俺が君を信じていること。そして、君は何度もその信頼に応えてきた。それだけだ」
私は鞍の取っ手を両手で握りしめた。
「急かすつもりはない。話したくなったときに、話してくれればいい」
「はい……いつもありがとうございます、カシアン様……」
「礼か。そういえば、俺の頼みを一つ聞くと言っていたな」
「もちろんです……! 私にできることなら、何でも言ってください」
ところが、カシアン様は黙り込んだ。
顔を上げて様子を窺うと、その視線は妙なところをさまよっている。耳の先まで赤くなっている。
つられて、私の頬まで熱くなる。
サリヤが言っていた『跡継ぎを産む』という話。鳥になって学院を飛び回っていたころ、あちこちで聞いてしまった話まで、まとめて頭に蘇ってくる。
どこそこの令嬢と令息が学院内で人目を忍んで会っていただとか、夜中に寮を抜け出して朝まで一緒にいたのだとか。
「あ、あの、その……!」
慌てて声を出すと、カシアン様の言葉と重なる。
「名前で呼んでくれ」
「えっ?」
声が裏返る。
「君はいつも俺を『様』付きで呼ぶだろう。その……セドリックとフレイヤみたいに、ただ名前で呼び合う関係が……そうだ、それが友人というものではないのか!」
思わず瞬きを繰り返した。
彼は一度こちらを横目で見て、すぐ前へ向き直る。
「……駄目、だろうか」
「ま、まさか……! とんでもありません!」
吹き出しかけた笑いを必死に飲み込む。
「でも、王族を呼び捨てになんてできませんよ……」
「だから頼んでいるのだ。二人だけなら構わないだろう。それに、君ももう当主だ。父上だってソルベルグ家の当主とは敬語を使わない仲だと言っていたぞ……」
私は前を向いた。
カシアン――と、声には出さず唇だけを動かしてみる。それだけなのに、妙に落ち着かなくて、もう一度手綱の先へ目を戻す。
「……分かりました。では、二人でいるときだけ、名前で呼びます」
「敬語もいらない」
「……分かっ……た」
横目で見ると、彼は片方の口角を上げていた。
「よし。先は長い。君の話……キリアンとグランデルの件が事実なら、なおさら急がねばならない。行くぞ!」
カシアン様が馬の腹を蹴る。
馬は一気に速度を上げ、草原を駆け抜けた。身体が上下左右に激しく揺さぶられる。
「ちょ、ちょっと待ってください! 速すぎます、カシアン様!」
返事はない。
「……速すぎるよ、カシアン!」
そこで、彼の片手が私の身体をしっかり支えた。
こうして私とカシアンは来た道を引き返し――遥か北の王国を目指して、馬を走らせた。




