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68話「抜草」

 衣擦(きぬず)れの音で目が覚めた。


 私はベッドに横になっていて、カシアンは槍を背負い、扉の前に立っていた。


「カシアン……?」


 瞼が何度も落ちてくる。声もまだ半分眠っている。


「起こしたか。すまない」


 その声に腕時計を確かめると、もう十一時五十分になろうとしていた。跳ね起き、閉じかける目を必死に開きながら心の中で叫んだ。


「クロノア!」

『ふぇ……ん? なに……?』

「もう十二時だよ! 十一時半に起こしてくれるって言ったじゃん! クロノア、午前も寝て午後も寝てるのに、夜まで寝ちゃ駄目でしょ!」

『あ、あはは……ごめん』


 クロノアの声がしょんぼりと沈んだ。


 そんなことをしている間に、カシアンが扉の取っ手に手をかける。急いで車椅子へ移り、彼のところまで走らせた。


「カシアン、待って。ちょっとこっち来て」


 彼が腰を屈める。私はその肩につかまり、頬に唇を押し当てた。


 肌はひんやりしていた。それでも内側には熱があり、触れた唇へじんわりと伝わってくる。頬を越えた吐息が耳をかすめ、髪から漂う青い草の匂いが鼻先を満たす。


 カシアンの肩が固まった。大きくなった黒い瞳のまま、口づけされた頬に手を当てる。


「こ、これは何の……」

「お屋敷で読んだ本に書いてあったの。男の人はね、ちゅーしてもらうと元気が出るんだって」

「……」

「頑張ってね。明日、応援に行くから」


 彼は頬に触れていた自分の手を眺め、こほんと咳払いして顔を横へ向ける。


「……心配するな。君は頭も痛むのだから、もう寝るんだ。今は安静が一番だ。では、行ってくる」

「カシアン」


 もう一度、彼を呼び止める。


「いつもありがとう、カシアン」


 そこで、カシアンの口元がわずかに緩んだ。私の頭を撫でながら訊いてくる。


「本心か?」

「当たり前でしょ! カシアン、いつも私にすっごく優しくしてくれるもん」

「なら――対価をもらわねばな」


 撫でる手にぐっと力が入り、乱れた前髪が目に刺さった。


「対価……?」


 髪を払い、顔を上げる。けれど彼はもう背を向け、扉へ歩き出していた。片手をひらひら振って、そのまま扉を開ける。


「俺が勝って戻ったら、いつか頼みを一つ聞いてもらおう。アリア」

「待って、頼みって何――!」


 慌てて叫んだときには、カシアンはもう扉の向こうだった。


 頭の中で勝手な想像が次々と膨らんでいく。首をぶんぶん振って追い払っていると、クロノアの声が聞こえてきた。


『ふわぁ……疲れたし、わたしももうちょっと寝るね……』

「寝ちゃダメ」


 服を脱いでベッドの上に畳み、鳥の姿になって飛び立つ。


『えっ? どこ行くの!』

「まだ、やることがあるの」


 開いた窓の隙間へ体を滑り込ませながら答えた。


「カシアンが絶対に勝てるように、できること全部やる。絶対、カシアンを死なせないから」



***



 向かったのは、明日の闘技が行われる川辺の草地だ。


 木の杭が円を描いて並んでいる。その中央、人の足首を軽く越す草むらへ降り立つと、小鳥の体は草の中へすっぽり埋まった。


 そこで人の姿に戻る。


 裸の肌を葉先がこすり、ときおり何かが腕を這っていく。それを払い落とし、昨日カシアンが戦った場所――円形の闘技場を這い回って、草を抜き始める。


『アリア……何してるの?』

「見れば分かるでしょ? 草抜いてるの」

『それは分かるけど。なんで急に草?』


 一束引き抜いて脇へ放り、次の草へ手を伸ばす。


「カシアンが使ってるのは、王国の武術なの。王国って夏が短くて、冬が長いから、こんなに草が生えない。だから、平らな地面を滑って戦うようになったんだよ」


 水が流れる勢いをそのまま足運びに変えた、彼の動きが頭に浮かぶ。


「でも、マハリ族の人たちは違ったの。あんまり動かないで、足を地面につけたまま突いてた」


 抜いた草をまとめて後ろへ投げる。


「ずっと草だらけの森とか、海辺で戦ってきたからだと思う。草とか水が足に絡んだら、カシアンみたいには動けないもん」

『……アリア、もうやめようよ。頭の虫、だいぶ大きくなってるんだよ? こんなの全部抜いてたら朝になっちゃうって。サリヤに頼めば良かったじゃん』

「それは駄目」


 草の根で爪の間が擦れた。手についた土を払って、また根元をつかむ。


「サリヤはお姫様だよ? 試合の前日に闘技場をいじったら、他の部族が黙ってないよ。でも私は鳥になれるし、こっそり来ればバレないから。私がやらなきゃ」


 それからも、ひたすら草を抜いた。


 背後には抜いた草が山を作り、手のひらは青い汁で染まっている。


 不意に、頭の奥がずきんと痛んだ。


 視界が真っ白に弾け、首の後ろから頭頂部(とうちょうぶ)まで熱い塊が突き抜ける。体が支えを失い、草の上へ横倒しになる。


 両手で頭を抱えても、爪が頭皮へ食い込むばかり。口元から唾液が垂れていく。


『ああっ!!』


 クロノアの悲鳴が頭の中を切り裂いた。青い光が私の全身を包み込む。


 痛みが一段引いた。震える体をどうにか起こし、乱れた息を整える。


「はっ、はっ……。ほんとに……死ぬかと思った……。ねえ、今なんかした?」

『…… 黒魔術だよ。わたしの位相を使って、頭の痛みを抑えたの』

「そんなこともできるの……?」

『できるよ……黒魔術は体に干渉する魔術なんだから、自分にだって使える。はぁ……ほんと、痛いの我慢できないんだから! もう二回目だよ!』

「二回目……?」


 思わず、自分の頬に触れた。


『そうだよ。君が初めて過去に戻ってきたときも、自分の頬を叩いて耐えようとしてたから、一回使ったんだよ』

「なんか、ごめん。いっぱい減った……?」

『ん? 大した量じゃないよ。百分の一くらいかな?』

「……」


 話が途切れた頃、川の向こうから淡い光が昇り始める。


 反射的に手首を確かめる。当然、時計はない。


 振り返ると、足を取るほど長かった草はすっかり抜け、ところどころ地面がむき出しになっていた。


「クロノア、今何時?」

『……わたし、もう寝る……限界……おやすみ……』

「待って、待ってってば!」


 手遅れになる前に鳥へ変わり、慌てて飛び立った。全速力で川を越え、畑を飛び越え――宿の窓へ体を押し込んだところで、ぽん、と変身が解けた。


 床を派手に転がった。肌が擦れ、肩も痛んだが、構わず起き上がって服を着る。


 机へ向かい、外しておいたペンダントを首にかけた。そして手袋をはめる前に、自分の手を確かめる。


 手の甲から手首まで、黒い線が枝分かれして伸びている。


 それを覆い隠すまで手袋を引き上げた。黒い線が跡形もなく消える。


 ――カシアンは勝つ。絶対に勝つ。



***



「さあ、それでは翠蘭三部族闘技試合を始めます!」


 群衆(ぐんしゅう)から上がった歓声が耳を打った。


 私は中央の闘技場へ目を向ける。引き抜いた草は跡形もなく片づけられ、短い草だけが残った平坦な地面が広がっていた。


 進行役が足先で地面を何度か蹴ってみせた。


「昨夜、野生の獣どもが闘技場の草を根こそぎ荒らしていったそうです! しかし、そんなことが何だというのでしょう! 最強の戦士たるもの、地面など選ばない! それでは、選手の入場です!」


 その声に応じ、青、黄、赤の仮面に埋め尽くされた群衆――マハリ、カダラ、ラサン族の一団から、それぞれ戦士が一人ずつ進み出る。


 全員が仮面をつけ、上半身は裸。古びた短いズボンだけを身につけている。


 その中で、私は白い肌をさらした黒髪の男から目を離せなかった。胸元で両手を組む。


 口の中がからからに乾いていく。


 周囲を確認していたカシアンが、こちらに気づいた。無表情のまま私へ目を留め、すぐ進行役へ向き直る。


 隣へ顔を向けると、赤い仮面をつけたサリヤも、私と同じく両手を組んでカシアンを追っていた。なぜか片方の頬には青い痣ができている。


 三人の戦士が同じ槍を手に前へ出た。石突(いしづ)きを三度地面へ打ちつけ、穂先(ほさき)を天へ掲げ、大きな円を描く。そのたび、各部族の群衆が踏み鳴らす地響きが押し寄せた。


 試合が始まった。


「各部族、戦士は三名! 公平に二名ずつ戦い勝ち上がり、昨年の優勝部族であるマハリの戦士の一人は不戦勝(ふせんしょう)で決勝進出となります!」


(……全然公平じゃないじゃん)


 始まってみれば、試合は散々だった。


 黄色い仮面のカダラ族はマハリ族とまともに戦いもせず、怪我をする前に棄権した。ところが、カシアン以外のラサン族の戦士は、そのカダラ族にさえ完敗した。全身を汗だくにして食らいついても、痣と擦り傷だらけで倒されていく。


 試合が進むたび、ラサン族の声援は弱くなる。


 準決勝まで残ったのは、カシアンとマハリ族の戦士。


 以前見た、鮫の歯の首飾りをした大男ではない。カシアンと変わらない体格の、褐色の肌をした若い男だ。


「それでは準決勝、開始!」


 二本の槍が交わった。


 まだカシアンの体に目立った傷はない。今回も地面を滑る足運びで距離を詰め、槍を振る。


 対するマハリ族の若い戦士は、大きく動かない。その場でカシアンの槍を受け、即座に突き返す。カシアンはそれを軽く受け流す。


 戦士が槍を握り直し、足元を確かめる。それからカシアンへ向き直る。


 カシアンが構え直して突く。


 戦士は体をずらして穂先をかわし、槍を地面へ突き立てる。


「これはどうしたことでしょう! マハリ族の戦士が地面を攻撃しています!」


 戦士は穂先で土を抉りながら後退する。そのまま追い詰めようとしたカシアンの槍が届く寸前――足が掘り返された土に引っかかり、体勢が崩れる。


 そこへ槍が飛んでくる。


 受け止めたものの、カシアンの体が横へ押し流される。


 両手を強く握った。背中で畳んでいた翼が、落ち着きなくぱたぱたと動く。


 カシアンは体勢を立て直して立ち上がり、槍を地面に突き立てた。


 穂先で土を一気に跳ね上げ、戦士の視界を塞ぐ。両足を踏ん張ると、土煙(つちけむり)の中へ槍を投げ込み、その後を追って飛び込む。


 戦士が飛来した槍を弾く。その懐へ、カシアンが入る。


 片手で槍を握る腕をつかみ、もう片方を首の後ろへ回す。同時に、自分の脚で相手の外側の脚を刈る。


 戦士の体が宙へ浮き、頭から地面へ叩きつけられた。


 鈍い音が響く。


 戦士は暴れたが、カシアンは脇から体を押さえ込み、逃がさない。


 とうとうマハリ族の戦士が降参した。


 四方から歓声が爆発する。部族など関係なく、誰もが戦いそのものに熱狂している。


「最高だ、ラサン!」

「マハリ! まさか負けるんじゃないだろうな!」


 実況の声が、その喧騒を突き抜ける。


「万年最下位、ラサン族の戦士が決勝進出です! 百年間、一度も崩れなかったマハリの牙城(がじょう)は守られるのか! それとも、ラサン族の新たな伝説が始まるのか!」


 カシアンが汗を拭い、こちらを振り返る。


 小さく笑ってから、槍を握り直す。


 反対側から、あの大男が歩いてくる。首から下げた(さめ)の歯が、一歩ごとに揺れている。


 二本の槍が激突した途端、先ほどまでとは音すら変わった。


 カシアンが槍を突き込めば、男はその場に踏みとどまったまま、槍の柄を叩きつけて弾く。一合交わすたびに、カシアンの肩が押し戻される。


 足元はすでに、前の試合であちこち掘り返されている。滑らせるはずの足が土に取られるたび、カシアンの動きが途切れる。


 槍先で土を跳ね上げ、視界を奪おうとしても通じない。大男は槍をひと薙ぎして土煙を払い、その場から鋭く突き込んでくる。


 カシアンは身をひねって受け流す。だが、かわすたびに腕、肩、脇腹へ赤い筋が刻まれていく。


 私は最前列まで出て、闘技場を囲う縄に両手をかける。


 手袋をした手の甲を、反対の手で包む。布の下を走る黒い線の凹凸が、指先に触れた。そこを一度、二度となぞる。


 男が槍を止めた。


「妙だな。我らの槍術を知っているとしか思えぬぞ、異邦人(いほうじん)


 カシアンは答えず、槍を構え直す。


「だが、浅い」


 男が地面を踏み締め、突っ込む。


 カシアンが槍を逸らそうとした――その足が、土の塊に引っかかる。


 マハリの穂先が振り抜かれ、カシアンの槍を真っ二つに折る。


「駄目!」


 叫びと重なって、槍がカシアンの脇腹を貫いた。


 傍らでサリヤがよろめき、その場に崩れる。


「姫殿下!」


 侍従たちが駆け寄って抱き止める。


 ――同じだ。私の欲が招いた。


 息が浅い。視界の端が削れていく。縄をつかんでいた指から力が抜け、その下へ体を滑り込ませようとした。


 そのとき、カシアンの口元がわずかに上がった。腹を貫かれたまま、一歩前へ出る。


 予想外の動きに、男は槍から手を離して後退する。その足が、今度は同じ土に引っかかった。


 カシアンの拳が、短い軌道で顎を打ち抜く。


「ぐっ!」


 男の体勢が揺れる。


 カシアンは低く潜り込み、両腿を深く抱え込む。そのまま巨体を持ち上げ、地面へ叩き落とす。


 上に跨がり、片腕を相手の首の下へ差し込む。反対の手で自分の腕を固定し、前腕で首を締め上げていく。


 激しかった抵抗から力が抜けていく。最後に、腕がどさりと地面へ落ちた。


 カシアンが立ち上がる。


「これは……! 勝者は――まさかのラサン族代表、カシアン! マハリ族、百年連覇の歴史がここに崩れました! 互いの戦術を読み、地形まで利用した壮絶な一戦! これは一体、何が起きたというのでしょうか!」


 歓声が四方から湧き上がる。


 私は車椅子から転がり降り、そのまま縄の下を這って進む。こちらに気づいたカシアンが歩いてくる。


「アリア、無理をするなと言っただろう!」

「……駄目……死んじゃ駄目……!」


 貫かれた脇腹へ手を伸ばす。傷口から血が流れ続けている。真っ白だった腕時計の革紐まで赤く染まっていく。


 彼は私の手首をつかんで押し戻し、目の前にしゃがみ込んだ。


「誰が死ぬものか。急所は外した。この程度なら一日で治る」

「え……?」


 傷を確かめる。


 前に刺されたのは、胸のすぐ下。大事な臓器のある場所。


 けれど今回は、脇腹だ。急所を外れている。


「昨日の稽古(けいこ)が役に立った。急所ばかり執拗(しつよう)に狙う槍術だったからな。狙いが読めたおかげで、致命傷だけは避けられた」


 カシアンが腰を下ろすと、赤い仮面をつけたラサン族の者たちが集まり、治療を始めた。槍を慎重に引き抜き、見覚えのない薬草を傷へ当て、針と糸で裂けた肉を縫い合わせていく。


 カシアンは顔をしかめながらも、私と目が合うと小さく頷いた。


 張りつめていたものが、一気にほどける。


 涙が頬を伝う。それなのに口元は勝手に緩む。


 その直後だった。


 頭の奥で、何かが弾けた。頭頂部から首の後ろまで、重い痛みが貫く。


 私は頭を抱え、その場に倒れ込んだ。


「うぅっ……! うっ、ああああっ!」


 痛みで焦点が合わない。赤い靄が視界を覆い、景色が明滅する。


「アリア! アリア!」


 カシアンの叫び声が聞こえる。


 けれど返事などできない。手当たり次第に何かをつかみ、引き寄せ、身をよじる。


「退け! 今すぐ魔力石鉱山へ行く!」

「無茶です、そんな傷で――きゃあっ!」


 騒ぎの中、聞き慣れた足音が駆ける勢いで遠ざかっていった。


 入れ替わるように別の声が聞こえる。


「まったく、無茶をする男だ。お前たち、行ってあの者を手伝ってやれ。約束は約束だからな。それと、この子はすぐ医者へ運ぶんだ」

「承知しました、族長」


 私は何かの上に寝かされ、そのまま運ばれていった。



***



 湿った薬草の匂いで意識が戻る。


 周囲に並べられた蝋燭から、白い煙が立ち上っている。苦い樹皮の匂い、その上に蜜の甘さが重なり、鼻の奥にこびりつく。


 全身は冷たい汗でびっしょりだ。髪は首筋に乱れて張りつき、背中側の服は裂けている。小さな翼が力なく左右へ垂れている。


 全身の筋肉が軋む。指一本、まともに動かせない。


 唇だけを動かす。


「誰か……いないの……?」


 しわだらけの老人が近づき、椅子を引いて私の前に座る。その背後にはサリヤが立っている。胸元で重ねた指が、何度も組み替えられていた。


「私が分かりますか、お嬢さん?」

「おじいさん……?」

「よかった。まだ意識は保っていますね。本当に危ないところでした。いえ、今も危険です。このままでは、完全に取りつくまで数時間もありません。また無理をしたのですか?」

「無理……? してないよ、私……」


 言いかけて口を閉じる。


 一日中動き回り、夜通し草を抜いていた記憶が戻ってくる。


「今は何も考えず、話もせず、じっとしていてください。強い鎮痛作用のある香を焚いています」

「うん……ありが――うぅっ!」


 言葉の途中で、頭を引き裂く痛みが襲ってくる。


 前とは比べものにならない。焼けた鉄杭(てっくい)が頭蓋の内側へ突き刺さり、脳を掻き回す。


「はっ……ぁ……っ……」


 喉から掠れた息しか出ない。全身が痙攣(けいれん)し、下半身に生温かいものが広がる。


「お嬢さん! お嬢さん!」


 老人が顔を寄せ、肩を揺さぶった。


(殺して……お願い……)


 頭の中では叫べるのに、声にならない。


 意識が濁り始める。


 ――ドンッ!


 扉が勢いよく開いた。


 飛び込んできたのは、全身を青い液体で汚したカシアンだ。


 腹部では縫い合わせた傷が開き、溢れた血が青い液体と混ざって、脇腹一帯を濁った紫に染めている。肩で息をしながら、背負ってきた巨大な緑色の塊を床へ下ろす。


巌窟鬼(がんくつき)(きも)だ!」


 老人が弾かれた勢いで立ち上がり、そちらへ駆けた。垂れた頭越しに、その姿がぼんやり映る。


 老人は器具を手に取り、肝の一部を切り取って透明な容器へ入れる。


 カシアンが苛立たしげに床を蹴る。


「どれくらいかかる?」

「このままでは気管(きかん)に入る恐れがあります。すり潰して薬液(やくえき)にしなければなりません。もう少しだけ待って――」

「遅い! 肝を飲み込ませればいいのだろう!」

「ええ、それは、そうですが――」


 カシアンは肝を素手で一握り引きちぎり、そのまま口へ含む。そして何度か噛みながら、私のもとへ来る。


 全身の震えが止まらない。体の芯まで凍えていく。


「カシ……」


 名前を呼びきる前に、彼の唇が重なる。


 開いた口の隙間から舌が入り、逃げ場のない私の舌へ、生臭くぬめったものを押しつける。絡んだ吐息が喉の奥まで熱く流れ込む。


 私はどうにか片手を上げ、彼の腕にしがみついた。


 ごくりと喉が動く。そのたび、カシアンは口を離さず、次を飲み込むのを待った。


 喉が熱い。腹の奥にも熱が広がっていく。それなのに、指先から少しずつ感覚が消えていく。


 重くなった瞼が閉じる。


 最後まで残っていたのは、重なった唇の感触。それも遠のいて、意識が途切れた。

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