66話「逆行」
ラサンの水路に沿って、点々と続く灯の上をあてもなく飛んだ。草の匂いを含んだ暖かな風が、羽毛の間を抜けていく。
田では虫が鳴き、水面では何かが絶えず跳ねて、細かな波紋を広げていた。
『アリア、もう帰ろう』
クロノアの声が聞こえたが、返事はしなかった。
『カシアンが探してるよ……?』
「知らない」
カシアンは、守ると。必ず戻ると。
いつもそんなことばかり言う。
私は一度だって、同じ言葉を返したことがない。二人で頼り合うと約束したのに。
(私って、本当に何もできないんだ……)
近くの屋根の端へ降りた途端、脚から力が抜けた。腹を屋根につけ、ぐったりと伏せる。
どこかの家で夕餉の支度をしているのか、炊いた米の香ばしい匂いが漂ってくる。下の道では、子供たちが灯を手に走り回っている。
遠くから、私の名を呼ぶ声も聞こえた。
顔を上げて、声のしたほうを見る。けれど、翼は開かない。
――行かなきゃ。
その言葉だけが頭の中を巡る。肩の羽が持ち上がっては、また伏せる。爪は瓦をつかんだまま離れない。
もう一度名前を呼ばれたとき、私は目を固く閉じた。
どれほどそうしていたのだろう。
家々の灯が一つ、また一つと消え、道を行き交う人の姿もなくなっていた。
夜気に翼が冷えてから、重い体を起こす。
『少し落ち着いた……? そろそろ帰る……?』
「……うん」
宿へ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。
道の向こうを走っていくサリヤの姿が目に入った。片手で目元を押さえ、時折肩を震わせている。
私はその姿をぼんやりと見つめていた。
サリヤが田の向こうへ消えてから、明かりの消えた窓の隙間を抜け、部屋の中へ滑り込んだ。
誰もいない。壁に立てかけてあったカシアンの槍もなくなっている。
卓上に、一枚の紙が置かれている。
――夜は冷える。戻ったら、俺のことは気にせず眠りなさい。
整った字だ。
紙を足で踏んだまま、動けなくなる。
『カシアンは?』
「たぶん、戦士の儀式に行ったんだと思う。十二時になったら行かなきゃいけないって、カシアンが言ってたから……」
足で紙をつかみ、寝台へ飛び乗って鳥の姿を解いた。青い羽毛が消え、人の体へ戻った途端、裸の肌を夜気が撫でる。
脱げ落ちたはずの服は、寝台の上にきちんと畳まれている。
服の上に手を置く。それでも、指一本動かせない。
裸のまま布団へ潜り込み、体を小さく丸める。冷えた布が、じわじわと体温を帯びていく。
目を閉じる前に、カシアンの置き手紙を胸へ抱き寄せた。
乾いた紙の感触が肌に触れると、目の奥が熱くなる。
「ごめんね、カシアン……」
布団を噛み、声を押し殺す。肩がしゃくり上がるたび、胸元の紙に皺が増えていく。
明日、ちゃんと話そう。
無理しないでって。勝たなくてもいいから、怪我だけはしないでって。
その言葉だけを、何度も頭の中で繰り返した。
***
少し先を、カシアンがサリヤと手を繋いで歩いている。
「カシアン! どこに行くの……?」
名前を呼ぶと、カシアンが振り返る。サリヤもこちらへ顔を向ける。
その腕には、真っ黒な髪の子供が抱かれている。
「カシアン……?」
もう一度名前を呼ぶ。カシアンは無表情のまま、冷たい声で言う。
「何だ?」
「サリヤと……そこで何してるの? その子は……?」
カシアンは目を細めて笑うと、子供の頬を優しく撫でる。けれど私へ視線を戻したときには、もう笑っていない。
「見れば分かるだろう。俺の子だ。……もう話すことはないな?」
サリヤがカシアンの頬へ口づけ、私を見て笑う。
二人は背を向け、そのまま遠ざかっていく。
「待って……! 待ってよ……!!」
声の限り叫んだ瞬間――瞼を刺す朝日に、目を覚ました。
顔をしかめて身を起こすと、布団が胸元からずり落ちる。むき出しの体に気づき、慌てて服へ袖を通した。
さっき見た夢を思い出そうとした瞬間、頭の奥を叩き割られるほどの痛みが走った。両手で頭を抱え、歯を食いしばる。
痛みが引いてから腕時計をはめ、時刻を確かめた。
午前十時五十分。
闘技試合が始まるのは、午前十時。
「……え?」
はっと身を起こし、裏返った袖を直すことも忘れて、体を引きずって車椅子へ移った。
部屋を飛び出すと、扉の前に使用人が一人立っていた。闘技場へ向かおうとすると、彼が前を塞ぐ。
「アリア様。サリヤ姫殿下から、本日は安静になさるよう――」
腕を力いっぱい押しのけた。
「どいて!」
操縦桿を倒し、車椅子を最高速度まで加速させる。
闘技場は、ラサンの領地から離れた川沿いの野原にある。ここから優に三十分はかかる。
車輪が石を踏むたび、衝撃が頭の奥まで響いた。乱れた髪が目にかかる。
木の柱に支えられた家々を抜け、緑に埋め尽くされた田畑を越える。
かなりの間走り続けた末、 視界が一気に開け、巨大な川が姿を現した。近づくにつれ、歓声が膨らんでいく。
川辺には、黒く見えるほどの人波が集まっていた。色も紋様も異なる仮面をつけた者たちが三つの群れに分かれ、大きな円を作っている。
歓声を裂いて聞こえてくるのは、鋼と鋼のぶつかる音。
誰も止めに入ろうとしない。戦士が降参を口にするか、立ち上がれなくなるまで、闘技試合は終わらない――サリヤが言っていた言葉が、頭の奥で蘇った。
「待って! 通して、お願い!」
叫びながら人を押しても、びくともしない。横から押し寄せた人波に弾かれ、私は車椅子から地面へ投げ出された。
いくつもの足が、腕を、背中を踏んでいく。
それでも這った。
前へ。前へ。
人垣の向こうに、中央の広場が見えた。
そこに立っていたのは――ラサン族の赤い紋様が描かれた仮面の男。
目元だけを覆う仮面の下から、見慣れた顎の線と、固く結ばれた唇が覗いている。
裸の上半身は傷だらけ。片腕は赤紫色に腫れ上がり、肩より上へ持ち上がらない。もう片方の手だけで、翠蘭の長槍を握っている。
向かいには、マハリ族の戦士。
波の紋様を刻んだ青い仮面。カシアンより頭一つは大きい。胸毛に覆われた巨体、汗に濡れた褐色の肌。その胸元で、鮫の歯を連ねた首飾りが揺れている。
二人の間に立つ進行役が、声を張り上げる。
「万年最下位だったラサン族の戦士! 決勝まで勝ち上がったものの、ラサンの炎もついにマハリの波に屈するのか! おおっ、ラサンの戦士、再び仕掛けた!」
カシアンが槍を握り直し、踏み込む。
突き出した穂先を、マハリ族の戦士は半歩身をずらしていなす。返す槍の柄がカシアンの脇腹を薙ぐ。
体が大きくよろめく。カシアンは二歩下がり、槍を杖代わりにして辛うじて踏みとどまる。
私は人垣の最前列まで這い出し、ありったけの声で叫んだ。
「カシアン、もうやめて! 私は大丈夫だから!」
赤い仮面がこちらを向く。
瞬きを一つしただけだった。
マハリ族の戦士が両足で地を踏みしめ、槍を一直線に突き出す。
カシアンは遅れて槍を上げる。受け止めた柄が真ん中からへし折れ――相手の穂先が、右の肋骨の下を貫く。
「カシアン様!」
向かい側からサリヤの声が上がった。口元を押さえた彼女の体がぐらりと傾き、地面へ崩れ落ちる。
「姫殿下!」
同じ仮面をつけた者たちが、慌ててその体を抱き留める。
広場の中央で、カシアンの体が大きく震える。
「ごふっ……」
口から赤い血が溢れた。
マハリ族の戦士が槍を握ったまま言い放つ。
「よそ見とは余裕だな。もう諦めろ。槍を抜けば、お前は死ぬぞ」
カシアンは答えない。
ふらつきながら体を貫いた槍をつかみ、もう一度、私を見る。
仮面の奥の目とぶつかった。
私は首を振った。
「だめ!」
私が叫ぶと同時に、カシアンは体に刺さった槍の柄を両手で握る。突き出た柄へ下から膝を叩き込むと、太い木が鈍い音を立ててへし折れた。
マハリ族の戦士がすぐさま距離を取る。
カシアンは脇腹に残った槍をつかみ、一気に引き抜く。
鮮血が噴き出す。それでも間合いを詰め、抜き取った穂先を相手の肩へ突き立てる。
「このイカれ野郎が……!」
二人の体がもつれ、地面を転がる。
カシアンが相手の背中へ馬乗りになり、腕を首に回して締め上げる。
マハリ族の戦士が肘で脇腹の傷を打つ。殴られるたびにカシアンの上体が揺れたが、腕は緩まない。
血が地面へ広がり、緑の草を赤く染めていく。
私は地面を這いながら叫んだ。
「もうやめて、お願い! カシアン!」
マハリ族の戦士の抵抗が止まる。
進行役が声を張り上げる。
「これは……! まさか――勝者は、ラサン族代表、カシアンです!」
歓声が爆発した。耳の奥で甲高い音が鳴り続ける。
カシアンがふらつきながら立ち上がる。
「アリア……」
耳鳴りの中でも、その声だけははっきり聞こえた。
脇腹から血が噴き出す。
カシアンの体が前へ倒れた。
私は両肘を地面へ突き立て、必死に進む。砂利に擦れて皮膚が裂けても、腕を止めない。
誰かが背後からつかもうとする。その手を振り払った。
カシアンの周囲では、踏み荒らされた草が血に濡れ、赤黒く倒れている。
体を仰向けにし、傷口へ両手を当てる。手のひらの下から、熱いものが溢れ続ける。
耳の奥が唸り、視界の端が白く霞む。座っているはずなのに、体が何度も横へ傾く。
「大丈夫……アリア、落ち着いて……落ち着いて……」
自分の口から出た声だった。
杖はない。
両手へ、残った意識をすべて集中させた。
「ヒール」
ペンダントが輝き、青い粒子が手のひらを包む。
開いた傷口が塞がる。断ち切られた血管と肉が、再び繋がっていく。だが、傷口はすぐに開き始めた。縫い合わされた肉の隙間から、赤い血がじわりと滲み出す。
唇は黒紫色に変わっている。その隙間に溜まった血だけが、異様なほど赤い。
「どうして……?」
舌の上に、知らない言葉が浮かんだ。
「サエナ・ミル……!」
考えるより先に口にしていた。
体の奥から細い糸を一本引き抜かれる感覚。頭の中がぐらりと揺れる。胸元に黒い線が浮かび、首筋へ這い上がってくる。
カシアンが私の手をつかみ、自分の体から押しのけた。
もう一度傷口へ戻そうとしても、強く握られた手に阻まれる。
彼の口元で血が泡立つ。唇が動く。けれど、声にはならない。
「離して! 早く治さないと……!」
もう一度、手を胸へ伸ばした。
カシアンの指から力が抜ける。私の手がするりと離れ、彼の腕が地面へ落ちる。
とん、と軽い音がした。
「え……?」
肩を揺すった。
動かしたぶんだけ、力なく体が揺れた。
「ねえ……嘘だよね……?」
返事はない。
仮面へ手をかける。震える指が縁を滑り、うまく外せない。
ようやく仮面が外れた。
焦点を失った二つの目。
開ききった瞳孔。
頬には、血なのか涙なのか分からない雫が一筋だけ残っている。
両手で、カシアンの頬を包む。
「いや……っ、いやぁぁっ! カシアン! 嫌、嫌、嫌、嫌ぁぁぁっ!!」
彼の顔を胸へ抱きしめ、声が潰れても叫び続けた。喉の奥が焼けつき、次の声を絞り出すたびに鋭い痛みが走る。
頬には、まだ温もりが残っている。
昨日まで私を背負ってくれた背中。穀粒を手のひらに載せてくれた手。頬を拭ってくれた指。
全部、ここにある。なのに、もう何一つ動かない。
歓声も、耳鳴りも聞こえない。
世界から、音が消えていく。
その静寂の中で、私は最後に唇を開いた。
「時よ――戻れ」




