65話「身勝手」
目を閉じると、食卓で聞いた言葉が蘇った。
寝る前に薬を飲んだのに、寝返りを打つたび、こめかみの奥がずきずきと痛む。頭まで布団をかぶっても、何も変わらない。
隣では、カシアンが壁のほうを向いて横になっている。
私は心の中で呼びかけた。
「クロノア。眠れない」
『頭が痛むから……?』
「それもあるけど……」
布団から片手を出し、額を押さえる。
「私、もうすぐ死ぬのかな」
クロノアから返事はなかった。
「脳死って、死んじゃうのと同じでしょう? 頭の中を全部取られて、もう何もできなくなるんだから」
『アリア……』
「おじいさんが言ってた。すごく痛いんだって。今より、ずっと」
指先が布団を掴んだ。
「あんまり痛くなったら……もう、死んじゃったほうが楽なのかな」
『駄目!』
頭の中に響いた叫び声に、肩が跳ねた。
「どうしてそんなに大きな声を出すの……」
『それだけは絶対に駄目。君の命が尽きたら、封じられている魔力が一気に噴き出すの』
「噴き出す?」
『うん。死ぬのは君だけじゃない。この宿も、周りの村々も、全部吹き飛ぶかもしれない』
唇を開いたまま、言葉を失った。
「私が……爆弾みたいなものってこと?」
『ちょっと違うけど、結果だけを見ればそうなる』
「どうして、私にそんなことを……?」
今度も、すぐには答えが返ってこなかった。
しばらくして、クロノアが声を落とした。
『……君を守ろうとしたんだと思う。誰かが殺そうとしても、簡単には手を出せないように』
目の前に手をかざし、何度か握っては開いた。
「やっぱり私、何か悪いことをしたのかな……? 頭には虫がいるし、崖でも私を追いかけてきた人たちがいたし」
『……違う。君は悪くないよ』
それきり、私たちは黙り込んだ。
カシアンの穏やかな寝息と、窓の外から届く虫の声だけが暗闇を満たしている。
天井を見つめながら、首にかけたペンダントを握る。
「それなら、頭だけ時間を止められないの? ベヒモスと戦ったときみたいに。頭だけ止めれば、脳糸虫も動けなくなるでしょう?」
『できなくはないけど……君の頭も一緒に止まるよ』
「それで?」
『考えることも、見ることも、体へ命令を出すこともできなくなる』
「何それ。全然役に立たないじゃん」
『時間の権能は、そんなに都合のいいものじゃないの!』
首元のペンダントを握り直し、青い魔力石を親指でなぞった。
「じゃあ、いったい何ができるの? ちゃんと教えて」
クロノアが小さくうめいた。
『この世界にあるものなら、何にでも時間の干渉はできるよ。物ひとつ、人ひとりなら少ない魔力で済むけど、範囲が広がるほど消費も増える』
「世界全部を止めることもできるの?」
『できるよ。ただ、時間の流れから逃れられる命なんてない。世界を丸ごと止めたら、わたしと一つになった君以外、誰も動けなくなる』
「過去へ戻るのは?」
クロノアはしばらく間を置いてから答えた。
『……それもできる。ただし、時間を止めるより、はるかに多くの魔力が必要になる。世界全体の流れを、逆向きに押し戻さなければならないから』
ペンダントを持ち上げ、月明かりにかざした。青い魔力石の内側で、淡い光が波打っている。
「今ここに入っている魔力なら、どれくらい戻れる?」
『まだたくさん残っているけど……全部使っても、せいぜい一日くらいかな』
「私一人でもできる?」
『うん。わたしは君で、君はわたし。夜でなくても、君自身の魔力で権能を使えるよ。わたしがやったときと同じ。時間に命じればいいの』
ベヒモスと戦ったとき、クロノアが叫んだ言葉を思い出した。
ペンダントを強く握り、口を開く。
「時よ――」
青い光が指の隙間から閃いた。
『待って、待って、待って! 何をするつもりなの! 理由もないのに権能を使ったら、魔力の無駄遣いでしょう!』
「この部屋だけ、試しに止めてみようかと思って……」
『試しでも駄目! 必要もないのに権能を使ったら、魔力の無駄遣いでしょう!』
唇を尖らせ、ペンダントから手を離した。
「でも、過去へ戻れば、使った魔力も戻るんじゃないの? それなら、何回でもやり直せるでしょう」
『戻らないよ』
「ええ……」
布団を鼻先まで引き上げ、その端を指で何度かこすった。
『魔力は時間を動かすための燃料だから。権能へ捧げた魔力は、時間の流れの外側で消費されるの。過去へ戻っても、一度燃やした分までは補充されない』
「不便なことばっかり」
『時間を自由に動かせるだけでも、ものすごいことなんだからね!』
「分かったよ……勝手に使わなきゃいいんでしょう」
クロノアはまだ何かぶつぶつ言っていたが、もう答えなかった。
横を向き、カシアンへ目を向ける。
包帯を巻いた腕が、布団の外へ出ていた。私はそこへ手を置きかけ、触れる前に引っ込めた。
――戦わせちゃ駄目。あの腕では、駄目だ。
胸の内で、何度も自分に言い聞かせた。言葉は喉までせり上がってくるのに、そのたび奥へ沈んでいく。
布団に顔を半分埋め、カシアンの寝息だけを数えた。
一つ、二つ、三つ。
いつしか痛みも、考えも、遠くなっていた。
***
翌朝、カシアンは闘技試合に出ると告げた。そのまま訓練場を確認するため、部屋を出ていった。
私は寝台に座り、閉じた扉を見つめていた。肩から力が抜け、長い息がこぼれる。膝に置いた両手は、次第に固く握られていった。
ほどなくして、扉を叩く音がした。
サリヤが茶を載せた盆を持って入ってくる。
「昨夜はよくお休みになれましたか?」
「うん……」
彼女は寝台脇の卓へ盆を置いた。茶器から甘い花の香りが立ちのぼる。
「頭痛が続いていると伺いました。このお茶には、鎮静作用のある薬草が入っています」
サリヤは自ら茶を注いでくれた。手つきも声も穏やかだった。
受け取った茶を一口飲む。温かさが喉を通っていったが、こわばった体はほぐれない。
彼女は向かいの椅子に腰を下ろした。
「カシアン様が闘技試合に出ると決められたそうですね」
「……うん」
「お止めにならなかったのですか?」
茶器を包む指に力が入る。
「カシアンが決めたことだから」
「その決断が誰のためなのかも、分かっておいでなのでしょう」
顔を上げると、サリヤは変わらず微笑んでいた。
私は一度唾を飲み込んだ。
「カシアンは頭もいいし、強いよ。必ず勝つ」
「本当にそうお考えですか?」
「うん。カシアンを信じているから」
サリヤの笑みが薄れた。
「そう信じたいだけではありませんか?」
「どういう意味……?」
彼女は短く息を吐き、扉へ目をやった。
「カシアン様が無理をなさっていると、気づいていないのですか? 目元を見る限り、ここ数日はまともに休めてもいません。そのうえ、今度は魔力も使えない状態で、翠蘭でも屈指の戦士たちと戦うのですよ」
気づけば、両手は茶器を強く抱え込んでいた。
向かいから、サリヤが自分の茶器を卓へ戻す音が聞こえる。
「一つ、伺いたいことがあります。アリアさんにとって、カシアン様はどのような方なのですか?」
頭の中が乱れた。
一緒に絵を描いた日々。滝の前で抱きしめられた瞬間。翠蘭へたどり着くまでに起きた、いくつもの出来事。
記憶が次々と胸の内へ浮かんでくる。
「友達だよ。大切な、友達」
答えると、サリヤはしばらく黙っていた。片手を胸元へ添え、もう一方を膝の上に重ねる。
「私は、カシアン様をお慕いしています。友人としてではなく、一人の女として。交流を重ねるうちに、あの方の妻になりたいと願うようになりました」
胸の奥が大きく揺れた。
「ですから、アリアさんから伝えてください」
「何を……?」
「闘技試合をやめて、私と結婚して、と」
彼女の視線を受け止めるうちに、鼓動が速くなっていく。
「嫌だ」
サリヤの眉がかすかに動いた。
「なぜです? 彼はただのお友達なのでしょう。私と婚姻を結んでも、お二人の関係が失われるわけではありません」
「それでも嫌」
「それでは、命を落とすかもしれない闘技試合へ送り出すのですか?」
「カシアンは死なない」
「どうしてそう言い切れるのです?」
私は答えられなかった。
サリヤが椅子の背へ身を預ける。最初の柔らかな笑みは、もう消えていた。鋭い茶色の瞳が、まっすぐ私へ向けられる。
「……身勝手な子ですね。自分の望むものは手放したくない。代償を払うのが他人なら構わない――そういうことでしょう?」
「違う! 私だって、カシアンが傷つくのは嫌。死ぬのは、絶対に嫌だよ!」
声が室内に響いた。
サリヤの肩が跳ねた。私へ向けられていた視線が、布団の裾へ落ちる。
そこから覗く、動かない二本の脚。
膝の上で重ねられた彼女の指が、固く絡み合う。
「あなたは……カシアン様のおそばで、何をして差し上げられるのですか?」
サリヤは伏せていた目を上げる。
「王子の妃となれば、後継者を産まなければなりません。そのお身体で、それすらかなうかどうか……」
顔が一気に熱くなった。慌てて布団を引き上げ、脚を隠す。
「カシアンは、そんなことで人を決めつけたりしない……!」
「もちろんでしょう。あの方にとって、あなたは女ではありません。哀れで、世話をしてやらなければならない子供でしかないのですから」
息が詰まった。
違う、と唇を動かす。けれど、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。
サリヤの声も、次第に震え始めていた。指がスカートを握りつぶし、呼吸が浅くなる。
「あなた方は寿命も短いのでしょう。運よくカシアン様のおそばに立てても、先に逝き、あの方を一人残すことになる。それでも、隣にいたいと言えるのですか?」
その言葉が落ちると、部屋は静まり返った。
私はサリヤを睨み返したまま、唇ひとつ動かせなかった。
彼女が立ち上がる。椅子の脚が床を短く擦った。扉の前まで進んだサリヤは、こちらを振り返る。
「アリアさんが一言おっしゃれば、カシアン様は闘技試合を諦めるはずです」
取っ手にかけた手が、しばし止まる。
「どうか、よくお考えください。カシアン様を失ってから悔やんでも、遅いのですから」
扉が閉じた。
卓上の茶からは、もう湯気が立っていなかった。
遅れて両手を振り下ろし、寝台を強く叩く。痛んだのは、手のひらだけだった。
***
日が沈み、辺りがすっかり暗くなった頃、カシアンが戻ってきた。
衣服は汗に濡れ、背中へ張りついている。右の袖は肩口から大きく裂け、腕には新しい赤い痣がいくつも重なっている。
その姿を目にした途端、サリヤの言葉が耳の奥に蘇る。
――カシアン様が無理をなさっていると、気づいていないのですか?
カシアンは槍を壁へ立てかけ、こちらへ歩いてきた。
「今日は頭の具合はどうだった?」
「……平気」
「薬は飲んだのか?」
答えずにいると、彼が身をかがめ、私の顔を覗き込んだ。
「アリア?」
裂けた袖の隙間から覗く赤い痣が、やけに大きく見えた。
唇を一度強く噛み、顔を上げた。
「カシアン。もう……結婚すればいいよ」
彼の動きが止まった。
「何の話だ?」
「サリヤと結婚して」
カシアンの眉間に皺が寄る。
「朝は何も言わなかったではないか」
「考えが変わったの」
「俺の顔を見て言え」
私は俯き、膝の上の指先だけを見つめた。
伏せた視界にカシアンの手が伸びてきたが、顎に触れる寸前で止まる。
「サリヤ姫が来たのか?」
「来てない」
「嘘だな」
「違うってば!」
布団を強く握り締めた。
「結婚しちゃえばいいじゃない。そうしたら闘技試合に出なくていいし、怪我もしない。鉱山にも行けるし……全部うまくいくじゃない」
「それで、本当に全部うまくいくのか?」
彼の声が低く沈んだ。
「その選択で君が苦しむことになっても、いいと言えるのか?」
「私は苦しくない」
「ならば、なぜ泣いている?」
彼の親指が、私の目元を拭った。いつの間にか、頬が濡れていた。
「……頭が痛いせいだよ」
「先ほどは平気だと言っただろう。それに、俺はサリヤ姫と婚姻を結ばない」
「どうして……? どうして、そこまで拒むの……?」
カシアンは片膝をついた。片腕を膝へ載せ、私と視線を合わせた。
「言ったはずだ。王族の婚姻は、俺一人で決められるものではない。それに、何より――」
涙で頬へ張りついた髪を指で掬い、耳へかけてくれた。
「君がこんな顔をしているからだ。それ以上の理由がいるか?」
「それでも、結婚しなきゃ駄目なの! どうせ私、長く生きられないし、歩けないし……子供だって産めるか分からない。魔力もないくせに、欲張りで、身勝手な女だから。だから、私のことなんて気にしないで……!」
涙が次々とこぼれ、目の前が滲んだ。
「誰にそんなことを言われた?」
「誰にも……」
カシアンは深く息を吐き、前髪を掻き上げた。立ち上がりかけた彼の腕を、私は反射的に掴む。
「行かないで……」
「サリヤ姫と話をしに行くだけだ」
「駄目。何も言わないで」
「ならば、俺に話せ。なぜ突然、そんなことを言い出した」
唇を動かしても、声は出なかった。
何度も口を開き、そのたびに下唇を噛んで俯く。
カシアンが再び私の前へ腰を下ろした。
「俺は闘技試合に勝つ。だから心配するな」
「死ぬかもしれないのに」
「死なない」
「どうして分かるの!」
「必ず君を救うと約束したからだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが千切れた。
「カシアンのバカ……」
涙を乱暴に拭い、目を閉じる。
体が縮み、服が寝台へ崩れ落ちる。青い羽毛に覆われた翼を広げると、伸ばされたカシアンの手が空を掴む。
「アリア!」
開いた窓から、夜の空へ飛び出した。
背後でもう一度名前を呼ばれたが、振り返らなかった。




