64話「婚姻」
宿に荷物を置いたあと、私たちは屋敷の奥に設けられた食堂へ案内された。長い食卓の片側に私とカシアンが並び、向かいにはサリヤと両親が席を占めている。
ラサン族の族長ルワン・ラサンは、日に焼けた褐色の肌と広い肩を持つ壮年の男だった。黒髪をうなじで一つに束ね、薄手の白い衣の上から、金糸の刺繍を施した赤い布を斜めにまとっている。
使用人たちが途切れることなく料理を運んできた。
大きな葉に包んで蒸した白米に、香辛料で黄色く染まった炒め飯。香草をふんだんに載せた川魚の焼き物や、赤い香辛料をまとった鶏肉も食卓を埋めていく。
皿が増えるにつれ、甘さを帯びた刺激的な香りが入り交じり、鼻をくすぐった。
目の前に置かれた白い飯を眺めていると、ルワン族長が朗らかに笑った。
「ラサン族自慢の米料理です。北ではめったに見かけない穀物だと聞いておりますが、お口に合うかどうか」
代わってカシアンが答える。
「交易が続いているおかげで、近頃は王国にも広く出回っています。王宮では毎朝、パンより先に米料理がなくなるほどです」
「はは、それは光栄ですな。農民たちが聞けば、さぞ喜ぶでしょう」
二人の間に、和やかな笑いがこぼれた。
私はスプーンを手にしたまま、食事を始めてよいのか周囲を窺う。
「あの……もう食べてもいいの?」
ルワン族長の隣に座る夫人が、柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
「もちろんです。冷めないうちに召し上がってください、アリアさん」
おそるおそる一匙すくい、口へ運んだ。
細長い米粒が舌の上でほどけ、噛むほどにほのかな甘みが広がっていく。隣の赤い鶏肉は舌先が痺れるほど辛かったが、飯と一緒なら刺激も心地よい。
気づけば、次の一口をすくっていた。
顔を上げると、族長夫人の笑みが深くなっている。サリヤも向かいの席からこちらを見て、穏やかに口元を緩めていた。
けれど、カシアンの皿だけは運ばれてきたときのままだった。フォークに手を添え、ルワン族長をまっすぐ見据えている。
ルワンは飯をすくいかけた手を止め、先に本題を切り出した。
「さて、カシアン王子。サリヤから話は聞いております。魔力石鉱山を占拠している巌窟鬼を討伐したいそうですな」
「そのとおりです。鉱山内部の構造と巌窟鬼に関する記録を提供していただければ、明日にでも出発します。道案内と必要な装備だけ、用意していただきたいです」
ルワン族長はカシアンの表情をひとしきり見定め、何食わぬ顔で飯をすくった。
「許可できません」
カシアンの指が止まり、手にしていたフォークを音もなく食卓へ戻した。
「どういう意味です、ルワン族長。ラサンの使節団が王都を訪れた際、あなた方も巌窟鬼の討伐を望んでいると明言したはずです。カダラ族が王国軍の部隊を受け入れることに反対したため、少数精鋭のみを派遣する方針で合意したと聞いています」
ルワンは飯を口に運び、念入りに噛んだ。水で喉を潤してから杯を置く。
「そのとおりです。意外でしたな。王子殿下がそこまで詳しくご存じとは思いませんでした」
「魔力石の調達に関わる問題です。知らずにいるわけにはいきません」
「なるほど。しかし、それは使節団が王国へ発った時点での話です。彼らがこの地を離れたあと、状況が変わりました」
カシアンの目が険しく細まった。
「何が変わったのですか?」
ルワンは答えず、控えていた使用人へ片手を上げた。
使用人は一礼して退室し、ほどなく蓋のついた皿を手に戻ってきた。
ルワンが蓋を取る。
その下から現れたのは、全身が真っ黒に変色した魚だった。鱗はところどころめくれ上がり、焼け焦げた紙のように黒く縮れている。その隙間から覗く身も、濡れた灰を練り固めた不気味な色をしていた。
カシアンが目を見開いた。
「それは……!」
「マハリ族の沿岸で捕れた魚です」
ルワンはそれだけ告げて蓋を戻し、使用人に皿を下げさせた。眉間を指で押さえながら、低く息を吐く。
「おそらく、あなた方が黒雪と呼ぶ災厄の仕業でしょう。この魚も……魔物と呼ぶのでしたかな」
「いつから、あのような魚が捕れ始めたのですか?」
「三か月ほど前からです。今では網にかかる魚の半分が、あの有り様だ。生きていても食べられず、土に埋めれば周囲の草まで黒く枯れる。口にした者は血を吐き、数日と持ちません」
族長夫人からは笑みが消え、サリヤもスプーンを置いて俯いていた。
「マハリ族は海辺で暮らしています。魚が消えれば、彼らには何も残らない。そこで我々に、米を通常の半値にも満たない価格で売るよう求めてきたのです」
「ラサン族は断ったのですね」
ルワンが重々しく頷く。
「あの値で穀物を渡せば、今度は我々の農民が飢えます。しかしマハリは、それを裏切りと受け取った。現在、彼らの武装船が河口に集まりつつあります」
先ほど見せられた魚が頭から離れなかった。あれほど甘く感じた飯も、喉を通ってくれない。
カシアンはルワン族長へ向き直った。
「本題に戻りましょう。その問題と、巌窟鬼の討伐には、どのような関係があるのですか?」
「巌窟鬼は、マハリ族が崇める神獣なのです。海岸の洞窟深くに棲む、青い鱗を持つ巨大な岩蟹で、水中でも生きられる。ただし、生涯の大半は洞窟内の岩場で過ごします」
「海岸に棲む怪獣……? 魔力石鉱山は内陸部にあるはずでは?」
「そのとおりです。しかし鉱山の最深部には、海へ続く地下水脈がある。何よりマハリ族は、巌窟鬼を海神が陸へ遣わした子だと信じています。我々にとっては鉱山を奪った怪物にすぎませんが、彼らにとっては刃を向けることさえ許されぬ存在なのです」
ルワンが食事を再開すると、サリヤと夫人もスプーンを取った。カシアンは皿へ手を伸ばさず、険しい表情で話を受け止めている。
「巌窟鬼を倒せば鉱山は開放される。しかし同時に、マハリ族へ進軍の大義を与えることになる、ということですね」
「まさしく。しかも彼らには、海のあらゆる怪獣と戦い続けてきた経験がある。農業と薬草栽培を生業としてきた我々では、数日も持たないでしょう」
「……では、使節団はなぜ、その事実を王国へ知らせなかったのですか?」
ルワンが娘へ目を向けた。サリヤが、伏せていた顔を上げる。
「私たちが使節団として出発した頃、黒い魚が捕れていたのは沿岸の一部だけでした。これほど広がるとは、誰も考えていなかったのです。黒雪という災厄や魔物についても聞かされていましたが、皆、根も葉もない噂だと片づけてしまいました」
「グランデル家は、この事実を知っているのですか?」
杯を持ち上げかけたルワンの手が宙で止まった。
「グランデル家の使者はここまで訪れましたから、知っています」
食卓の下で、カシアンの指が固く握り込まれる。
「彼らは何と?」
「魔物ではないと言っていました。黒雪が海に影響を及ぼすことはない、と。そのせいで、マハリ族の王国に対する信頼は地に落ちた」
返事はなかった。皿に載った肉から、細い湯気だけが失われていく。
スプーンを置き、カシアンの横顔を窺った。
表情は変わっていない。けれど、顎の筋肉が硬く張り、噛み締めた歯の形が伝わってくる。
食器の触れ合う音さえ途絶えた食堂で、カシアンが静かに口を開いた。
「黒雪は、すべての者が手を取り合わねばならない未曾有の災厄です。マハリ族の漁業被害と、翠蘭への食糧支援策――どちらも私が責任を持って進めます」
「ありがたい。しかし、急いだほうがよいでしょう。部族同士が争い始めれば、魔力石も金属も、王国が必要とする物資の供給に大きな支障が出ますからな」
カシアンは頷いたものの、なおも引き下がらなかった。
「では……巌窟鬼を倒す方法は、本当にないのですか。たとえば、少人数で密かに鉱山へ入り、討ち取ることができれば、マハリ族に知られずに済む可能性はありませんか」
ルワンが片手を食卓についた。
「カシアン王子。サリヤが聡明な方だと言うので期待しておりましたが、どうやら娘はあなたを買いかぶっていたらしい」
低い声が、食堂の空気を一変させる。
「河口にはマハリの武装船が集まっていると、今しがた申し上げたばかりでしょう。鉱山へ誰が出入りしたか、彼らが気づかないとでもお思いですか? そもそも一国の王子が、護衛の一人も伴わずにこの地まで来ていること自体、あまりに軽率です」
カシアンは反論せず、顔を伏せた。
食卓の下へ手を伸ばし、彼の手に触れてみる。だが、指先はぴくりとも動かなかった。
「お父様、言い過ぎです! 切羽詰まった状況なのですから、焦るのも無理はありません」
サリヤにたしなめられ、ルワンはひとつ息を吐いた。その視線がこちらへ向き、私は反射的に俯き、スプーンを持ち直す。
「方法が、まったくないわけではありません」
「どのような方法ですか?」
カシアンが顔を上げると、サリヤは父親の袖を掴んだ。
「お父様……! あの話は、もうなかったことになったはずです」
ルワンは片手を上げて娘を制し、話を続ける。
「マハリ族がラサンへ攻め込めぬほど強固な盾を得られるのなら、巌窟鬼を倒しても構いません。いや、私自ら討伐に協力しましょう」
「その盾とは?」
隣に座るサリヤへ、ルワンが手を差し出した。彼女はためらいながらも、その上へ自らの手を重ねる。
「カシアン王子殿下。改めて提案いたします。娘のサリヤと婚姻を結んでいただきたい」
スプーンが器の縁に当たり、澄んだ音が響いた。それを聞いて初めて、自分の手から力が抜けていたことに気づく。
向かいに座るサリヤへ目が向いた。こちらを避けて顔を逸らし、落ち着かない手つきで髪に触れている。それでも横目では、カシアンの反応を窺っていた。
カシアンが静かに聞き返した。
「婚姻、とおっしゃいましたか?」
「ええ」
ルワン族長は、サリヤの手の甲を軽く叩いた。
「翠蘭の姫がルーンヘルム王家の王子と婚姻を結べば、マハリ族も軽々しく兵を動かせなくなる。ラサンを攻めた時点で、霜嶺王国の王族まで敵に回すことになりますからな」
「私個人の婚姻によって、王国の軍事介入を約束することはできません」
「それくらいは承知しております。しかし、実際に軍を送ることと、必要とあらば送り得ると示すことは、まったく別の話です」
ルワンは杯を傾けて唇を湿らせた。
「我々は鉱山を取り戻し、王国は魔力石を確保する。殿下は必要な薬を手に入れ、サリヤは王子妃となる。誰一人として損をしない取引だと思いますが」
カシアンの目がサリヤを捉えた。
「サリヤ姫も、同意しているのですか?」
サリヤは食卓の上で、両手を固く組み合わせた。
「翠蘭を守れるのであれば、お受けします」
声は淡々としていた。ただ、頬には淡い赤みが差している。
私は手首に巻いた時計を指でなぞった。カシアンと同じ形をした、色違いの二つの時計。
婚姻。
その言葉が何を変えるのかは、私にも分かっていた。それなのに、考えが先へ進まない。カシアンとサリヤが並んで立つ姿を思い浮かべかけるだけで、胸の奥がきつく締めつけられた。
「ほかに方法はありませんか?」
カシアンが尋ねると、ルワン族長は目を細める。
「王子は、サリヤとの婚姻がお気に召しませんかな? 以前の使節団が王都を訪れた際にも、それとなく話を持ちかけたと聞いておりますが」
「私一人の気持ちで決められることではありません。婚姻は両国の関係だけでなく、王位継承にも影響します。まして父上が病床にある今、この場で即答するわけにはいきません」
「さすがは王子らしいお答えだ」
ルワンは笑ったが、カシアンの口元は動かなかった。
「まずは……ほかに方法があるのなら、聞かせてください。すべてを知ったうえで判断します」
沈黙したルワンが、食卓を指先で三度叩いた。
「二日後、三部族の戦士が集う闘技試合が開かれます」
サリヤがはっと顔を上げる。
「お父様!」
鋭い声が食堂に響く。それでもルワンは取り合わなかった。
「ラサン、カダラ、マハリ。各部族が代表の戦士を一人ずつ出し、最後まで勝ち残った者の部族には、次の部族会議で一つだけ、三部族すべてを拘束する裁定を下す権利が与えられます」
ルワンは組んだ両手に顎を載せ、カシアンの出方を窺った。
「我々には、これといった戦士がいない。北の者は武術にも秀でていると聞きます。カシアン王子、あなたがラサンの代表として出場し、勝利なさい。そうすれば、我々はマハリ族に休戦を命じ、その期間に限って巌窟鬼の討伐を認めます。あなたは、その猶予を使って食糧問題を解決すると約束していただきたい」
「……三部族のいずれにも属さない私にも、出場資格があるのですか?」
「異国の者でも、族長が客員戦士として迎えれば資格を得られます。そもそも、戦士たちは部族を象徴する仮面をかぶる決まりですから、正体を知られる心配もないでしょう」
カシアンは短く息を吐いた。
「それなら、その方法を選びます」
「いけません!」
サリヤが食卓に手をついて立ち上がった。椅子が床を擦り、耳障りな音を立てて後ろへずれる。食堂にいる全員の目が集まる。
サリヤは父親を睨み、それからカシアンへ向き直る。
「カシアン様は、あの試合がどのようなものかご存じありません」
「武器を手に戦うのでしょう?」
「使うのは練習用の武器ではありません。降参できなければ、命を落とすこともあります。去年は二人が手足を失い、その前年にはカダラの戦士が闘技場で死にました」
サリヤの目が、カシアンの腕に巻かれた包帯へ落ちる。
「それに、カシアン様はすでに負傷しているではありませんか」
カシアンも自らの腕を見下ろした。
「剣を握れるなら、戦えます」
「魔力も使えません。扱う武器も北の剣ではなく、翠蘭の伝統的な槍です。その条件でマハリ族の戦士に勝つなど、無理です」
ルワン族長が娘の言葉を補った。
「闘技試合は、純粋な武術を競う場です。火薬も機械装備も、当然ながら魔力も使えない。規則を破れば即座に失格となり、場合によっては三部族を侮辱した罪まで問われます」
カシアンは食卓の一点を見たまま黙っていた。包帯の巻かれた腕を曲げ伸ばし、指を握っては開く。
「構いません」
「カシアン王子殿下!」
サリヤが声を上げた。族長夫人が娘の手首を掴んだが、サリヤは腰を下ろそうとはしなかった。
「あの娘一人を救うために、命まで懸けるおつもりですか……?」
誰も言葉を発しなかった。
カシアンの黒い目がサリヤを射抜く。
「サリヤ……そこまでになさい」
族長夫人の低い声に、サリヤは唇を噛んだ。彼女は目を伏せ、力なく椅子へ腰を下ろす。
ルワン族長が咳払いをして、途切れた話を引き取った。
「婚姻を選べば、血を流す必要はない。一方、闘技試合では、誰も王子の命を保証できません。婚約についても闘技試合の場で公表すればよい。どちらを選ぶにせよ、二日あれば十分でしょう」
カシアンがこちらを見た。目が合うなり、私は顔を伏せ、器の底を見つめた。
戦わないでと言えば、カシアンはサリヤと結婚する。なら結婚してと言えるのか。そう考えても、喉が塞がったまま声にならない。
行き場を失った考えが、頭の中でぶつかり合う。薬で治まっていた痛みまで、こめかみの奥からせり上がってくる。
「今日ここで決めるべき問題ではないでしょう」
カシアンはそう答えてから、サリヤへ顔を向けた。
「それから、サリヤ姫。私がここまでするのは、アリアを救うためだけではありません。魔力石の供給と、黒雪への備えのためでもある。そのことは理解していただきたい」
サリヤは何も言わなかった。唇を噛んだまま俯き、目の縁を赤く滲ませている。
「よろしい。明日、日が沈むまでにお答えください。どちらを選ぶのか」
「時間をいただき、感謝します」
それきり、カシアンは料理に手をつけなかった。
食事が終わり、使用人たちが器を片づけ始めた。
カシアンは席を立つと私の隣へ回り、車椅子の取っ手を握った。
「日もほとんど暮れた。宿へ戻って、今日は休もう」
「押さなくても平気だよ。ここを押せば勝手に動くんだから。ほら、こうやって――」
「その必要はない。俺が押す」
言葉を遮られ、開きかけた口を閉じた。黙って車椅子を押される間、膝の上で指先を何度も組み替える。
食堂を出る前に振り返ると、サリヤは席に座ったまま私たちを見ていた。目が合った途端、向こうから顔を背けた。
***
屋敷の外は、食堂よりもずっと暗かった。
軒先に吊るされた灯籠の光が水路に映り、風を受けて細長く揺れている。水田からは名も知らない虫たちの声が絶えず聞こえ、暖かく湿った風が頬を撫でた。
カシアンは口を閉ざしたまま、宿へ向かって歩いていく。
首に巻かれた包帯の隙間から、ベヒモスとの戦いで負った傷が覗いていた。赤黒い傷痕。
そこへ手を伸ばしかけたものの、触れる前に指を引っ込めた。
「カシアン」
「どうした」
「……本当に、戦うの?」
車椅子を押す足取りが鈍った。
「まだ決めていない」
「サリヤと結婚するかもしれないの?」
返事はなかなか聞こえてこなかった。虫の声に混じって、車輪が土を踏む音だけが続く。
「君の命を救い、王国を守るために必要な選択をする」
膝の上で握り込んだ指に、さらに力が入った。もう一度問いかけようとして、結局、唇を閉じる。
宿へ着くと、カシアンが扉を開けた。暗い室内へ月明かりが細長く差し込み、床に白い帯を作る。
寝台の端へ私を下ろしたあと、カシアンは何も言わず、机の前の椅子へ腰を下ろした。
離れて座る二人の間で、色の違う二つの時計が静寂を刻んでいる。
ちく、たく。
明日、日が沈むまで。
残された時間が、その小さな音に合わせて削られていった。




