63話「五日」
翠蘭に入ってから、早くも三日が過ぎた。
私たちはひたすら南下し、この国を治める三部族の一つ、ラサン族の領地〈ハラム・ラサン〉を目指していた。
辺り一帯には水田が広がっている。人の腰丈まで伸びた稲が水を張った田にびっしりと並び、風を受けるたび、緑の波が幾重にも走る。
田と田の間には細い畦道が網の目を描き、つばの広い笠をかぶった人々が、脛まで水に浸かって腰を屈めている。水面には空が余すところなく映り込み、一面の水鏡となってきらめいた。
その景色を眺めていると、頭の奥がまたずきりと痛んだ。
カシアンが馬を止め、こちらを覗き込む。
「アリア、大丈夫か?」
揺れが収まるにつれ、痛みも徐々に遠のいていった。
私はヴァルマにもらった髪紐を解き、頭を振って髪を背中へ流す。外した髪紐を懐へしまってから答えた。
「……大丈夫。これくらい我慢できるよ。だから、急いで。もう時間がないんだよね?」
返事の代わりに、肩へ手が添えられた。そのままカシアンの胸元へ引き寄せられ、硬い胸板が背中を支えてくれる。
手綱が引かれ、馬は再び走り出した。
「もうすぐ着く。あとしばらく辛抱してくれ」
「うん……」
***
穀倉地帯を抜けると、土壁と木柵に囲まれた大きな集落が現れた。
中央には幅の広い石段があり、その上に横長の木造建築がそびえている。軒から吊るされた穀物の束と真鍮の鈴が、風に揺れて音を立てていた。
入口を守る兵が槍を斜めに構え、行く手を塞ぐ。
「族長にお目通り願いたい」
カシアンが流暢な翠蘭の言葉で告げると、兵はカシアンを上から下まで見回す。次いで、視線が私の頭頂部へ移る。
慌てて頭を伏せ、髪の根元に覗く白を手で覆った。
「約束のない者は通せない。それに、あんたたちはよそ者だろう。白い肌に、その堅苦しい話し方……北から来たのか?」
カシアンは懐から何かを取り出し、兵の前へ差し出した。手のひらほどの黒い木牌に、稲穂と星が並んで刻まれている。
「使節団が王都を訪れた折に受け取った証だ。族長へ見せれば分かる」
兵の目が木牌とカシアンの顔を行き来した。奥へ引っ込んだかと思うと、間を置かず戻ってくる。
「ご案内いたします。ただし、武器はこちらでお預かりします」
カシアンは素直に剣を外して渡し、私も杖を預けた。
馬から下りた彼の背に負われ、涼しい影の落ちる廊下を進む。通された客間には、低い卓と座布団が用意されていた。
私たちを迎えに来たのは、濃い茶色の髪を長く編み、片方の肩へ垂らした女性だった。
薄絹の衣をまとい、腕や首には金属の装飾を幾重にも重ねている。背丈はカシアンの鼻先に届くほどで、細い腰から背筋がまっすぐに伸びていた。
「カシアン様……! 本当にいらしたのですね」
「サリヤ姫。突然の訪問を許してほしい」
「伝報晶は先に届いております。おおよその事情も承知していますが、これほど早くお着きになるとは……」
サリヤは乱れてもいない髪を耳へかけた。視線はカシアンの顔に据えられたままだった。
私は、いつの間にか握りしめていた膝の上の服を離し、できた皺を伸ばした。
「伝報晶を受け取ったのなら、事情は把握しているのだな。すぐにルワン族長へお目にかかりたい。魔力石鉱山に棲む巌窟鬼の討伐について相談がある」
「父は穀倉地帯の視察へ出ており、戻るのは夕刻になります」
そこで初めて、サリヤの目がこちらへ向いた。私の脚に留まった視線が、わずかな間を置いて持ち上がる。
「お待ちいただく間に、こちらの方を診てもらいましょう」
***
サリヤが用意してくれた車椅子は、これまで乗ってきたものとは造りが違っていた。
どこを探しても魔力石が見当たらない。代わりに、肘掛けの先にある操縦桿のボタンを押すと、がちりと歯車が噛み合い、車輪がひとりでに回り出した。
案内された部屋は、乾ききっていない草の匂いで満ちていた。天井には束ねた薬草が隙間なく吊るされ、壁一面を埋める木の引き出しには、それぞれ見慣れない文字が記されている。
目元に深い皺を刻んだ老人が近寄り、私の顔を隅々まで確かめた。
細長い棒を持ち上げると、先端に黄色い光が灯る。目の奥を刺す眩しさに瞼が閉じたが、老人の指がすぐさま押し開いた。
「閉じてはいけません。正面を見てください」
一通りの検査を終えた老人が背後を振り返る。そこにはカシアンとサリヤが立っていた。
光の残像に遮られ、二人の顔はぼやけている。それでも、カシアンの手だけは見えた。腰へ下がっては、剣があるはずの場所を何度も探っている。
「脳糸虫を注入されてから、どれくらい経ちますか?」
「三週間……おそらく、そのくらいだ」
答えを聞いた老人の眉間に、深い皺が寄った。
「さて、お嬢さん。頭痛はどのくらいの間隔で起こりますか?」
「うーん……何日か前までは、たまに痛むくらいだったの。でも今日はひどくて……一時間ごとに痛くなる気がする」
老人は顎髭を撫で、しばし考え込んだ。
「この進み具合ですと、完全に癒着するまであと五日ほどでしょうな」
「何を言っている。完全癒着には最低でもひと月かかるはずだ。まだ十日は残っているのではないか?」
カシアンの声の端が震えた。
「それは、何もせず安静に過ごした場合の話です。ここへ来るまで、身体を酷使するようなことはありませんでしたか?」
「それは……」
カシアンの唇が固く結ばれる。
老人は低く息を吐いた。
「脳糸虫は、脳へ送られる養分を食って生きる虫です。身体を酷使するほど、脳糸虫へ届く養分も減っていく。そうなれば、こいつも生き残るために急いで根を張り、養分を吸い上げようとする」
老人は薬材を並べた卓へ移り、幾つかの容器を手に取りながら問いかける。
「若い御仁。脳糸虫について、どこまでご存じかな?」
「……脳に取りつき、記憶の混乱と知能の低下を引き起こす。ひと月が経てば完全に癒着し、取り除けなくなる。それくらいだ」
老人は呆れたように舌を鳴らした。
「やれやれ。そんな浅い知識しか持たずに患者を連れ回すから、こんな有り様になるのです」
「メガル先生! 言葉を慎みなさい。この方は私の客人です」
サリヤの鋭い声が飛んだ。
前へ出ようとしたサリヤを、カシアンが片手を上げて制した。
「いや、この者の言うとおりだ。備えを怠った俺に責任がある」
老人は二人のやり取りに構わず、説明を続けた。
「脳糸虫は脳へ取りつき、記憶を濁らせ、知能を蝕む。そして完全に癒着すれば、脳の一部となる。そうなってから切り離す術はありません」
言葉を切り、片手で薬材を小さな紙包みへ移していく。
「お嬢さんは、数か月も経たずに死ぬでしょう」
「何だと……?」
カシアンの喉仏が、大きく上下した。
「完全に取りつけば、脳内へ糸状の根を張り巡らせ、神経を内側から侵食していきます。やがて脳の機能は失われ、最後には脳死に至る。その前に、頭痛に耐えかね、自ら命を絶つ者もいます。ゆえに、脳糸虫と呼ばれているのです」
カシアンは震える片手を、もう片方の手で強く押さえ込む。胸いっぱいに息を吸い、細く吐き出す。
「……まだ完全には癒着していないのだな?」
「ええ。激しい頭痛は、こいつが根を張り、自らの居場所を定めている兆候です。癒着が成立すれば、患者は一度意識を失う。そこまで進めば、もう手の施しようはありません」
「薬は、巌窟鬼を倒せば作れると聞いた。それは確かなのか?」
「確かです。巌窟鬼は、あらゆる寄生虫に免疫を持っている。正確には、肝臓に含まれる酵素の働きですがね。肝を取り出し、細かく刻んで飲ませれば、脳内の脳糸虫もひとたまりもありません」
話を終えた老人が、白い粉の入った紙包みを幾つか手に載せてくれた。先ほどまでの険しい表情を和らげ、穏やかに笑った。
「頭痛がひどいときは、これを飲みなさい。幾分か楽になります。足りなくなったら、また言ってください」
「うん……ありがとう……」
私が答えると、カシアンは勢いよく扉を開け放った。
サリヤがその腕を胸元へ抱え込み、必死に引き止める。
「カシアン様、どちらへ行かれるおつもりですか!」
「サリヤ姫、放していただきたい。今から魔力石鉱山へ向かい、巌窟鬼を討ってくる」
腕を振りほどこうとしても、彼女は離れなかった。
二人の姿を眺めていると、胃のあたりに重いものがつかえた。薬包を握る指に力が入る。
「お一人で向かうなど無謀です! 父が戻ってから、共に話し合いましょう。それに、あの鉱山はラサン族だけのものではありません。隣の高原に暮らすカダラ族との共同所有です。カシアン様も、よくご存じでしょう!」
カシアンの腕から力が抜けた。振り返った目が、まっすぐ私を捉える。
「……そのとおりだ。すまない、取り乱した」
こちらへ歩み寄ると、腰を屈めて目の高さを合わせた。私は何も言えず、手の中の薬包だけを見つめていた。
「大きな声を出して驚かせたな。心配はいらない。俺が必ず何とかする。まずは宿へ戻って休もう」
返事の代わりに、こくりと頷く。
私は車椅子を動かし、カシアンと並んでサリヤのあとを追った。




